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中山道   (今渡~鏡島(岐阜)

今渡(可児)からは木曽川を越えて太田宿、鵜沼宿、加納宿と平坦な道を進んで行くこととなる。

平成27年5月6日(水) ☀  今渡(可児)~苧ヶ瀬  15.1㎞
前日は新可児に宿を取ったため日本ライン今渡まで出て、今渡神社の近くにある龍洞寺からスタートすることとなった。今日も天気は良くて街道歩きには申し分ないが、これまでのように日陰となる部分は少ない。

龍洞寺 富士浅間神社 弘法堂 今渡の渡し場跡
今渡公民館南交差点の先右手に臨済宗の龍洞寺がある。
寺標の後ろに庚申塔、三十三体の観音像があり、山門は四脚門で高く、境内には天正年間の龍洞寺起縁の名石と伝わる龍の枕石、観音堂などがある。
街道がY字路になる右手に富士浅間神社がある。
元禄時代の創祀と伝えられ、祭神は木花咲夜比賣神で境内に神明神社、金刀比羅神社、稲荷神社、大國神社、天神神社、南宮神社、貴船神社の七社あったが、昭和3年本殿幣殿拝殿の改築と共に合祀したといわれている。
富士浅間神社前のY字路を直進すると右手に弘法堂への入口があり、標柱には別格今渡弘法大師旧跡ときざまれ、側面には奉祝皇太子明仁親王殿下荷御誕生記念と刻まれている。先に進むと沿った南無弘法大師の幟が並び、階段を下ると木曽川沿いに弘法堂が建っている。石垣には観音像が並び、弘法堂の脇には可児の名水錦江水が湧き出ている。 弘法堂から木曽川沿い階段を降りると今渡の渡し場跡がある。
中山道最大の難所の一つで 「木曽のかけはし 太田の渡し うすい峠がなくばよい」 と詠まれた木曽川の渡し場跡である。この対岸が太田の渡しである。

太田橋 化石林公園 一里塚跡 美濃加茂市文化会館
今渡の渡し場跡から石畳を通って太田橋の袂に上がってくると橋の手前に今渡の渡し場跡碑の建つ休憩スペースがあり、渡し船を象った長椅子などがある。 平成6年夏、木曽川の異常渇水により木曽川両岸に合わせて425本の化石(化石林)が確認された。
太田橋の袂は、この化石林公園として整備されており、太田の渡しがあった付近である。
木曽川沿いの土手道(ライン街道)を進むと美濃加茂彫刻シンポジウムによる作品があり、土手の低い塀には子供たちの作品が埋め込まれている。
木曽川を見ながら進んで行くと土手下の文化会館の所に一里塚跡標柱がある。ここは古井(こび)の一里塚跡で江戸日本橋から数えて98里目の一里塚である。
一里塚跡から文化会館正面に回り込むとトイレも設置されており、美濃加茂市民憲章碑、美濃加茂彫刻シンポジウムの作品などがある。

土手道の街灯 岡本一平終焉の地碑 追分道標 阿寿満稲荷神社
土手道(ライン街道)を進むと所々に石を5重に重ねた街灯が建っている。 美濃加茂市文化会館を過ぎると土手道に岡本一平終焉の地碑が建っている。
ここ美濃加茂市古井町は大正から昭和にかけて人気を博した漫画家・岡本一平の終焉の地である。
岡本一平は函館出身で、妻は小説家岡本かの子、長男が画家岡本太郎である。
土手道から神明堂交差点に出ると交差点右手の分岐に追分道標が建っている。
道標には 「右東京善光寺 左飛騨高山 道」 と刻まれており、ここは善光寺道と飛騨高山道の分岐である。
神明堂交差点を直進してやや左の路地を入ったところに阿寿満稲荷神社がある。
境内には男性のシンボルの陽石、庚申塔、石祠などがある。

米問屋小島屋 神明水神公園 太田宿道標 法華経塚
街道に戻ると神明堂交差点の先左手に米問屋小島屋があり、米を撞いていた水車が復元されている。 米問屋小島屋の直ぐ先に神明水神公園があり、無料休憩所が設置され、土手沿いには神明水に由来すると思われる井戸、秋葉神社、御嶽神社などの石碑などがある。 神明水神公園の先右手に中山道太田宿の道標が建っており、「右御嵩伏見宿三里、左太田脇本陣宿三丁」 と刻まれている。 街道の左手に南無妙法蓮華経題目碑、三面の馬頭観音が建ち、傍らに法華経塚の解説があり、法華経塚は埋葬地(墓地)の入口に建てられた石碑だったと説明がある。

新町木戸門跡標柱 太田稲荷神社 秋葉神社 瀧場観音堂
街道左手には新町木戸門跡標柱が建っており、ここから先が太田宿である。 街道を進むと仕出し魚武の向かいに太田稲荷神社が木曽川の土手を向いて建っている。
境内には地蔵菩薩。役行者、庚申供養塔、弘法大師像、御神燈、槍ヶ岳を開山した播隆上人の墓などがある。
太田稲荷神社の隣に祐泉寺があり、その角に秋葉神社がある。
秋葉神社の脇には弘法大師像があり、手前に文政11年(1828)の常夜燈が建っている。
秋葉神社の先を左手に回り込んで行くと祐泉寺の脇に木曽川に向いて瀧場観音堂が建っている。
御堂には中央に聖観音像が安置され、両脇に持国天と広目天の像が立っており、隣に弘法大師像などがある。

祐泉寺 旧旅籠小松屋 旧商家 蔵元御代櫻
観音堂の横に臨済宗妙心守派の祐泉寺がある。祐泉寺は文明6年(1474)に大道真源が湧泉庵という寺を建立したことに始まるといわれている。
境内には、太田の地で生れ育った文豪坪内逍遙の詠んだ 椿の歌の碑、北原白秋が祐泉寺を訪れた際茶席で詠んだ歌の碑、松尾芭蕉の門弟となった脇本陣3代目の林由興が師を悼んで建てた芭蕉の句碑、西園寺公望の石標などが残されている。
祐泉寺から街道に出ると左手に旧旅籠小松屋が太田宿の案内所として解放されている。
太田宿は江戸日本橋からおよそ94里(385㎞)の位置にあり、伏見宿との間には木曽川が流れており、交通の要衝として栄えた。町並みは東から上町・中町・下町と大きく分かれ、東西に約673mあり、宿内戸数が118戸の規模であった。
旧旅籠小松屋の先右手に昭和20年創業の鮎の甘露煮の魚徳、明治10年頃創業の呉服店永楽屋、江戸時代は米・油商で明治時代から肥料商の辰巳屋の3軒が軒を連ねている。 街道右手に明治26年創業の蔵元御代櫻醸造㈱がある。
銘柄の 「御代櫻
(みよざくら)」 は、古来から日本人が愛してきた桜の花の五弁花を日本酒の 「甘・辛・酸・苦・渋」 の五味五感の調和の象徴とし命名されたという。

