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中山道   (武並~今渡)

武並(深萱)から先は御嵩に出るまで山の中の道であり、大湫宿、琵琶峠、細久手宿、御嵩宿、伏見宿と進んで行くこととなる。

平成27年5月4日(月) ☁/雨  武並(深萱)~細久手  12.5㎞
前日恵那に宿を取ったことから一駅先の武並まで電車で出て、そこから街道まで3.8㎞の坂道はタクシーで時間を稼ぐこととした。昨日の続きの中山道碑のある場所に着くと既に雨が落ちてきたため、ここでカッパを着こんで出発となった。

道標 大久後の向茶屋跡 分岐 観音坂
中山道碑の先から上り坂の道となり、左右にうねった道の右手に東海自然歩道道標が建っている。「←大久後・武並→」 とあり、中央にあまり見たくない熊出没注意の看板が下がっている。 道標の向かい側のやや広くなったところに大久後の向茶屋跡がある。この平坦になった場所を 「茶屋ヶ原」 という。 林の中の道を暫く進むと、左手に水田が拡がり、その先で舗装路から分岐する土道が水田に沿って右手の林に続いている。 分岐から直ぐ先で右に折れると正面に観音坂標柱があり、街道脇に細い水路が設けられた観音坂が始まる。
大井宿と大湫宿の3里半は起伏にとんだ尾根道の連続で 「十三峠におまけが7つ」 とも言われ、中山道の中でも難所の一つであった。

馬頭観音 霊場巡拝碑 灰くべ餅の出茶屋跡 弘法様
観音坂碑の先を更に上り、右にカーブすると右手に観音坂説明があり、その奥の林の中の大岩の上に馬頭観音が祀られている。馬頭観音は街道を向いて立っており、道中の安全を見守っている。 馬頭観音の先に霊場巡拝碑が建っている。これは天保2年(1841)の西国四国秩父坂東供養塔である。碑の向かい側には東屋があり、熊出没注意の看板が下がっている。 観音坂を下ると分岐で分かれた舗装路が右手から合流する。舗装路に出ると程なく左手に 「灰くべ餅の出茶屋跡」 がある。更に下り左からの舗装路と合流する所が旧大久後村であり、合流地点の大久後駐車場には、東海自然歩道の案内版がある。 旧大久後村の外れに小社に安置された弘法大師像がある。
台座には養蚕大師と刻まれ、繭が3つ陽刻されている。傍らには養蚕大師建立紀念碑、石灯籠、不動明王像などがある。

権現坂 鞍骨坂 苅安神社 炭焼立場跡
弘法様の直ぐ先から権現坂が始まる。権現坂は短いが急な坂道である。 権現坂の先には長い鞍骨坂が続いている。 鞍骨坂を登りきった右手に苅安神社(標高602m)への登り口がある。石段を上がると霊神碑、明和5年(1768)の道祖神、明和4年(1767)の石灯籠があり、その先は険しい登山道となる。一気に123m登り詰めると本殿は岩を背にして建てられており、傍らには石祠、本堂改建之碑、本堂葦替之碑などが建っている。ここは文明年間(1469-86)尾州の西尾式部道永の居城(刈安城)であったという。 街道に戻ると苅安神社登り口から40mほど先に炭焼立場跡がある。立場は馬のつなぎ場を備えた休憩所の事で、小さな広場と湧水池があり、旅人や馬の喉を潤した。太田南畝(蜀山人)が享和2年(1802)に著した 「壬戌紀行」 に 「俗に炭焼の五郎坂といふを下れば炭焼の立場あり左に近く見ゆる山は権現の山なり」 と記述がある。ここは眺望に恵まれていたので十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場であったという。

五郎坂 樫ノ木坂の石畳 権現山一里塚 巡礼水の坂
炭焼立場のある旧大畑村を抜けると砂利道の五郎坂があり、その先の右手にある道標には相変わらずドキっとする熊出没注意の看板が下がっている。街道の左手には溜池がある 溜池を過ぎて林の道を進むと樫ノ木坂の石畳が始まる。 石畳を進んで行くと権現山の一里塚があり、両塚共に残っている。ここは江戸日本橋から数えて90里目の一里塚である。この一里塚は慶長8~9年(1603~4)に十三峠の新設と共に築かれたものである。 権現山一里塚を過ぎると巡礼水の坂道となる。この両側は中山道ゴルフ倶楽部があり、ゴルフ場の間を抜けて行く感じである。

巡礼水 びあいと坂 曽根松坂 阿波屋の茶屋跡
中山道ゴルフ倶楽部のカート道を横断した先に巡礼水がある。
昔、旅の母娘の巡礼がここで病気になったが、念仏によって水が湧き出して命が助かったと伝えられている。僅かな清水だが8月1日に枯れることはないといい、旅人からは 「十三峠のお助け清水」 として大切にされてきたものである。
左手の木々の間から中山道ゴルフ俱楽部のコースを見ながら進み、コース内を通る道路を2つ横断した先に 「びあいと坂」 がある。深萱の手前の四ツ谷に 「びやいと茶屋跡」 があったが、びあいとは 「枇杷湯糖」 と書いて枇杷の葉に薬草を加えて煎じたものである。 びあいと坂に続いて曽根松坂がある。
この坂には曽根松坂碑が建っている。
曽根松坂を下ると阿波屋の茶屋跡に出る。
広場には旅人の道中安全を祈って天保11年(1840)に建立された観音石窟があり、三十三体の馬頭観音が安置されている。
三十三体の馬頭観音は、大湫宿内の馬持ち連中と、助郷に関わる近隣の村々からの寄進である。石窟の前には、天保11年(1840)建立の三十三所碑が建っている。

尻冷やしの地蔵尊 車道横断 しゃれこ坂 しゃれこ坂碑と観音碑
阿波屋茶屋跡から林の坂道を下って行くと左手に尻冷やしの地蔵尊が安置されている。ここは旅人にとって貴重な清水が湧き出ているところで、そんな清水に感謝して建てられたものであるが、ちょうど清水で尻を冷やしているように見えることから呼ばれたものである。地蔵尊の隣の杉の根元から清水が湧き出ており、近くには尻冷やしの地蔵尊碑が建っている。 尻冷やしの地蔵尊から下ったところで車道を横断し、向かい側の道標の建つ坂道を上って行く。 車道を横断して車道に沿ったしゃれこ坂を上って行くと突当りを右に曲がったところで砂利道になる。 しゃれこ坂を上ると左手にしゃれこ坂碑と十三峠の観音碑が建っており、この観音碑は道標を兼ねているようである。
このしゃれこ坂も十三峠の坂道である。

