慶長5年(1600)関ケ原の戦いに勝利を収めた徳川家康は、全国的な封建支配体制の確立を目指し、主要な街道整備事業を行った。
 中山道は東海道の裏街道として京都と江戸を結ぶ幹線道路となり、全長134里(約536㎞)の間に67の宿場が設けられた。
 各務原市内には鵜沼宿が置かれていたが、鵜沼宿と加納宿の間は4里10町(約17㎞)と距離が長いため立場(建場茶屋)と呼ばれる小休所が、ここ新加納に設けられていた。
 皇女和宮の降嫁の際にも休息所とされた新加納は、正規の宿場ではないとは言え、長すぎる鵜沼宿と加納宿の、ちょうど中間に位置することや、小規模ながらも旗本・坪内氏の城下町的な意義を持つことなどからも、中山道の 「間の宿」 として栄えていたのである。
 (新加納まちづくり会)

突き当りの今尾院前に建つ高札場跡碑

中山道新加納立場説明

右京道  左木曽路  南かさ松

高札場跡碑の脇にある道標

塀に新加納立場の解説が貼られている

板塀の旧家

旧家の大黒天の瓦屋根

枡形出口の中山道道標

Y字路左筋に建つ中山道道標