旧脇本陣跡 太田宿中山道会館 旧本陣跡 高札場跡
蔵元御代櫻の斜め向かいに旧脇本陣の林家住宅が建っている。
林家住宅は国指定重要文化財になっており、明和6年(1769)建築の主屋と天保2年(1831)に建築された表門と袖壁、それに裏の二棟の土蔵を残している。
旧脇本陣の隣に太田宿中山道会館あり、中山道太田宿の歴史文化・江戸時代の宿場や旅の様子など貴重な展示物を紹介している。
敷地内には、岡本太郎の父岡本一平とその家族が美濃加茂市に昭和21年(1946)に転居し、亡くなるまで過ごした居宅・糸遊庵が建っている。
太田宿中山道会館の向かい側に旧本陣跡がある。
旧太田宿の中心にあった本陣は、明治時代には太田町役場が置かれたが、現在、本陣に当たる場所に面影は無い。この本陣門は皇女和宮の降嫁の際に新築されたもので美濃加茂市市指定有形文化財となっている。
街道を進むと右手高札場跡があり、ここは郡上街道追分でもあった。

追分道標 西福寺 秋葉神社 西の枡形
高札場跡の向かい角に追分道標が建っており、「右関上有知道 左西京伊勢道」 と刻まれている。
この道標は明治25年(1892)名古屋の塩問屋伊藤萬蔵が建立したものである。
追分道標の右手奥に浄土真宗の清流山西福寺がある。
たまたま外にいた住職によると西福寺は今から約400年程前の寛永2年(1625)に浄土真宗の本山より阿弥陀如来の御絵像などが下附されて寺に昇格したという。また、昭和34年の伊勢湾台風により甚大な被害を受け、本堂は再建されたとのことである。
追分道標を左折して枡形道を進んで行くと右手に秋葉神社と庚申堂がある。
この秋葉神社の社は常夜燈の笠を裏返した上に建っている。社の裏には金毘羅大権現と刻まれた竿と宝珠がある。
秋葉神社の先で街道は直角に右折する西の枡形になる。
かつてこの辺りに弥勒寺があり、太田宿に立ち寄った際に逗留していた播隆上人はこの南側に葬られたが、廃寺により祐泉寺に墓碑が移っている。

虚空蔵堂 ムクノキ 木曽川 芳春寺
枡形を過ぎて国道41号線の高架をくぐって左折して行くと木曽川の土手前に虚空蔵堂が建っている。
境内には安永2年(1773)の常夜燈、天保7年(1836)の馬頭観音、大正2年(1913)の高野山御分身弘法大師と刻まれた石碑などがある。
虚空蔵堂の裏に坪内逍遥ゆかりのムクノキが立っている。
坪内逍遥は安政6年(1859)、尾張藩太田代官所の役人であった平之進の十人兄弟の末っ子として生まれ、その後父の引退に伴い太田を離れた。大正8年には夫婦そろって生まれ故郷を訪れ、このムクノキの下で記念写真を撮っている。
ムクノキの周りには仏像や水神・山神などの石造物がある。
虚空蔵堂脇から木曽川の土手道に出て左側に木曽川を見ながら進んで行く。 木曽川の土手下に臨済宗妙心寺派の河北山芳春寺がある。
境内には三界萬霊塔、馬頭観音、弘法大師像などの石造物があり、新四国霊場観音を安置した薬師堂がある。

深田神社 地蔵菩薩 兼松嘯風の歌碑 取組一里塚跡
芳春寺の隣に深田神社があり、境内には美濃加茂市指定有形文化財となっている寛文10年(1670)の庚申像がある。 深田神社の先に墓地があり、中央に建つ小御堂の中に万治3年(1660)の地蔵菩薩像が安置されている。
手前には六地蔵尊が立っている。
木曽川の土手道に戻ると欄干に 「諷詠への径」 と題されて沢山の句碑が貼られており、その向かい側に兼松嘯風の歌碑がある。
兼松嘯風は美濃国加茂郡深田村の生まれでこの地方の俳人であり、名前は甚蔵という。
句碑の先の東屋の敷石にも句碑が埋め込まれている。
木曽川の土手から一色大橋袂で右折して国道21号線に出て先に進むと四谷川のところに取組の一里塚跡標柱が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて99里目の一里塚である。

ロマンチック街道 行幸巌 宝積寺 猿啄城址
坂祝町役場前の坂祝取組歩道橋の手前で左折して再び木曽川の土手道に出る。
ここはロマンチック街道と呼ばれている。土手下の国道21号線沿いには交通安全の少女像があり、土手道には築堤記念碑がある。
土手道の東屋があるところに行幸巌記念碑が建っている。
これは昭和2年昭和天皇が巡幸されたのを記念して建てられたもので、日本ラインの岩を砕けて流れる清流や連なる奇岩怪石を展望されたという。
ロマンチック街道に並行する国道21号線沿いに臨済宗妙心寺派の宝積寺がある。
宝積寺は美濃西国三十三観音霊場の21番札所になっており、本堂隣の「安養場」の扁額の架かる観音堂に弘法大師像がある。境内には樹齢300年余という中国産の巾広杦が立っている。
ロマンチック街道の正面に見える標高275mの勝山(城山)の山頂付近にある猿啄城跡は、坂祝町指定史跡となっており、頂上に展望台の櫓が組まれている。
築城時期は不明であるが、応永年間(1400年頃)、西村豊前守善政が築城したという。

平野神社 勝山湊跡 道標 勝山陸閘
宝積寺の先右手に入ったところに平野神社がある。主祭神は今木神、久度神、古開神、比売神で創祀不詳であるが、元禄2年(1689)に本社造営の棟札があり、大正6年(1917)境内建物の模様替えをしている。
境内には大正6年(1917)の常夜燈、昭和10年(1935)の御神燈などがある。
ロマンチック街道の右手に水神碑と社が建っている。勝山湊は尾張の桑名方面へ向かう年貢米の積み出し港として、また水上交通の要所として栄えた。
水神碑は明治18年(1885)4月建立、台座は大正11年(1922)5月修繕と刻まれている。
国道21号線に降りると勝山交差点に道標が建っている。勝山はかつて間の宿として栄えた町で、刀鍛冶の町だった関へと続く関道が分岐しており、その分岐地点に道標があり、「右江戸善光寺 左せきかじ」 と刻まれている。 勝山交差点の先に木曽川の洪水を防ぐための庶水ゲートである 「勝山陸閘」 がある。
国道21号線の両脇に施設があり、右手にゲートを収納する建屋があり、反対側にゲートを受ける施設がある。