山之神坂 童子ヶ根碑 大湫宿 道標
しゃれこ坂碑から林の道をどんどん進んで行くと、やや平らになりかけた右手斜面に山之神坂碑が建っている。 山之神坂碑から100m程進むと右手に童子ヶ根碑が建っている。この先は下り坂の道となり、150m程先のY字路を右に進んでいく。このY字路には東海自然歩道道標が建っている。 東海自然歩道道標を右に進んで行くと急な寺坂の先に大湫宿が見える。坂の右手には南無阿弥陀仏碑、馬頭観音が建っており、その先に太田南畝の中山道十三峠碑がある。この寺坂は、東の西行坂から始まった十三峠の最後の坂道である。 更に下ると左手の駐車場入り口に道標が建っている。正面に 「大湫宿 右京へ四十三里半 左江戸へ九十里半」、右側面に 「是より東 十三峠」、左側面に 「宿中安全 西方細久手宿へ一里半 東方大井宿へ三里半」 と刻まれている。
この近くには大湫宿碑、名誉町民の鈴木喜義翁像、同顕彰碑が建っている。

宗昌寺 尾州藩大湫白木番所跡 大湫小学校(本陣跡) 旧旅籠三浦屋
大湫宿の入口に位置する高台に大湫宿を開いた保々宗昌が慶長5年(1600)に開山した臨済宗妙心寺派の金城山宗昌寺がある。境内には鐘楼があり、その前に六地蔵尊が並び、脇に宝篋印塔が2基建っている。 宗昌寺から下り坂を直進して大湫小学校の手前を右に曲がると左手に尾州藩大湫白木番所跡がある。
元禄7年(1694)尾州藩川並奉行所として設置され、奉行以下多くの藩役人、足軽などが常駐していた。天明年間に白木番所に縮小され、明治初年まで木曽御領林の管理、中山道筋の白木改めなどにあたった番所跡である。
白木番所跡から街道に戻ると右手に大湫小学校が高台に建っている。
この小学校の校庭は保々本陣跡である。大湫村を拓いた保々氏は木曽衆与力として関ケ原、大坂の陣に参戦して、尾州藩から300石を給されていた。
校庭の隅には、大湫宿で詠んだ皇女和宮御歌碑が建っている。
街道に戻ると三叉路(枡形)にある陶都信用農業協同組合釜戸支店大湫事務所の隣に国登録有形文化財となっている旧旅籠三浦屋が建っている。

旧問屋丸森跡 和宮人形 おもだかや 問屋場跡
旧旅籠三浦屋の隣に旧問屋丸森(森川家)が建っている。この家屋も国登録有形文化財となっている。 旧問屋丸森跡の向かいには大湫公民館があり、その脇の小学校校庭への上り口に大湫宿本陣跡解説があり、駐車場の奥に和宮陶製人形がある。
大湫宿本陣には、此ノ宮(享保16年・1731)、真ノ宮(寛保元年・1741)、五十ノ宮(寛延2年・1749)、登美ノ宮(天保2年・1831)、有姫(同年)、鋭姫(安政5年・1858)等のほか皇女和ノ宮が十四代将軍徳川家茂へ御降嫁のため、文久元年(1861)に宿泊している。
和宮人形のある駐車場の隣におもだかや(面高屋)が建っている。
旧旅籠の旧家は無料のお休み処として解放されている。通りに面した板塀は平成23年に 「大湫宿町並み保全事業」 の一環としてブロック塀から改修されたものだという。
おもだかやの隣の白山神社入口に問屋場跡がある。ここでは問屋役、年寄役、帳付役、人馬指図役などの宿役人が詰めており、公用荷物の継立てから助郷人馬の割り当て、大名行列の役割など宿の業務全般の指図などを行っていた。

白山神社 大湫宿脇本陣跡 神明神社 大湫観音堂
問屋場跡の横から参道が延びており、正面に白山神社の鳥居が建っている。
鳥居の先は更に長い石段があり、上り詰めた先に御神燈と狛犬が鎮座し、そこから更に石段を上った中央にそれほど大きくはない白山神社の社殿がある。
白山神社から街道に戻ると桝屋、門田屋などの屋号の架かる家があり、右手の奥には大湫宿脇本陣の保々家がある。
この家も国登録有形文化財となっており、今でこそ半分程度になっているが、往時は部屋数19、畳数153畳、別棟6という広大な建物であった。
脇本陣跡から2軒過ぎた右手に白山神社と共に大湫宿鎮守の神明神社がある。
この神社は慶長13年(1608)の再建で街道に面して文化4年(1807)の常夜燈が建ち、長屋門風の神門の奥には推定樹齢1200年の大杉が立っている。神明神社の前には国登録有形文化財の新森(森川家)が建っている。

街道を進んで行くと右手高台に道中安全、病気全快の観音様として宿内、近郷、旅人から厚い信仰を受けてきた観音堂がある。
現在の観音堂は弘化4年(1847)に再建されたもので、堂内の天井絵は現恵那付知町の画人・三尾静(暁峰)の描いた花鳥草木60数枚は瑞浪市有形文化財となっている。
境内には石塔、石碑、石仏がたくさん並んでいる。

高札場跡 分岐 紅葉洞の石橋 小坂の馬頭様
観音堂から街道に出ると直ぐ右手に高札場跡が復元されている。
傍らには大湫宿碑と道標が建っている。
高札場の先はY字路になっており、青い歴史の道中山道道標の立つ方へ進んでいく。直ぐ前方に杉の木が立っており、その下に石碑と瓦屋根の小屋がある。よく見てみると碑は街道に面して背を向けており、回り込んでみると 「中山道大湫宿 山之神の井戸」 と刻まれており、小屋は井戸を覆うものであることが分かる。 街道を進んで集落が無くなる辺りに紅葉洞の石橋跡がある。
道の両脇に橋の欄干らしき遺構が残っているが、良くは分からない。
紅葉洞の石橋跡の隣に小坂の馬頭様がある。大きな岩の上に明治2年(1869)の馬頭観音が建っている。

