この戎社には大伴皇子が奉ってある。大友皇子は天智天皇の第一皇子として生まれ、671年太政大臣となり弘文天皇と名を改め天皇の御位に付かれた。ところが天智天皇の死後、皇位継承をめぐる争いが起こり、672年壬申の乱となる。その戦いで敗れ大友皇子は自害して果てた。その亡き皇子の霊を奉るべく皇子の随士であった小澤伊豫掾外3名は皇子の神像を彫刻せしに、憚る所あって鯛及飯等を添えて蛭子(ひるこ)の像と称えて、摂津の国、西ノ宮の神官吉井陸奥守へ請願して、西ノ宮の神官へ勧請し、4名はその神主となりて世襲せしが、明治維新の革命により廃す。戎社の御神体は坐像7寸。日の神及稲玉神を相殿す。
寛保2年(1742)免許状もあり。宝暦11年(1761)9月、松林地6反3畝10歩、領主小田原候大久保大蔵大輔忠共公寄付とあり。その地は網一色村に跨れりと。この地は浜元町422番地である。その前に網一色村の八幡神社境内にあり。今も八幡神社を戎の森と呼ぶ。
明治元年:の神仏分離令が出て最後に神主を勤めたのが小澤數馬であると共に、1200年の歴史を綴った戎社である。
戎社由緒
社の中の戎神