岩屋観音参道口 岩屋観音堂 五代目食堂 謡坂入口
勝山西交差点を過ぎると右手に岩屋観音参道口がある。
細い坂道を上って行くと左手に木曽川が見え、崖際のフェンスの傍に巌屋坂之碑などの石碑や欄干柱がいくつか建っている。
巌屋坂之碑の先でやや下ったところに岩屋観音堂が建っている。
観音堂には真言 「オン・アロリキヤ・ソワカ」 と書かれた聖観音像、金色の聖観音座像が社に安置され、その奥の岩窟に馬頭観音、役行者、八大龍王があり、御霊泉が湧き出ている
岩屋観音堂から国道21号線に出て先に進むと右手に五代目食堂がある。
時刻は12時50分、ここまで何か食べることの出来るお店を探してきてやっと見つけた食堂なので迷わずに入ってトン汁を戴いた。気温も上がっており、タイミングの良い昼食休憩となった。
五代目食堂の先左手の旧ドライブインの駐車場に中山道の標柱が有り、階段を降りてゆくと国道21号線、JR高山本線をくぐるトンネルがある。

丸太橋 うとう坂 うとう峠石畳 喜右衛門菩提碑
トンネルの先には中山道解説があり、トンネルの中を流れていた川を丸太橋で渡って行く。
当初の中山道は太田宿から現在の国道21号線の坂祝・各務原境までは木曽川に沿って通っていたが、この先の鵜沼までは大変急傾斜の危険な場所であったため、慶安4年(1651)ここから山合いに入り込み、うとう峠を越えて鵜沼宿に開削された。
丸太橋を2つ渡ると山道は急坂になり、傍らには中山道標識とマムシ注意の看板が彼方此方に建っている。 うとう坂の途中から石畳が続いている。 うとう峠の下り坂左手に小田原宿喜右衛門菩提碑が建っている。
この峠で盗賊に襲われ殺された小田原宿の喜右衛門を弔うために鵜沼の村役人が建てた菩提碑である。

うとう峠一里塚 森の本屋さん 合戸池 鵜沼遠望
うとう峠の一里塚は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれぞれ北塚・南塚が残っている。
北塚は直径約10m、高さが約2mで原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設によって、南側の半分が壊されてしまい一見して塚とは分からない。

ここは江戸日本橋から数えて100里目の一里塚である。
うとう峠を出ると石畳の左手に森の交流館 「森の本屋さん」 が建っている。
中山道はこの先で右手の車道に出る。
車道を下って行くと右手に合戸(かっこ)池が広がっている。合戸池の水は、江戸時代から農業用水として利用されていた。
池の手前に中山道北側の谷に水田を開いた鵜沼東町の梅田吉三郎という人の顕彰碑(昭和11年<1936>建立)、文化11年(1814)の釈迦如来像が建っている。
合戸池から坂道を下って来ると右手に鵜沼の街並みが一望できる。
中央に見えている山は愛宕山である。

石仏石塔群 赤坂神社 赤坂の地蔵堂 見桃院
鵜沼の街並みを見ながら更に下って来ると右手に石仏石塔群がある。
文化6年(1809)の大乗妙典六十六部日本廻國供養塔、明和3年(1766)の三面の馬頭観音、元禄11年(1698)の南無観世音菩薩、宝暦11年(1761)の馬頭観音などである。
石仏石塔群から更に下った右手に赤坂神社がある。
社標や鳥居は更に下って赤坂の地蔵堂を右手に進んだ先にあり、鳥居の前には享保10年(1725)の御神燈、社標の隣には宝暦6年(1756)の常夜燈が建っている。
主祭神は素戔嗚尊、稲田姫命であり、境内には沢山の御神燈が並んでいる。
赤坂神社の脇を更に下るとY字路となり、右に曲がると赤坂の地蔵堂が背を向けて建っている。
この地蔵尊は宝暦13年(1763)・女人十二講中と刻まれ、「右ハさいしょみち」、「左ハ江戸幷せんこうしみち」 と刻まれ道標を兼ねていたようである。
東の見附はここよりやや西に有ったというが遺構は残っていない。
街道を進むと赤坂神社社標の先に見桃院の寺標が建っており、段上に臨済宗妙心寺派の見桃院がある。
境内には明治14年(1881)の西国四国坂東秩父千人佛供養塔、弘法大師像、西国三十三観音などがある。

道標 常夜燈 秋葉神社 高札場跡
街道を進むと逆Y路の中央に道標が建っており、「ここは中山道鵜沼宿 これよりうとう峠 左」 と刻まれている。 道標の前の交差点を渡ると右手角に明治39年(1906)の常夜燈が建っている。
この常夜燈の手前を右に進むと左手に天明8年(1788)の地蔵尊が小御堂に安置されている。
地蔵尊の安置された小御堂の先を更に進んで行くと左手に秋葉神社があり、参道入り口に享和元年(1801)の秋葉山常夜燈が建っている。
境内中央に秋葉神社の社殿、右に金山稲荷神社、左に病気平癒を祈願して祀られた薬師瑠璃光如来があり、傍らに氏神、山神が祀られている。
街道に戻って進むと鵜沼中山道交差点があり、この右手に高札場跡が復元されている。
往時は東の見附と赤坂神社の間に南向きに建っていた。

尾州領榜示石 尾州領榜示石・問屋場跡 大安寺大橋・道標 旧武藤家住宅
鵜沼中山道交差点の左手には尾州領榜示石が建っており、「是より東尾州領」 と刻まれている。 鵜沼中山道交差点を渡った左手に尾州領榜示石が建っており。「是より西尾州領」 と刻まれている。
また、ここ東町では野口家が代々この地で問屋場を務めており、西町の桜井家と一日交代で務めていたという。
大安寺川に架かる大安寺大橋を渡ると西町へ入って行く。
橋の袂には常夜燈が2基建っており、左手前の常夜燈の脇にある道標には、「太田町へ二里八丁」 と刻まれ、橋を渡った右手の常夜燈の脇にある道標には、「岐阜市へ四里十丁」 と刻まれている。
大安寺大橋を渡ると右手に各務原市指定重要文化財となっている旧武藤家住宅が建っている。
明治7年に郵便取扱所に定められた武藤家が鵜沼村郵便局として建てたもので、鵜沼宿町屋館 (各務原市歴史民俗資料館) として内部を開放している。