大洞旧道 二つ岩 琵琶峠口 琵琶峠東上り口
街道を進むと右手に東屋のある大洞旧道が残っている。
この東屋の前には安藤広重の大湫宿が掲げられ、カーブの右手に文政8年(1825)の大洞の馬頭様が安置されている。傍らには大湫宿大洞小坂碑があり 「安藤広重画木曽街道六十九次の大湫宿の絵はここから東方を描いたものである」 と刻まれている。
カーブの先で県道65号線に合流する。
大洞旧道から県道65号線に出ると右手に大きな岩が20mほど間隔をあけて並んでいる。手前に母衣岩、その先に烏帽子岩と言われる花崗岩の陰陽石で母衣石が陰石、烏帽子岩が陽石で、二つ岩または夫婦岩と呼ばれている。また碑の間には二つ岩碑があり、太田南畝の壬戌紀行が刻まれている。 街道左手に大湫病院が見えると、その先右手に青い歴史の道中山道道標の建つ琵琶峠口がある。 青い歴史の道中山道道標の先は琵琶峠東上り口となり、ここには琵琶峠の石畳説明や天保2年(1831)の馬頭観音、文化11年(1814)の道標を兼ねた馬頭観音、琵琶峠東上り口碑などが建っている。

石畳 峠の文学碑 琵琶峠頂上 八瀬沢の一里塚
上り口から続く石畳を上って行くと途中に休憩のためのスペースがあり琵琶峠の標柱が建っている。
この琵琶峠は麓から頂上までの高低差80m、全長約1㎞ほどあり、そのうちの730mが石畳である。
石畳を黙々と上って行くと左手に峠の文学碑・見晴し台入口の標柱があり、標柱脇から石段を上って行くと間もなく峠の文学碑が3基並んでいる。
琵琶領碑、琵琶峠碑、琵琶坂碑の3基である。見晴らし台は雨も降っており、林で見えなくなっていると言われていたため踏み込まなかった。
峠の文学碑から頂上を回り込む道があるが、元の道を戻って街道に出ると琵琶峠頂上に出る。
峠の頂上はかなり狭い道幅になっており、右手に宝暦13年(1763)の馬頭観音と皇女和宮御歌碑が建っている。
琵琶峠頂上から下って行くと正面に八瀬沢の一里塚の北塚(右)が見えて来る。
塚は両塚とも残されており、地形の制約のため両塚は少しズレて造られている。
ここは江戸日本橋から数えて91里目の一里塚である。

車道横断 琵琶峠西上り口 北野坂の廻国供養塔 国際犬訓練所
八瀬沢一里塚から間もなく左手に立派なトイレがあり、その先で車道を横断する。
ここには石の上に設置された琵琶峠の説明や峠絵図などがあり、車道に面して水場がある。
車道を横断するとその先も少し石畳が残り、やがて草道になり県道65号線に合流する。ここは八瀬沢集落で、合流地点には琵琶峠西上り口碑が建っている。 街道右手の 「岐阜の赤地どり奥美濃古地鶏」 の養鶏場を過ぎると、緩やかな上り坂の正面にY字路が見える。
このY字路手前の林の前に 「北野坂の廻国塔」 標柱が建っており、林の中に踏み込むと安永6年(1777)の大乗妙典日本廻国供養塔がポツンと建っている。
廻國供養塔前を左に進み、木々に囲まれた県道65号線を250m程進むと左手に国際犬訓練所が建っており、一角には犬霊塔と犬霊塔建立の誌碑が建っている。

一つ屋茶屋跡 天神辻の地蔵尊 焼坂の馬頭様 天神坂標柱
国際犬訓練所を過ぎると右の竹林を刈り込んだところに一つ屋茶屋跡の標柱が建っている。ここには一軒の茶屋があり 「一つ家立場」 と呼ばれていた。 街道を進んで行くと右手に瑞浪市コミュニティーバスの天神前バス停があり、その隣に天神辻の地蔵尊が建っている。この地蔵尊には左側面に享保13年(1728)浄心妙清信女、右側面に享保16年(1731)一心了念信士と刻まれている。
雨で適当な休憩場所が無かったので、このバス停をお借りて昼食休憩とした。
サンエッグファーム㈱瑞浪農場を左にみて緩やかな焼坂を上り詰めると、右斜面に文化4年(1807)の 「焼坂の馬頭様」 と言われる三面六臂の馬頭観音が祀られている。 焼坂の馬頭様から緩やかに上ったとろこで右から北野坂の廻国供養塔で分かれた道が合流して来る。
ここには青い歴史の道中山道道標と天神坂の標柱が建っている。この先は天神坂の下りの道となる。

弁天池 南垣外ハナノキ自生地 女男松の跡 奥之田一里塚
天神坂を下ってくると右手に弁天池がある。池の中央には中之島があり、天保7年(1836)と刻まれた石祠の中に八臂の弁財天が祀られている。池の前には説明板があり、「享和2年(1802)に太田南畝(蜀山人)が著した 『壬戌紀行』 に 「左の方に小さき池あり。杜若生ひ茂れり。池の中に弁財天の宮あり」 との記述があります。~以下略」 と書かれている。 弁天池から少し上ってその後緩やかに下って行くと左手に南垣外ハナノキ自生地の標柱が建っている。
この近くにはそれらしき解説も表示も無いので木は分からなかった。
街道を更に下って行くと左手に女男松の跡標柱が建っており、街道の脇奥に小さな標石が建っている。標石には文久4年(1864)陽松女陰神と刻まれている。かつてこの場所に根元で二つに枝分かれした女男松と呼ばれる松があり、夫婦円満・子授けに御利益ありと云われていたが、昭和初期に枯れてしまったという。 女男松の跡から緩やかな上り坂となり、坂を上り切った所に奥之田一里塚が両塚を残している。この塚はほぼ完全な状態で残っている。ここは江戸日本橋から数えて92里目の一里塚である。