旧大垣城鉄門 鵜沼宿本陣跡 菊川酒造 大塚
旧武藤家住宅の向かいに旧大垣城鉄(くろがね)門が移築されている。高麗門と呼ばれる型式の門で、正面には短冊状の筋鉄(すじがね)が張られている。
高麗門とは左右二本の木柱の上部に小振りな切妻造の屋根を架け、その後方に控柱を立て木柱との間に小屋根を架けた門のことである。
旧武藤家住宅から道路を挟んだ角に鵜沼宿本陣跡がある。
鵜沼宿の本陣は江戸時代を通じて桜井家が務めており、本陣・問屋・庄屋の三役を兼ねていたと伝えられている。寛延2年(1749)十代将軍家治に輿入れした五十宮がここに宿泊したのをはじめ、多くの姫君が宿泊・休憩している。
鵜沼宿本陣跡の向かいに明治4年(1871)創業の菊川酒造がある。街道に面して東側に写真の本蔵が建ち、西側に豆蔵が建っている。
写真の本蔵は、鵜沼宿における醸造業が成長した大正時代後半に建てられたもので、内部の壁内には断熱材に籾殻を使った冷蔵庫の跡が残っている。
菊川酒造の西側の豆蔵の向かいに安政4年(1857)の南無妙法蓮華経題目が建っている。
左側面には 「五穀豊穣万民快楽」、右側面には 「一天四海皆歸妙法」 と刻まれている。

芭蕉句碑 鵜沼宿脇本陣跡 二ノ宮神社 坂井家住宅
南無妙法蓮華経題目碑の隣に芭蕉句碑が建っている。
貞享2年(1685) 「野ざらし紀行」 途中の松尾芭蕉は、鵜沼を訪れ脇本陣坂井家に滞在したと伝えられている。その後、貞享5年(1688)7月頃、再び脇本陣坂井家を訪れ 「汲溜の水泡たつや蝉の声」 の句を詠み、更に同年8月頃に再度脇本陣板井家を訪れて菊花酒のもてなしを受けた折には 「ふく志るも喰へは喰せきく乃酒」 と詠んでいる。
芭蕉句碑の隣に鵜沼宿脇本陣跡がある。
鵜沼宿の脇本陣は、坂井家が代々これを務め、安政年間に至って坂井家に代わり野口家が務めた。この脇本陣跡は、江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた 「鵜沼宿家並絵図」 をもとに、現存する脇本陣の外観や内装、意匠などを参考としながら、鵜沼宿の脇本陣を務めた坂井家の建物の姿を現代に復元し、平成22年5月より公開しているものである。
脇本陣跡の隣に古墳の石室の上に建てられた二ノ宮神社がある。
鳥居を潜って石段を上がると広い境内に出る。正面に二の鳥居があり、この左脇に古墳の横穴式石室が口を開けており、右手には舞台があり、左手には御神木の杉が立っている。
菊川酒造の豆蔵の隣に趣のある坂井家住宅が建っている。
坂井家は江戸時代は丸一屋と称し、鵜沼宿で旅籠を営んだ家であり、現在の建物は明治27年に建てられたもので、主屋は門を入った正面に切妻造の破風をつけ、式台玄関を設ける格式高い造りである。

梅田吉道家住宅 梅田昭二家住宅 安田家住宅 鵜沼西町交流館
坂井家住宅の隣に梅田吉道家住宅が建っている。
梅田吉道家は江戸時代は茗荷屋という屋号で旅籠を営んでおり、現在の建物は約160年前に建てられ、濃尾地震にも耐えたという。
鵜沼宿で唯一江戸時代に遡る貴重な建物である。
梅田吉道家住宅の隣に梅田昭二家住宅が建っている。
主屋は本家(梅田吉道家)に次いで古く、明治元年の建築という。
木造2階建ての切妻造で正面中央に入口を設け、向かって左側に鉄格子、右側に木格子を入れている。
梅田昭二家住宅の隣に安田家住宅が建っている。
かつて安田家は若竹家という屋号で旅籠を営んでおり、主屋は昭和5年の建築である。
梅田住宅との間には秋葉神社が祀られ、秋葉山常夜燈が建っている。
趣ある4軒の住宅を過ぎると右手に鵜沼西町交流館が建っている。
この交流館は、中山道の宿場町として栄えた鵜沼宿の町並みを復活させる整備事業の一環として建てられた多目的ホールである。

鵜沼宿碑 石亀神社 産土神 木曽川泥流堆積物
鵜沼西町交流館の先の交差点を渡った左角に鵜沼宿碑と道路改修記念碑が建っている。
各務原市は平成18年(2006)度から中山道鵜沼宿町屋館の修復や脇本陣の復元、鵜沼西町交流館建設、水路の整備、無電柱化などを進め、文化遺産の拠点として整備してきており、総事業費は12億9240万円といわれる。
鵜沼宿碑の建っている交差点を右に上って行くと左手に石亀神社がある。
駐車場奥に石亀神社の幟が立っていなければ参道口とは分からない。参道を登って行くと鰹木のある拝殿があり、社の前に鵜沼石の石亀様がある。
ここは鵜沼石の石切り場跡である。
街道に戻って交差点を進むと右手段上に大正8年(1919)の常夜燈が建ち、その一段上に小社と氏神が建っている。 産土神の直ぐ先右手に金網で覆われた木曽川泥流堆積物がある。
木曽川泥流堆積物とは、75万年前から活動している御嶽山が5万年前に大崩壊を起し、土砂が山麓の東側から大滝川、木曽川により約200㎞流れ下り、各務原台地までたどりついた溶岩礫を含む泥のことである。

西の見附跡 八木山弘法堂 衣装塚古墳 空安寺
木曽川泥流堆積物の延長上に西の見附跡がある。
階段の右手の草むらに元禄11年(1698)の南無観世音菩薩、三界萬霊塔、馬頭観音が建っており、階段を上がると農業用のため池の通称 「翠池(よしいけ)」 がある。
坂道を上り切った右手に八木山弘法堂が建っており、境内には三十三観音像、大乗妙典六十六部日本廻國供養塔、南無観世音菩薩、百万遍供養塔、西国四国坂東秩父順拝供養塔などの石造物が並んでいる。 八木山弘法堂の先右手にこんもりとした林の衣装塚古墳がある。
衣装塚古墳は各務原台地の東北部に位置する岐阜県下最大の円墳で、墳丘の大きさは直径52m、高さ7mである。築造年代は定かではないが、古墳時代前期から中期にかけて (4世紀末~5世紀前半) 築造されたと考えられている。
衣装塚古墳の隣に真宗大谷派の光雲山空安寺がある。
山門をくぐるときれいな塀に囲まれた参道があり、その先に更に門がある。境内には鐘楼、忠魂碑などがある。

津島神社 愛宕神社常夜燈 苧ヶ瀬駅 犬山駅
暫く街道を進んで行くと信号機のある交差点の角に津島神社がある。
境内には各務原市指定重要有形民俗文化財の皆楽座がある。皆楽座は芝居小屋であるが、拝殿を兼ねているため本殿に向かって正面にある。客席を持たない舞台のみの農村舞台であるが、廻り舞台、奈落、セリ、太夫座などを備えている。
津島神社の先のSUZUKI吉野家モータースの手前交差点に愛宕神社の常夜燈が建っている。
愛宕神社はここから約0.7㎞先の山腹に有るため寄らずに本日はここまでとし、本日の宿泊地犬山へ向かうこととした。
山の前町交差点を左折してJR高山本線を越えると名鉄各務原線の苧ヶ瀬駅である。 苧ヶ瀬駅から10分ほどで犬山に到着である。
駅舎からは犬山のシンボル犬山城が見える。

弘法大師堂 愛宕神社
犬山市には多くの寺社仏閣があるが、時間的に寄れそうな犬山市役所向かい側にある愛宕神社に行ってみた。
愛宕神社の隣には弘法大師堂があり、御堂の手前には小御堂に納まった三十三所観音、地蔵尊が安置されている。
愛宕神社のあるこの場所はかつて、織田広近が文明元年(1469)に木ノ下城を築城したところであり、織田信康(信長の叔父)が木曽川南岸に現在の犬山城を築くまで、代々、織田氏が居城した。
本殿横に井戸(金明水)があり、手水舎には白巌水と刻まれた手水石があるが、白巌とは織田信康の号名である。

平成27年5月7日(木) ☀  苧ヶ瀬~鏡島(岐阜市)  18.7㎞
昨夜は犬山駅前に宿泊し、早朝、犬山城を巡って犬山遊園駅から苧ヶ瀬に出て昨日の続きを開始した。5月4日(月)の雨で靴が濡れて足がふやけた状態で歩いて来たため、両足にマメが出来て痛みは無いが何時破れるか心配である。今日も天気が良く歩くにはやや暑すぎるくらいである。

一本松弘法堂 西蓮寺 本町通り 針網神社
犬山市寺内町に一本松弘法堂が建っている。寺内町は慶長(1590年代)の頃、本願寺派の四ヵ寺が集中して建てられ寺町を形成したため、この名が付いた。
弘法堂の前には御首様、八龍様と刻まれた石が安置されている。
弘法堂の先に寺内町の由来の一寺である西蓮寺がある。西蓮寺の創建は明応2年(1493)、信慶(蓮如上人の法弟)によって開かれたのが始まりといわれ、現在の本堂は宝暦10年(1760)に建てられたもので国登録有形文化財に指定されている。西蓮寺に隣接して枝垂桜が有名な圓明寺が建っている。 本町通りは、犬山城の正面通りで、町を賑やかにするため呉服屋、酒屋を多く配置して城下町の中心とした。上本町には問屋場、高札場があって町民に各種の触れを掲げた。 本町通りの突当りに針綱神社がある。
針綱神社は、太古よりこの犬山の峯に鎮座する東海鎮護、水産拓殖、五穀豊饒、厄除、安産、長命の神として古来より白山大明神と称えられ濃尾の総鎮守であった。
祭神は尾治針名根連命ほか10命で、境内社は神明社、秋葉社、琴平社など19社に及ぶ。

三光稲荷神社 犬山城本丸門 犬山城 播隆上人碑
針綱神社の隣に三光稲荷神社がある。
創建時期は明らかではないが、天正14年(1586)の伝承がある。かつては三狐山(三光山)に鎮座し、犬山城主織田信康の保護を受けていたという。江戸時代以降、犬山城主成瀬氏の守護神とされ、神仏習合で三光寺とも称していたが、明治時代初期の神仏分離により三光稲荷神社となった。
境内には姫亀神社、女陰石、銭洗池、おもかる石などがある。
針綱神社の脇の坂道を登りつめると国宝の犬山城が建っている。
早朝のため開門されていなかったが、本丸門脇に芭蕉の門人となり蕉門十哲の一人となった内藤丈草の句碑があり、「涼しさを見せてやうごく城の松」 と刻まれている。旧本丸門の鉄門
(くろがねもん)は鵜沼宿に移築されている。
犬山城から新郷瀬川に沿って木曽川に出ると堤防脇に水神があり、犬山橋から犬山城を見ると木曽川の断崖上に建っているのが良く分かる。 犬山遊園駅から昨日の続きのため苧ヶ瀬駅に出て、山の前交差点から先に進むと直ぐ先で国道21号線の側道を進んで行く。
側道左側に昭和44年再建の旅人道中安全の碑が建ち、奥に槍ヶ岳開山の祖である播隆上人碑がある。この碑は明治24年(1891)の濃尾地震で崩れて上下2つになってしまったという。

神明神社 長楽寺 地蔵菩薩 神明神社
各務原駅前を過ぎると三ツ池町交差点の右手に神明神社がある。
創建は不詳であるが、明治35年(1902)再建の拝殿は、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で倒壊した。境内には明治23年(1890)の常夜燈、ブロンズ製の神馬、御神木の楠木、沢山の御神燈が並んでおり、拝殿の両脇には秋葉社、津島社が祀られている。
三ツ池交差点を渡ると右手に曹洞宗の長楽寺がある。
参道脇に三面六臂の馬頭観音、三界萬霊塔、の地蔵菩薩があり、本堂左手に三十三所観音堂が建っている。
長楽寺の先の右手に御堂に安置された2体の地蔵菩薩がある。
座像の地蔵菩薩の台座には西国四国秩父坂東順拝供養塔と刻まれている。
川崎町交差点を右に入るとJR高山本線の手前に神明神社がある。
鳥居の奥の石垣の上に小さな本殿が建っており、境内には秋葉神社、津島神社が祀られている。

六軒一里塚跡 竹林寺 秋葉神社 神明神社
三柿野駅前交差点を過ぎて三柿野駅前から側道高架で名鉄各務原線を越えて行く。その先、三柿野町交差点のY字路を右に入って行くと右手に旧中山道六軒一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて103里目の一里塚である。
六軒一里塚跡の向かい側に真宗大谷派の竹林寺がある。竹林寺は元禄13年(1700)竹林上人の開祖といわれている。 竹林寺の先の六軒公民館の敷地内に秋葉神社が祀られている。
社は石垣の上の小さなものだが、街道に面して鳥居が建ち、社の前には2基の御神燈も建っている。この2軒先の民家前には地蔵堂があり、地蔵尊が1体安置されている。
秋葉神社の先の信号交差点を越えた右手に神明神社がある。
正面の鳥居からは中に入れず、左手の馬頭観音が安置された御堂脇から境内に入って行く。社殿の前には立派な蕃塀があって直接拝殿は見えないようになっている。拝殿の奥には幣殿があってその奥に本殿がある。