三国見晴らし台と馬頭様 天王様 高札場跡 庚申堂
更に下って行くと右カーブの右手斜面に三国見晴らし台と馬頭様の標柱が建っている。標柱の奥には元治元年(1864)の馬頭観音が建っている。 馬頭観音の先で細久手宿の集落に入ると右からの県道352号線と合流する角地に日吉第二小学校跡碑と赤い社の天王様がある。天王様は京都八坂神社の牛頭天王の信仰で、疫病の神様である。細久手宿では疫病や稲作病虫害の出やすい7月16日が御霊会であった。 細久手宿に入り街道を下って来ると右手に茶屋ヶ根説明があり、その先に庚申堂が見えて来る。この庚申堂入口に細久手宿高札場跡がある。
細久手長寿クラブの説明板によると重罪人のさらし首も罪状も掲げたという。
高札場跡横の坂道を上って行くと石垣の上に享和2年(1802)に再建された庚申堂が建っている。境内には小社の地蔵尊、石窟内の役行者、寛政10年(1798)の常夜燈、南無阿弥陀仏名号碑など石碑石仏が多く残っている。

細久手公民館 大黒屋 細久手本陣跡 日吉屋(商家)
庚申堂から街道に戻ると左手に細久手公民館が建っており、駐車場の前にはちょうちん祭りのレリーフがあり、脇に中山道の標柱の道標がある 公民館の向かいは旅館大黒屋が建っている。大黒屋は大井宿から太田宿間で宿泊できる唯一の旅館である。卯建をあげた旅館大黒屋は国登録有形文化財となっており、問屋を勤め、尾張藩の定本陣であった。安政6年(1859)に再建された建物は往時の姿を留めている。
本日はこの大黒屋に宿泊する。
大黒屋から2軒ほど下った右手に細久手本陣跡の標柱が建っている。本陣は間口13間(約22m)、奥行4間半(約8m)の建坪58坪で、部屋数14、畳数134畳、別棟の添家が3つあったが、遺構は残っていない。近くに細久手長寿クラブの説明板があり、慶長15年(1651)小栗十郎左衛門が開設し、明治維新で廃陣となったとある。 本陣跡から少し下った左手に格子戸の残る日吉屋(商家)が建っている。
細久手長寿クラブの説明板によると細久手宿に残る唯一の民家とある。

皇女和宮井戸 細久手宿開祖の墓 南蔵院跡 大塚
日吉屋の向かいの小倉家の裏手に皇女和宮が使用したという井戸がある。
文久元年(1861)徳川家へ降嫁の際、細久手宿で休憩されたときに使用された井戸で今も清水が湧き出ている。
以降美容の水として親しまれている。
和宮井戸がある小倉家の前でY字路となり、街道から左にそれて200mほど入って行くと左手の林の中に細久手宿開祖の国枝与左衛門の墓がある。
4基のうち最も左に建っているもので、「元祖開細院不白鑑居士」 の戒名が刻まれている。横の3基は代々の墓である
街道に戻って進むと右手の土手に南蔵院跡がある。細久手長寿クラブの説明板には、「真言宗に属し当主は修験者で不動明王をまつり加持祈祷をした、珪化木の石灯篭が当時の名残りを留める」 と記されている。その石灯籠を探したが、どうやら奥に見えるお宅の塀の中に見える石灯籠がそれらしい。 南蔵院跡の隣に大塚がある。
ここは昔、高貴な方が旅の途中で亡くなられ埋葬されたことから王塚とよばれ、後に大塚となったという。
また和宮降嫁の折は、細久手が大火で焼けたため隣の大湫宿に泊まることとなったが、道中が長くて用便したものを重箱に納めてこの大塚に埋めたことから 「おくそ塚」 と呼んで敬拝したという。

日吉愛宕神社 大黒屋
大塚の右手の道を上がると日吉愛宕神社がある。ここは宿の西の霊場となる位置で文禄4年(1595)日吉神社と愛宕神社が祀られた。
境内入り口には、天保14年(1843)の金毘羅大権現碑、嘉永年間(1848-54)の石灯籠が建っており、境内には天満宮、金毘羅大権現の石祠、忠魂碑などがある。
本日の宿の大黒屋である。
大黒屋は安政6年(1859)の建築で、いまも卯建・玄関門・式台・上段の間が当時のままに残っている。玄関を入って一階から二階へ箱階段を上がると回り廊下があり、我々は二階の二室を使用させてもらった。部屋には色々と当時を偲ばせるものが残っている。

平成27年5月5日(火) ☀  細久手~今渡(可児)  21.1㎞
昨日の雨も上がって気持ちのいい朝を迎え、大黒屋で朝食を頂いて午前7時45分に出発した。昨夜の雨で靴が濡れていてちょっと気になったが、途中で乾くことを期待して街道を西へ進んで行く。ここからは御嶽宿まで山道で、その先は舗装された道となり伏見宿を越えて木曽川の手前までの予定である。

大黒屋 細久手坂の穴観音 津島神社 旧中山道くじ場跡
尾張藩定本陣の大黒屋の前で写真を撮って7時45分に出発である。 街道を進んで間もなく右手の段上奥の石窟の中に寛政13年(1801)の一面六臂の馬頭観音が安置されている。
観音の縁日に拝むと9万9千日分のご利益があると伝えられ、9万9千日観音とも呼ばれている。石窟内は線香の煙などで黒く煤けている。
穴観音から程なく右手段上に小さな社の津島神社が建っている。
尾張津島神社、京都八坂神社、江戸天王社の分詞である。十二世紀後半より津島神社として文献に、また室町時代より牛頭(ごず)天王社、津島様と呼ばれ本来は防疫の大神である。
津島神社の先でY字路があり、中山道は右手の県道65号線を引き続き進んで行く。右カーブを曲がったところに旧中山道くじ場跡の標柱が建っている。かつて、ここに宿人足の休憩所があり、人足達が荷の扱いの順番をくじで決めたと云う。

馬頭観音 馬頭観音 平岩辻道標 八幡神社
山際の街道を進んで行くと民家の入口段上に文政7年(1824)の馬頭観音が建っている。 街道の両脇が竹藪になったところの右手に明治9年の馬頭観音が建ち、その直ぐ先に小さな池があり、傍らにある手書き説明では馬水池という。
福島大将は長野県松本市出身の旅行家で、1892年(明治25年)情報収集のためにシベリア大陸を単騎横断して有名になった。後に福島大将が中山道を通行中に、この池で愛馬に水を飲ませたという。
馬水池の先で下り坂となり、坂を下りたところで左からの道と合流した先で平岩橋を渡ると右手の川沿いに道標が建っている。道標には 「東 ほそく手 おゝくて 道」、「西 つばし みたけ 道」、「南 まつのこ おに岩 道」、「北 たこうど やをつ 道」 と刻まれている。道標の右手は曹洞宗開元院の寺標、道標の後ろは交通安全の標柱である。 平岩橋を渡って右手の県道366号線を入ると左手の山裾に八幡神社がある。
鳥居を潜った石段脇には忠魂碑、忠勲不朽碑、従軍記念碑などがあり、石段の途中に狛犬が鎮座している。境内は狭くて社殿の脇に津島神社、稲荷神社、神明神社の境内社がある。