各務原市民公園 栄町秋葉神社 西那加稲荷神社 新加納の標柱
各務原市役所を過ぎると右手に各務原市民公園がある。公園入口には遠藤儀作翁の銅像がある。遠藤儀作は万延元年(1860年)那加村の名門家に生まれ、岐阜県会議員を経たのち大正6年(1917)から那加村長として村政に携わり、岐阜大学の前身である岐阜高等農林学校の誘致に尽力された。
公園の向かい側の住宅の中には秋葉神社が祀られている。
各務原市民公園に隣接する新境川に架かる那加橋を渡ると横断歩道橋の手前右手路地奥に栄町秋葉神社がある。
社殿は石垣の上に建てられ、石垣中央は奥の建物への門のように開いている。
街道左手にある那加自動車学校の向かい側に赤い鳥居の西那珂稲荷神社がある。
新加納町交差点でY字路の中央に中山道間の宿新加納の標柱が建っている。
この先100mほど先の右手に秋葉神社があり、左手の幸永不動産の玄関先に中山道碑が建っている。

日吉神社 法光寺 新加納一里塚跡 高札場跡
幸永不動産の直ぐ先右手に日吉神社がある。
日吉神社の本宮は滋賀県大津市の山王総本宮日吉社であり、平安時代に建立されたといわれている。
境内には狛蛙があり、昭和47年頃までは瓢箪池があったというが、現在は池の形だけ再現されている。
日吉神社を出ると左手に真新しい中山道道標があり、法光寺入口を示している。
路地を入って行くと突当り左手に法光寺があり、参道口に御堂が二つ建っている。左手の観音堂に如意輪観音、右手の地蔵堂に地蔵菩薩が安置されている。境内には釈迦如来座像が安置され、自然石の歴代住職の墓石が建っている。
街道を進むとY字路となり中央の家の前と道路左側に一里塚跡標柱が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて104里目の一里塚である。ここには日吉の蛙の石像があり、新加納の案内版が建っている。
新加納は東の鵜沼宿、西の加納宿の距離が17㎞と長いため立場が設けられた。
Y字路を左に進んで行くと突当りの今尾医院の前に高札場跡の標柱があり、この左手に道標が建っており 「右京道 左木曽道 南かさ松」 と刻まれている。
ここは枡形となっており、高札場前を直進すると突当りで左折する枡形道となっている。

善休寺 少林寺 稲荷堂 濃川橋
枡形を左に折れていくと左手に真宗大谷派の遇光山善休寺がある。
貞永元年(1232)親鸞聖人が上洛の途中立ち寄ったことから浄土真宗に改め、尾張徳川家が各務野にて狩の折に宿所としたことから、特別に 「葵の紋」 を与えられた。境内には葵の紋の入った手水石、親鸞聖人像、蓮如上人像などがある。
善休寺の裏手に臨済宗の龍慶山少林寺がある。
鎌倉時代の応長元年(1311)に現在の各務原市川島小網町に臨済宗の寺院として開山したのが始まりで、その後幾多の変遷を経て新加納に移転したという。新加納を納めた坪内氏の菩提寺である。境内には千体地蔵菩薩堂があり、鐘楼の前にはたくさんの観音像が安置されている
少林寺の山門手前には各務原市指定重要文化財の稲荷堂が建っている。この稲荷堂は文化元年(1804)に建立されたという。脇には新しい地蔵堂が建っている。 少林寺を過ぎると街道はやや下り坂になり、濃川に架かる濃川橋を渡って行く。
正面に東海北陸自動車道の高架が見え、濃川橋の袂には真新しい 「中山道間の宿新加納」 の標柱が建ってる。

薬師寺 願照寺 手力雄神社 手力雄神社二の鳥居
東海北陸自動車道の高架下を進んで境川に架かる高田橋の手前を境川に沿って左に進んで行くと川に背を向けた薬師寺がある。
御堂には薬師如来が安置され、高田町戦没者之霊が祀られている。
高田3丁目交差点を過ぎると右手に浄土真宗の願照寺がある。境内には薬師堂があり、薬師如来が安置されている。
この少し手前で日本全国の街道を歩いているという永井さんにお会いし、色々とお話を聞かていただき、関ヶ原までの街道地図も戴いた。大変お世話になり有難うございました。
願照寺の先右手にある美濃正株式会社の十字路を左に入って行くと天手力雄命をお祀りする手力雄神社がある。本来の参道は京方面からとなり、更に先に進んだT字路を左に入ることになる。
社殿は境川に向いて建っており、鳥居の先から社殿までに3対の狛犬、5対の常夜燈が建っている。ここでは岐阜県指定重要無形民俗文化財となっている手力雄神社火祭りが毎年4月第二土曜日に行われている。
街道を進んでT字路に突き当たった左手に手力雄神社の二の鳥居が建っている。一の鳥居は美濃赤坂にあったという。
鳥居の脇には道標があり、表に 「左木曽路」、裏に 「右東京 善光寺」 と刻まれている。この鳥居を進むと赤い三の鳥居があり、傍らに御旅所の標柱が建っている。

浄慶寺 神明神社 切通陣屋跡 伊豆神社
手力雄神社の第二鳥居前を右折すると直ぐ右手に浄慶寺がある。
浄慶寺は、元は天台宗の寺院であったが、文明18年(1486)5月本願寺第8世蓮如上人に帰依した上人直弟子である正専坊が開祖した浄土真宗本願寺の寺院である。
浄慶寺の隣の岐阜信用金庫の駐車場脇に切通由来解説がある。
岐阜信用金庫の先の右手の道を進んで行くと右手角地に神明神社がある。
境内には衆議院議員武藤嘉文氏の書の明治百年記念の碑が建っている。
街道に戻って進むと長谷川針灸院の角に 「切通陣屋跡35m」 の看板があり、入って行くと正面に切通陣屋跡之碑が建っている。切通陣屋は磐城平藩の美濃領支配のため切通村に陣屋を設けたもので、安藤氏7代に渡って明治維新まで置かれていた。
碑の前には道標と燈籠があり、碑の裏手には切通観音堂が建っている。
切通陣屋跡から200mほど先右手に伊豆神社がある。伊豆神社の御祭神は大山祇神の娘石長姫命で長寿を司る神である。天手力雄命(手力雄神社の御祭神)が男の荒神であり、この神をおいさめするため往時の長森細畑字石長の鎮座していたのを水害等のため遷したと言われている。
伊豆神社の隣には、三面六臂の馬頭観音が祀られている。

ゑ比寿神社 眞宗寺 誓賢寺 秋葉神社
切通4丁目交差点を越えると右手にゑ比寿神社がある。
街道に面して鳥居が二つ並び、拝殿は街道に向かって建っている。七福神の一神で五穀豊穣・商売繁盛・家内安全を司る神である。
ゑ比寿神社の直ぐ先右手に浄土真宗本願寺派の眞宗寺がある。
境内は狭く全体的に小振りな寺院であるが、寺標には親鸞聖人御舊跡と刻まれている。
眞宗寺を過ぎると間もなく右手に浄土真宗の誓賢寺がある。
境内には自然石の南無阿弥陀仏碑、當山歴世之碑などがある。街道左手には境川がゆったりと流れている。
誓賢寺から程なく左手細畑バス停のところに秋葉神社が祀られている。

長森細畑の旧家 細畑の一里塚 延命地蔵尊 八幡宮
長森細畑交差点で岐阜東バイパスを横切ると長森細畑に入る。
街道には黒板壁の旧家が並び、右手には明治水の看板のある進盛堂の小木曽薬局があり、左路地口には葵の御紋の付いた御成道標識がある。
慶長5年(1600)の関ケ原合戦の際、徳川家康が通った往時を偲び 「岐阜お成り」 と称して岐阜を訪れることが歴代尾張藩主の重要な行事となっていたという。
小木曽薬局の先に細畑の一里塚がある。
細畑の一里塚は慶長9年(1604)に造られたものであり、現在の南塚、北塚は昭和27年に復元され、南塚の後ろには秋葉神社が祀られている。
ここは江戸日本橋から数えて105里目の一里塚である。
細畑の一里塚から街道正面のY字路中央に延命地蔵尊の御堂が見える。
御堂前の道標には、「左 伊勢名古屋ちかみち 右 西京道 加納宿 右 木曾路 せき 上有知 郡上道」 と刻まれており、御堂の中には半跏趺坐地蔵菩薩と般若心経の赤い布を巻いた地蔵菩薩が安置されている。
延命地蔵尊の先左手に街道に背を向けたかたちで八幡宮の社殿がある。

長屋門の旧家 神明神社 秋葉神社 森邸
領下往還南信号の左手に長屋門の旧家があり、その隣にも100年を越える日本家屋の懐石料理店 「古風人」 がある。
懐石料理店 「古風人」 を過ぎて左に小川を見て、直ぐ左の角を曲がって行くと突き当たりに神明神社があり、境内に境内社の愛宕神社がある。 東海道本線の高架のやや手前右手に火防・火伏の神を祀る秋葉神社がある。 東海道本線の高架をくぐって進むと右手に黒板塀が目立つ岐阜市指定景観重要建造物の森邸が建っている。

中山道加納宿碑 ぶたれ坊 道標 八幡神社
名鉄名古屋本線の踏切を渡ると茶所(ちゃじょ)駅の入口に中山道加納宿碑が建っている。 加納宿碑の先左手の茶所薬局の脇にぶたれ坊がある。
江戸時代の二代目鏡岩源之助は土俵外での行いが悪かったことを改心して寺を建て、自分と同じ大きさの木像を作り、罪滅ぼしのつもりで旅人に棒でぶたせ、ぶった旅人にはお茶を振る舞ったことから 「茶所(ちゃじょ)」 という地名が生まれたという。
茶所薬局の向かい側に御鮨街道の道標が建っている。
ぶたれ坊の前の道は御鮨街道と呼ばれ、江戸時代、長良川で捕れた新鮮な鮎を鮎鮨に加工し、江戸の将軍へ献上しており、その鮎鮨を運んだ岐阜街道のことを通称 「御鮨街道」 と呼んでいた。
道標の先の 「だんごや」 を右に曲がるのが中山道であるが、直進すると右手に八幡神社がある。
慶長5年(1600)関ケ原合戦後、徳川家康は岐阜城(旧稲葉山城)を廃し、加納城を築城した。その際に八幡神社が城郭内に入ったので、神社を加納城の東北のこの地に遷し、城の鬼門除け、守護神として奉ったのが起源である。
境内には秋葉神社、厚見稲荷神社、塞神社、琴平神社の境内社がある。

加納大橋 道標 東郷神社 秋葉神社
街道に戻って「だんごや」の前の枡形を右折して新荒田川に架かる加納大橋を渡ると加納安良町に入って行く。
加納大橋の欄干には大名行列のレリーフがはめ込まれている。
加納大橋を渡って直進しすると名鉄名古屋線の踏切手前の十字路に自然石の道標が建っている。
道標には 「左西京 右岐阜谷汲」 と刻まれている。この道標の向かいには真新しい中山道加納宿碑が建っている。
道標を直進して名鉄名古屋線の踏切前まで行くと左手に東郷神社がある。 街道に戻って道標を左折して行くと右手に秋葉神社がある。鳥居前の門扉が閉じられており中には入れない。

加納宿東番所跡 善徳寺 加納宿標柱 加納上本町通り
岐阜東通りを横切って進んで行くと大通りに突き当たる右手に加納宿東番所跡がある。
中山道は、この標柱の左の枡形道を進んで行き加納宿に入る。
枡形道を進むと突当りに親鸞聖人を宗祖と仰ぐ浄土真宗本願寺派の善徳寺がある。
善徳寺は元は岐阜市西川手の地にあったが、関ヶ原の戦いによって徳川家康の覇権が確立した翌慶長6年(1601)に加納藩の創設にともなって元和元(1615)に旧中山道沿いの現在地に移されたという。地域社会に支えられた寺院といわれており、折しも本堂には多くの御婦人方が清掃をしていた。
善徳寺の隣に加納宿標柱が建っており、「この辺りは加納宿の中でも、中山道が最もカギ状に曲がりくねったところです。河渡宿方面(西方)は大通りを横切り、鵜沼宿方面(東方)は善徳寺前を直進し、安良町を経て加納宿東入口の八幡町へ続きます。」 と記されている。 善徳寺から直進すると大通り(加納上本町通り)に突き当たるので、大通りを横切って向かいの道を進んで行く。