常夜燈 西の坂旧道口 秋葉坂三尊石窟 鴨之巣道の馬頭文字碑
街道に戻ると平岩橋からは緩やかな上り坂となり、直ぐ右手の家の植栽の中に文化11年(1814)の大きな秋葉山常夜燈が建っている。 常夜燈から坂道を上って行くと、右に大きくカーブする辺りの左手に西の坂旧道口がある。入口にある道標には、「左中山道西の坂」 と刻まれ、踏み込むと左手に瑞浪市内旧中山道の影碑が建っている。 うねった西の坂を上って行くと右手の石垣の上に三室に分れた石窟があり、明和5年(1768)の三面六臂の馬頭観音、明和7年(1770)の一面六臂の観音坐像、風化の進んだ石仏の三体が安置されている。石窟の右端には天保11年(1840)の石灯籠が建っている。また石窟の直ぐ上には秋葉様の石祠があることから秋葉坂と呼ばれている。 緩やかな坂道を上って行くと左手に 「鴨之巣道の馬頭文字碑」 の標柱が有り、段上に馬頭観音が建っている。

鴨之巣辻の道祖神碑 切ら礼ヶ洞 鴨之巣一里塚 竹林
林の中の道を進んで行くと左手から鎌倉街道が合流する地点に鴨之巣辻の道祖神碑の標柱が建っている。
ここは追分で鴨之巣辻といい、標柱の脇に 「右旧鎌倉街道迠一里余」 と刻まれた道標と道祖神碑が建っている。
鴨之巣辻から木漏れ陽の射す街道を250~60m程進んで行くと、右手に切ら礼ヶ洞の標石が建っている。解説がなくいわれははっきりしないが、牛を追ってきた村人が盗賊に切られたところとか言われているらしい。 更に300m程先に進むと鴨之巣一里塚がある。この一里塚は両塚とも残っており、地形上の理由から北側の塚が16m東方にずらされている。
ここは江戸日本橋から数えて93里目の一里塚である。
鴨之巣一里塚から100mほど先の瑞浪市と御嵩町の境にY字路があり、右手に進んで行くといくつかの道標の先に竹林が見えて来る。
竹林の中には小屋らしき建物が見えたが何か分からなかった。

馬頭観音 津橋集落 山内嘉助屋敷跡 道標
竹林の中の街道を下って行くと右手の石窟の中に風化の進んだ三面六臂の馬頭観音が安置されている。 街道をどんどん下って来ると木々の間から津橋の集落が見えて来る。 更に下って来ると城郭の石垣のようなところに出て来る。ここは山内嘉助屋敷跡で石垣の上は畑になっており建物などの遺構は残っていない。山内家は江戸時代に酒造業を営んでおり、中山道を通行する諸大名の休憩所や旅人の一夜の宿として使われたようである。 山内嘉助屋敷跡から程なく左手に中山道道標が建っており、正面左に 「至鴨之巣一里塚」、右に 「至御殿場」 と刻まれている。
道標の先から津橋の集落が始まる。

常夜燈 公衆トイレ 津橋薬師堂 県道65号線合流
舗装道路に出て道標に従って下って行くと右手に天満宮の常夜燈が建っている。 坂を下って行くと2車線道路に突き当たり、街道は横断して直進するが、2車線道路の右方向には、新設真新しい東海自然歩道津橋公衆トイレが設置されている。 2車線道路を左に30mほど進むと、左手段上に津橋薬師堂がある。御堂には阿弥陀如来像などが安置され、境内には三面六臂の馬頭観音、延宝7年(1679)の南無阿弥陀仏碑、供養塔、五輪塔、宝篋印塔などたくさんの石造物が並んでいる。 街道に戻って2車線道路の先を直進すると県道65号線に合流する。
合流して間もなく津橋川に架かる津橋を渡るとその先で小川の脇に小さな馬頭観音が建っている。

熊野神社 峠口 供養塔 トタン屋根の民家
馬頭観音のある小川に沿って細い道を上って行くと津橋の鎮守の熊野神社がある。石鳥居の脇には道祖神、御即位紀念御神燈が建ち、石段を上って行くと木造の両部鳥居がある。その先は長い石段が続き、途中に享和3年(1803)の御神燈があり、上り詰めると左手に舞台、正面に拝殿があり、本殿は拝殿の裏の1mほど高くなった石段の上にある。 街道に戻って進むと変則5叉路に出るので右手方向の 「中山道至御殿場」 の道標の建つ旧道口に入って行く。 坂道を上って行くと右手の竹林の前に西国秩父坂東百番供養塔、南無阿弥陀仏名号碑と途中から折れた大乗妙典六十六部塔がある。その先の家の手前には三界萬霊塔が建っている。 街道を進むんで行くと青いトタン屋根の民家が建っている。
この先は竹林の中の上り坂になる。

馬頭観音 若鷲碑 物見峠 御殿場
竹林の街道を進むと右手の斜面に石窟があり、中には一面六臂の馬頭観音が安置されている。 竹林の先で雑木林を抜けると民家があり、段上に若鷲碑が見える。回って見ると整田碑で 「昭和55年頃から全部で30程の小さな田を整理し五つにし どの田も排水をし 車が入れる様にし 其の排水を利用し アマゴ岩魚山女魚等を養殖 梅柿スモモを植え 鳥鴨を飼い 退職金全部一千三百万円を掛けて完成 特攻で戦死したことを思い 土地改良で食料の確保に努めた」 と刻まれている。 急な坂道を上り詰めると物見峠であり、かつて、ここには5軒の茶屋があり、近くに馬の水飲み場が三か所設けてあったといい、その痕跡が残っている。 物見峠の右手段上に御殿場がある、。
階段を上ると御殿場展望台の東屋が建っている。ここは文久元年(1861)の和宮降嫁の際、一行が休憩する御殿が造られたことから、御殿場と呼ぶようになったという。