専福寺 秋葉神社 道標 高札場跡
大通りを横切って進んで行くと左手に真宗大谷派の専福寺がある。
専福寺には岐阜市重要文化財の織田信長の朱印状、豊臣秀吉の朱印状、池田輝政の制礼状が残されている。織田信長の朱印状は、元亀3年(1572)の石山合戦に際し、信長から専福寺に出されたものとされている
境内には親鸞聖人御舊跡の碑が建っている。
専福寺を過ぎると街道右手に火防・火伏の神を祀る秋葉神社がある。 街道を進むと十字路の左向かい側に漢方の太田薬局があり、店の前に道標が建っている。この道標は江戸中期(1750年頃)新町と南広江の四辻東南隅に建てられた。
最初は 「右ぎふ道 左中山道」 の道標であったが、明治初年に 「右東京道 左西京道」 と追加された。
道標から間もなく清水川に架かる広井橋を渡る。橋の袂に高札場跡がある。
加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていた。
清水川の景色は上流と下流では全く違う場所のように見える。

加納城大手門跡 旧加納町役場 二文字屋 当分本陣跡
広井橋の先で十字路となり横断歩道橋の袂に加納城大手門跡の標柱が建っている。
直進すると加納城跡がある。加納城は徳川家康による天下普請によって築かれた平城で、江戸時代には加納藩藩主家の居城となった。中山道は歩道橋手前を右折して行く。
歩道橋から程なく左手に旧加納町役場が建っている。
この建物の設計は、戦前日本を代表する建築家の一人である京都帝国大学武田五一教授であり、鉄骨鉄筋コンクリート造の当時の最先端技術を駆使して建てられたものである。
街道を進むと左手に元和6年(1620)創業の鰻の二文字屋がある。
江戸時代初期の高名な彫刻家・左甚五郎が宿泊した際に彫った欄間が今も残っている。
店先の生けすの壁に餅をつく兎のモニュメントがあり、向かいの駐車場に道標 「ひだり京」 が建っている。
二文字屋の先右手に加納宿当分本陣跡がある。
皇女和宮の降嫁翌年、文久3年(1863)から幕府が参勤交代の制度を大幅に緩和したことで、江戸に人質として留め置かれた大名の妻子が帰藩したため各宿場の本陣が対応しきれなくなり、期間限定で当分の間宿場の有力者宅を臨時の本陣と定めたものである。
この先の加納中通りの交叉点(信号無)に加納宿碑があり、傍らに広重の木曽海道六拾九次之内加納の絵が貼られている。

加納宿西問屋跡 加納宿脇本陣跡 加納天満宮 雲端寺
加納中通りを渡って進むと右手に加納宿西問屋跡がある。
西問屋は加納の宿問屋であり、万治元年(1658)松波清左衛門が開業した。ここでは西は河渡宿から、東は鵜沼宿から出入りする人馬の継ぎ立てをしていた。
西問屋の先に加納宿脇本陣跡がある。
延享2年(1745)より森家が務めていた。
脇本陣跡の角を右に入って行くと加納天満宮がある。
文安2年(1445)、斎藤利家が沓井城を築城の際、守護神として勧請され、御祭神は 「菅原道真」 を祀っている。慶長5年(1600)関ケ原合戦後、徳川家康が岐阜城(旧稲葉山城)を廃し、加納城を築城した際、天満宮が城郭内に入ったため、慶長6年(1601)広江川(清水川)を背にした現在地に遷座した。
加納天満宮の東隣に平成24年に建て直したという真新しい雲端寺がある。
真新しい本堂の前に親鸞聖人像が立っている。

加納宿脇本陣跡 信浄寺 秋葉神社 西方寺
街道に戻ると加納天満宮社標の先右手の小原家の前に中山道加納宿脇本陣跡の標柱が建っている。
この脇本陣は代々小林家が務めていた。
大庭小児科の手前を右に入ると浄土真宗本願寺派の信浄寺がある。
寛永4年(1624)創建で、平成5年(1993)に本堂を再建したという。墓所には新選組に参加して死去した加納藩士加々爪勝太郎家の墓がある。
大庭小児科の敷地内にある秋葉神社前を過ぎて県道187号線を横切って進むと右手に同じく秋葉神社がある。 秋葉神社の向かい側奥に浄土宗の西方寺があり、山門は街道の南を走る大通りに面している。
川端康成の作品 「篝火」 の 「澄源寺」 のモデルとなった寺院で、初恋の女性伊藤初代さんがこの寺の養女となり一年ほど暮らしていたという。
境内には水子地蔵尊が安置されている。

秋葉神社 加納宿西番所跡 西巌寺 阿賀多神社
街道を進むと右手に秋葉神社があり、遠くに岐阜シティタワーが見えている。
秋葉神社の社殿の隣には庚申堂があり、一面六臂の青面金剛が邪鬼を踏みつけて立っている。
緩やかなカーブの街道を進むと左手に秋葉神社がありこの一角に加納宿西番所跡の標柱が建っている。
ここが加納宿の西口である。
岐阜西通りを横切って進むと左手に浄土真宗本願寺派の西巌寺がある。
美濃浅野源氏の始祖源光行は土岐市肥田浅野の地を所領して美濃一帯に勢力を誇ったが、出家して初代西方坊と名乗り、親鸞聖人に帰依した。光行から8代目の浅野又三郎光隆が蓮如上人に帰依し、河野西方坊から河野西巌寺に寺号を改めた。境内には親鸞聖人御舊跡碑、浅野家累代の碑がある。
西巌寺の先左手に阿賀多神社がある。
祭神は仁徳天皇で、応仁2年(1468)の創建といわれ、その後郷村の氏神として崇敬され五穀豊穣の守神、殊に幼童の守護神として近郷近在より信仰を集めた。
境内には地蔵堂があり、2体の地蔵菩薩が安置されている。

秋葉神社 三里一里塚跡 八幡神社 三社
阿賀多神社の先右手の黒塀の家の角に秋葉神社が祀られている。 秋葉神社の先の十字路を左に入ると右手に三里一里塚跡がある。
標柱の後ろの解説に皇女和宮が詠んだ 「遠ざかる都としれば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり」 が記されている。
ここは江戸日本橋から数えて106里目の一里塚である。
三里一里塚の先でJR東海道本線のガードをくぐり、清水町10丁目交差点の六叉路を直進していく。
程なく左手に八幡神社がある。舞台の奥の社殿の中に本殿があり、社殿の裏の駐車場の脇に地蔵堂がある。
街道を進み鹿島町8丁目西交差点に出ると右手角に天満神社、八幡神社、秋葉神社の三社がある。
鳥居の先の神門の奥に三社が並んでいる。
中央が八幡神社で剛健・勇武の神 「応神天応」 を祀り、右が天満宮で文筆学問の神 「菅原道真」 を祀り、左が秋葉神社で防火安全の神 「迦具土神」 を祀っている。今日はこの先の鏡島大橋南交差点から1Kmほど先の西岐阜駅に出て、一駅戻って岐阜駅前で宿泊する。

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