唄清水 竹林の街道 一呑の清水 十本木立場跡
物見峠から少し下るとラ・プロヴァンスというケーキ屋さんがあり混み合っていた。その先をどんどん下って細い舗装路を横断すると、その先の左手に唄清水がある。清水は今も湧き出ており、その傍らに嘉永7年(1854)千村源征重臣が建立した唄清水碑があり 「馬子唄の響きに浪たつ清水かな」 と刻まれている。唄清水の向かい側には大正6年(1917)建立の禁裡御所神社佛閣巡拝記念碑が建っている。 唄清水から更に下って行くと竹林があり街道を覆っている。
竹林を抜けると車道に突き当たる手前右手に竹炭の看板を立て掛けている民家がある。
車道に突当り左折すると屋根で覆われた一呑の清水がある。この一呑の清水は、年中絶えずに湧き出る清水で中山道を往来する旅人の渇きを癒した。皇女和宮が降嫁の道中この清水を賞味したところ、大層気に入り、後の上洛の際に多治見の永保寺にてわざわざここから清水を取り寄せ、点茶をしたと伝えられている。一呑の清水の前には中山道の道標が建っている。 中山道石畳の道標に従って進んで行くと右手の坂の途中に十本木立場跡がある。宝暦5年(1756)刊の 「岐蘇路安見絵図(きそじやすみえず)」 にも記載があるこの十本木立場は、もともと人夫が杖を立て、駕籠や荷物をおろして休憩した所から次第に茶屋などが設けられ、旅人の休憩場として発展したという。

謡坂十本木一里塚 「木曽海道69次之内御嶽」モデル地 十本木茶屋跡 謡坂石畳標柱
十本木立場跡の先で左に入る旧道口があり、先に進んでいくと、地蔵尊の脇に清水井戸があり、その先に復元された謡坂(うとうざか)十本木一里塚がある。元の一里塚は明治41年(1908)に2円50銭で払い下げられ取り壊されてしまった。ここは江戸日本橋から数えて94里目の一里塚である。 一里塚の先に一軒の民家があり、その前に説明板が建っている。
ここは安藤広重の 「木曽海道69次之内御嶽」が描かれた辺りで、往時は木賃宿があり囲炉裏を囲んだ旅人が和やかに会話をしていたようである。
浮世絵のモデル地説明板の向いの民家前に消えかけた説明板があり、十本木茶屋跡と書かれている。
ここには10本の松の木があったことから十本木と呼ばれるようになったという。説明板の隣に 「不許葷酒」 と刻まれた石碑がある。
十本木茶屋跡から先に進んで行くとY字路があり、街道は左の謡坂石畳に進んでいく。入口には歴史の道中山道道標と東海自然歩道道標が建っている。石畳に入って間もなく謡坂石畳碑があり、そこから程なく右手段上の石窟に馬頭観音が2体安置されている。

道標 マリア像 謡坂出口 耳神社
更に石畳を下って行くと右手に謡坂石畳の説明と道標があり、道標には 「右御殿場 左マリア像」 と刻まれている。 道標に従って細い道を進んで行くと車道に出て、その先にマリア像がある。マリア像の前に子規句碑と史跡七御前碑があり、マリア像の後ろに五輪塔などの石造物がある。ここは昭和56年(1981)3月、道路工事による五輪塔の移転が行われた際に、その下の地中から数点の十字架を彫った自然石が発見され、ここが仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡であったことが判明した。 石垣の積まれた謡坂石畳を下りると車道に突き当たる。
ここには道標 「←耳神社・一呑清水→」 が建っており、道標に従って左折していく。左角の家の前には高浜虚子に師事し現代俳句界の重鎮橋本鶏二の句碑があり、「錦繍の泉の水も錦かな」 と刻まれている。
直ぐ先でとどめき橋を渡り、2車線道路を左折して道なりに進んで行くと右手段上に耳神社がある。耳病治癒、安産、夫婦円満にご利益があり、特に耳の病気にご利益があるという全国的にも珍しい神社である。平癒の願をかけ、お供えしてある錐(きり)を一本借りて耳にあて、病気が全快したらその人の年の数だけ錐をお供えする。奉納する錐は本物で竹でまねて作ったものでもよく、紐で結んで簾のようにしてお供えするという。

西洞旧道の道標 常夜燈 西洞坂東上り口 順拝納経塚碑
耳神社から下って来ると右手に道標が建っており、「右細久手宿7700米 左御嶽宿4100米」と刻まれている。
この道標の隣にも青い歴史の道中山道道標と東海自然歩道の道標が建っている。これらの道標から先が西洞の集落である。
西洞の旧道を進むと道標で分岐した2車線道路の方向に常夜燈が建っている。 常夜燈が見える位置でY字路となり、右手の坂道を進んで行く。
この分岐にも道標が建っており、「←0.5㎞10分牛の鼻かけ坂・耳神社5分0.4㎞」 と書かれた東海自然歩道道標と青い歴史の道中山道道標が建っている。
坂道を上って行くと左手に百八十八ヶ所順拝納経塚碑が建っている。
西国、四国、板東、秩父の霊場巡拝記念碑である。

馬頭観音 牛の鼻欠け坂 西洞坂西上り口 道標
坂道は途中で土道の西洞坂となり、右手斜面に石窟がある。
この石窟には、明和2年(1765)の三面六臂の馬頭観音が安置されている。台座には寒念仏供養塔と刻まれている。
石窟の先から急な下り坂となり、整備されているとはいえ浮石などがあり注意が必要である。ここ西洞坂は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、荷物を背に上ってくる牛の鼻が擦れて欠けてしまうほどの急な上り坂であった。 急坂を下ると石窟から見えた西洞坂の西上り口に出て来る。この辺りから西は比較的平坦な街道となる。
ここには牛の鼻欠け坂の標柱と青い歴史の道中山道道標、東海自然歩道 「←西洞 ・ 和泉式部碑→」 の道標が建っている。
道標に従って進んで行くとT字路の角に 「右御嶽宿3500米 左細久手宿8300米」 と刻まれた道標が建っている。
この先街道右手の草むらには、文化13年(1816)の三面六臂の馬頭観音、その先石段上の石灯篭の両側に摩利支天王と南無阿弥陀仏名号碑があり、さらに街道右手の段上に文化14年(1817)の三面六臂の馬頭観音が建っている

和泉式部廟所 八幡神社 稲荷神社 津島神社
要所要所にある道標に従って進んで行くと国道21号線に突当り、ここを右折すると右手奥に和泉式部廟所がある。和泉式部は平安時代を代表する三代女流文学者の一人といわれ、心の趣くまま歌を詠みながら東山道を辿る途中御嵩の辺りで病となり、鬼岩温泉で湯冶したが、寛仁3年(1019)遂にこの地で没したと伝えられている。石碑には 「ひとりさえ渡れば沈むうき橋にあとなる人はしばしとどまれ」 と刻まれている。 和泉式部廟所の直ぐ先に標柱が二つあり、最初に中街道道標 「右中街道 中山道 大井驛 達」 があり、次いで 「郷社 八幡神社」 の社標が建っている。
八幡神社の社標の建つ段上に上がってみると田の奥の山際に鳥居が見えるので行ってみると、そこから200mほど山裾を入ったところに社殿がある。
国道21号線に戻って進むと、前方左手にこんもりとした丸山(標高166m)が見えて来る。この山の頂上には稲荷神社があり、国道21号線沿いに上り口の赤い鳥居がある。鳥居の先に三面六臂の馬頭観音があり、その上に二の鳥居が建ち、更に上ると三の鳥居の両部鳥居が建っている。舞台のような拝殿の奥に木柵で囲まれた赤い社殿がある。 井尻交差点から国道21号線を直進して800m程先に進むと、右手の山の中腹に津島神社の社殿が見える。
石段は急傾斜で手すりの付いてい部分は岩を削った石段になっており、社殿からは御嶽宿を一望することができる。

道標 弘法堂 用心井戸 旧商家
街道に戻ると国道21号線から左に入る県道341号線の入口に道標が建っており、「右御嶽宿 左細久手宿」 と刻まれている。 県道341号線を進んで行くと小川を渡った右手に弘法堂がある。
境内には南無栄光之碑、由来碑、慈母観音が建っており、本堂の前には白い象の石像がある。
弘法堂の先を右に曲がると御嶽宿の宿並みに入って行く。間もなく左手に 「正一位秋葉神社」 の標柱が建っており、その奥に水神を祀った井戸がある。万一の火災に備え、普段は飲料水として利用されていた 御嶽宿に入ると街道の両側に旧商家の家並みが続いている。

旧商家竹屋 御嶽宿本陣跡 中山道みたけ館 唐沢橋
この竹屋は江戸時代本陣を務めた野呂家から分家した商家である。主屋は明治10年(1877)頃の建築と推定され、豪商として宿場内での役割を果たしてきた。江戸時代の建築様式を色濃く残す建物のうち、平成9年に 「主屋」 並びに 「茶室」 が御嵩町指定有形文化財になっており、建物内は無料で見学ができる。 竹屋の隣が御嶽宿本陣跡である。
御嶽宿本陣は宿場の西寄りに位置し、代々野呂家が努めていた。残された図面によると前後2棟で構成され、前棟が住居棟、後棟が上段の間のある宿泊棟に利用されていたようである。現在の建物は明治・大正の2度にわたって建て替えられているが、江戸期の本陣の風格を感じさせる門構えを遺している。
本陣跡の隣が中山道みたけ館である。
往時は脇本陣であり、この中山道みたけ館には御嶽宿の歴史が分かりやすく展示されている。入口には中山道御嶽宿碑、中山道御嶽宿説明がある。
中山道みたけ館の先で唐沢川に架かる唐沢橋を渡って行く。
唐沢橋を渡ると左手に無料休憩所のわいわい館がある。

願興寺 お食事処 神明神社 常夜燈
わいわい館の街道を挟んだ向かい側に、天台宗の大寺山願興寺がある。願興寺は、弘仁6年(815)、伝教大師(最澄)によって創建されたといわれる古刹である。本堂は国指定重要文化財になっており、境内には地蔵堂、阿弥陀堂、南無阿弥陀仏碑などの石像物がたくさんある。 願興寺を見ている間に時間も13時を回っていたため御嵩駅前で食堂を探したが適当なお店が無く、願興寺の隣の駐車場前にあるお食事処で遅い昼食となった。 街道に戻ると左手に神明神社がある。
社標の横には大正2年(1913)の常夜燈が建っている。
街道は神明神社を過ぎて原写真館の十字路を左折し、御嵩町中公民館の先の十字路を右折していくが、その角地に火袋と笠が木造の文政4年(1821)の常夜燈が建っている。ここで県道341号線と分かれて北上していく。

常夜燈 春日神社 鬼の首塚 御嶽神社
文政4年(1821)の常夜燈が建つ十字路を右折していくと、国道21号線の中交差点手前右手に寛政の正一位秋葉神社と刻まれた常夜燈が建っている。街道は中交差点で国道21号線に合流して左折していく。 街道は中交差点を左折するが、直進すると右手に春日神社の社標が建っており、入って行くと左手に春日神社がある。ここには鎌倉時代の嘉禎4年(1238)7月22日付けで左弁官が取扱って美濃国可児郡の春日社に下した官宣旨の原本が所蔵されている。境内には御嵩町指定名木のヤマガキ、境内社の津島神社、南宮神社などがある。 街道に戻って先に進むと御嵩町中児童館敷地内に標柱があり、その直ぐ先に道標があるが判読不能で、そこから20m先に鬼の首塚がある。伝説によれば、鎌倉初期の建久年間、鬼岩(国指定名勝天然記念物)に住み着き悪さをして御嵩の人々を困らせていた関の太郎という男がおり、正治元年(1199)地頭・纐纈源吾盛康の使いの4人の武士がこの男の首をはね、その首を運ぶ途中、急に重くなったのでここに埋めたという。 街道を進んで行くと大庭交差点手前の右角に御嶽神社がある。
社殿の前には大きな覚清心霊神碑や清嶽覚直霊神碑などの石碑が建っている。

新四国二十五番札所 八幡神社 顔戸城址 御堂
大庭交差点を渡り150m程進むと右手に国道21号線から分岐する旧道があり、水路に沿って進ん行くと程なく国道21号線に合流し、その先右手に八幡神社の社標が建っている。この社標を右手に入って行くと段上に新四国二十五番札所の標柱があり、段上に弘法大師像の安置された弘法堂がある。境内には安永8年(1779)の地蔵菩薩などの石像がある。 新四国二十五番札所から更に山手に進んで行くと顔戸の八幡神社がある。顔戸の八幡神社の由来は平安時代中期の930年源頼義が戦勝祈願して寄進、大庭平太景時によって創られ、棟札から1459年斉藤妙椿が 社殿を修理、1638年に改築されたことがわかっている。境内には大正14年(1925)の常夜燈、境内社の御嶽神社、稲荷神社などがある。 八幡神社から街道に戻る途中右手の道を入ると顔戸城址がある。応仁の乱(1467~77)の頃、中央政権をも揺るがすと云われた武将・斉藤妙椿が顔戸の地に東・北・西の三方に戦いに備えるための豪壮な空堀と土塁を設け、南は可児川の自然の流れを防御施設に利用した平城 「顔戸城」 を築城し、東美濃の守りの拠点とした。周囲に巡らした空堀は、堀底で最大4~5mの遺構が残っている。 街道に戻って進むと右手の石垣の上に御堂が建っている。中を除くと南無石佛の提灯が下がっており、中央に自然石が祀られている。

比衣一里塚跡 道標 伏見旧道 伏見宿本陣跡
御堂から280m程先の可児川沿いに建っている中国料理横浜飯店の先右手に高倉旧道口があり、比衣一里塚跡標柱が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて96里目の一里塚跡である。
比衣一里塚跡から高倉旧道に入って行くと国道475号線をくぐり、その先で比衣川に架かる土橋を渡って行く。道なりに進んで行くとT字路に突き当たり左折して行くと間もなく国道21号線に合流する。
この合流ポイントには、道標 「左伏見宿 右御嶽宿」 が建っている。
高倉旧道から国道21号線に合流して先に進むと右手の可児警察署伏見警察官駐在所の前から右に入る伏見旧道がある。伏見旧道は、直ぐ先(200m余)で国道21号線に合流する。 伏見旧道から国道21号線に合流して緩やかな上り坂を進むと左手の御嵩町伏見公民館前に伏見宿本陣跡がある。伏見宿は慶長7年(1602)中山道の中でも早く設置された御嶽宿から遅れること約90年後の元禄7年(1694)に土田宿(可児市)の廃宿に伴って開宿されたといわれている。ここには伏見宿本陣之跡碑、「是与里東尾州領」 の領界石が建っている。

浄覚寺 一本松公園 旧旅籠三吉屋 常夜燈
伏見宿本陣跡を過ぎて左手一本目の路地を進んで行くと浄覚寺がある。
浄覚寺は尾張徳川家の二代藩主・徳川光友公夫妻の菩提寺である。
境内には霊安堂、五輪塔、芭蕉句碑 「古池や蛙飛込む水の音」 がある。
街道に戻ると伏見交差点に一本松公園という休憩スペースがあり、東屋、トイレが設置されていおり、傍らには 「右御嶽 左兼山八百津」 と刻まれた道標が建っている。 伏見交差点の先左手に旧旅籠三吉屋がある。この三吉屋は旅籠を営む傍ら生薬 「感応丸」 を売っていた。 旧旅籠三吉屋から程なく、左手の可児医院の斜向かいの民家の前に、小社と火袋が木で造られた常夜燈が建っている。常夜燈の奥に建つ小社は道祖神のようである。

播隆上人名号碑 子規句碑 道標 弘法堂
常夜燈から150m程先の右手から合流する道の角に、天保5年(1834)の播隆上人の名号碑が建っており、「南無阿弥陀仏」 と刻まれている。播隆上人は、天明6年、越中(富山)に生まれ、生涯のほとんどを一介の苦行僧として過ごし、前人未踏の3,180mの槍ヶ岳の開山を志し、文政11年(1828)に苦難の末、遂に頂上を極め開山した。 播隆上人の南無阿弥陀仏名号碑からやや下った左手の看板の前に平成8年建立の正岡子規の句碑が建っている。句碑には 「すげ笠の 生國名のれ ほととぎす」 と刻まれている。 正岡子規句碑から150m程先の上恵土交差点のガソリンスタンドの角に大正4年(1915)の道標が建っている。道標には 「右太田渡岐阜市約九里」、「左多治見犬山約四里」、「御大典記念」 と刻まれている。 上恵土交叉点を過ぎて400m程先に進むと右手に弘法堂があり、御堂の前に新四国第八十六番札所の標柱、南無阿弥陀仏名号碑などが建っている。

上恵土神社 一里塚の跡碑 辞世塚 北辰妙見大菩薩
弘法堂の直ぐ先に上恵土神社がある。社標には神明神社・白山神社の合祀と刻まれているが、鳥居には神明神社・諏訪神社の扁額が掛かっており、色々合祀された神社のようである。
境内には大正3年(1914)の諏訪神社の常夜燈、境内社の稲荷社などがある。
街道を先に進むと中恵土交差点の地下道の脇に 「中山道一里塚の跡」 碑があり、これより約30m東と刻まれている。
ここは江戸日本橋から数えて97里目の一里塚跡である。
街道を進んで愛知用水を大東橋で渡り、可茂中央市場を右に見て進んで行くと、JR太田線の手前に辞世塚がある。ここには辞世が刻まれた石碑が4基と長寿記念碑が建っている。 辞世塚の先のJR太田線を越えて進んで行くと右手の段上に昭和7年(1932)の北辰妙見大菩薩碑と昭和47年(1972)の開墾記念碑が建っている。北辰妙見大菩薩は北極星・北斗七星を神格化したもので、北極星は古代中国で天帝の化現した姿と信じられ、後に道教や佛教と習合して菩薩と尊称されるようになった。

秋葉神社 今渡神社 日本ライン今渡駅
住吉自治会館の前に秋葉神社が街道に背を向けて透明なケースの中に建っている。
秋葉神社の石垣の前には、大阿舎梨法印と刻まれた自然石がある。
住吉交差点を直進して行くと右手に今渡神社がある。昭和3年1月13日今渡区村社住吉神社、同八幡神社、神明神社の三社を合祀し、今渡神社と改称している。街道に面して建つ社標から社殿まではかなりの距離がある。境内には金毘羅神社、御嶽神社、覚明霊神などの石碑がある。 今日は今渡神社を最後にして最寄り駅である名鉄広見線日本ライン駅に出て新可児で宿泊する予定である。

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