中山道 (鏡島(岐阜)~垂井)
鏡島からは長良川を渡って河渡宿、美江寺宿を通り、更に揖斐川を渡って赤坂宿を経由して垂井宿へと入って行く。 |
平成27年5月8日(金) ☀ 鏡島(岐阜)~垂井 22.5㎞ |
前日は岐阜駅前に宿を取ったため西岐阜駅まで一駅進んで、街道まで約1㎞ほど出て鏡島大橋南交差点からスタートすることとなった。足裏のマメは潰れることなく状態は変わっていなので今日一日は歩けそうである。今日も天気は良いが日陰となる部分が少ないので水分補給に気を付けて歩いていく。 |
日の出 | 信長公像 | 教壽寺 | 論田川改修記念碑 | |||
岐阜駅前のホテルは部屋が東を向いていたので、早朝5時13分に日の出を見ることができた。 |
岐阜駅前の 「信長ゆめ広場」 には、金色の織田信長像が建っている。 マントを羽織り、右手に種子島(鉄砲)、左手に西洋兜を持ち、真っ直ぐ前を見つめるこの像は、常に時代の最先端を歩き 「変革」 を目指した信長公の姿を象徴している。 |
鏡島大橋南交差点から街道を進み鏡島前川南交差点を右手に入って行くと浄土真宗本願寺派の教壽寺がある。 | 街道に戻ると右手に論田川が並行して流れており、T字路に突き当たる追分橋の袂右手に論田川改修記念碑が建っている。昭和51年(1976)9月の水害では、川の水があふれ、大きな浸水被害があった。 改修記念碑の脇には道標があり、「左岐阜道 せき 上有知 郡上」 と刻まれている。 |
小社 | 乙津寺(梅寺) | 倉稲魂稲荷神社 | 神明神社 | |||
追分橋の先右手の民家の角に小社が建っており、何の表示もないが秋葉神社ではないかと思われる。 | 小社の脇の筋を右に入って行くと、左手に日本三躰厄除け弘法大師の一つとされる乙津寺がある。弘法大師がこの地に滞在し、寺を乙津寺(おっしんじ)と名付けて七堂伽藍塔などを造営したという。別名梅寺というのは、弘法大師が地面に挿した杖が梅の木となり、枝葉が出たという話に由来している。境内には本四国八十八所観音を始めとした石仏石像がたくさん安置されている。 | 乙津寺の近くに倉稲魂稲荷神社(通称鏡島稲荷神社)がある。天文年間の創祀で創立の年月日は不詳であるが、石川駿河守源光清の守護鎮座と言い伝えられている。祭神は五穀を司る倉稲魂命(うかのみたまのみこと)である。 | 街道に戻って進むと右手に神明神社がある。創立年代は不詳であり、昭和34年の伊勢湾台風により弊拝殿の屋根や石灯籠などに被害を受けたため、これらを修復している。境内社には鳥居脇に秋葉神社がある。 |
北野神社 | 地蔵堂 | 鏡島(かがしま)湊跡 | 河渡(ごうど)橋 | |||
神明神社の先右手に菅原道真を祀る北野神社ある。 | 北野神社から程なく長良川の土手に突当り、土手の前には地蔵堂がある。御堂には南無地蔵尊といわれる柔和なお顔の地蔵菩薩坐像が安置されている。 | 地蔵堂の直ぐ先に鏡島湊の解説がある。鏡島湊は長良川を利用した舟運の湊として、豊臣秀吉の政権以前から栄えており、位置は、岐阜町近くで分流した長良川が再び合流する地点の直ぐ川下にあった。湊は明治維新後も継続されていたが、東海道線の開通や道路整備などで陸上交通が発達し、明治時代の後半になるとその役割を終えた。 | 鏡島湊跡から土手を上がると長良川に架かる河渡橋に出る。 長良川は、岐阜県郡上市の大日ヶ岳に源を発し、三重県を経て揖斐川と合流し、伊勢湾に注ぐ木曽川水系の一級河川である ここからは遠くに岐阜城を見ることができる。 |
土手道の小社 | 観音堂 | 河渡宿モニュメント | 一里塚跡 | |||
河渡橋を渡って直ぐ左手のガードフェンスの切れ目から土手道に降りて行くと小社が建っている。この辺りに河渡の渡し場があったという。 | 小社の先の階段を降りて県道163号線を横断すると、その先に観音堂があり馬頭観世音菩薩の標柱が建っている。この観音堂は天保13年(1842)に荷駄役の人達が銭100文づつ寄進し道中と家内安全五穀豊穣を祈願し愛染明王を奉祀するために建てられたものである。観音堂には三面八臂の馬頭観世音菩薩が祀られ、隣にある地蔵堂には南無地蔵菩薩が祀られている。 | 観音堂の前には中山道河渡宿の大燈籠のモニュメントが建っている。 道なりに土手沿いに進んで行くと右手に小社があり、ここを右に曲がると河渡宿の辻行灯が建っている。河渡宿に到着である。 |
街道の右手に中山道河渡宿碑があり、側面に一里塚跡と刻まれている。碑の奥に松下神社ある。文化12年(1815)6月の未曽有の洪水により、このままでは河渡宿も絶えるのではないかと、時の代官松下内匠が宿中を5尺ほど土盛をしてその上に家屋を改築し文化15年に工事を完了させた。この功績に村人たちが神社と顕彰碑を建立したものである。顕彰碑は太平洋戦争の戦禍により上部が欠けている。 |
杵築神社 | 慶応橋 | 熊野神社 | 神明神社 | |||
一里塚跡から程なく左手の島川美容室の路地を入ると須佐之男命を祭神とする杵築神社がある。 鳥居前には経塚があり、傍らの小社に道祖神が祀られている。境内には春日神社、七尾神社の境内社がある。 |
河渡2丁目交差点を過ぎると天王川に架かる慶応橋を渡って行く。往時は、徒歩渡しであった。天王川は決してきれいとは言えないが、ゆったりと北から南へと流れている。 | 慶応橋を渡ると生津(なまづ)縄手の直線の道が700m程続き、生津交差点の先でT字路に突き当たる。街道は右折して行くが、T字路にある路地を入って行くと糸貫川の土手沿いに熊野神社がある。 | 熊野神社の西側に隣接して神明神社の一の鳥居があり、70m程参道を進んで道路を渡ったところに社殿がある。この神社は伊勢皇大神宮の分霊を奉斎した生津の守神であり、氏子をはじめ多くの人々に尊崇されてきたものである。昭和62年には社殿の一部を一新しており、手水石や狛犬、御神燈などが新しくなっている。 |
馬場の地蔵堂 | 糸貫橋と地蔵堂 | 正等寺 | 八幡神社 | |||
街道を進み生津小学校を過ぎるとY字路となり、中央突当りの段上に馬場の地蔵堂がある。御堂には2体の地蔵菩薩が安置され、境内には 「忠君愛国、神佛敬信」 と刻まれた道標があり、忠君愛国の下部に 「右合渡・加納ヲ経テ名古屋ニ至ル」、「左本田・美江寺ヲ経テ京都ニ至ル」、神佛敬信の下部に
「右 高屋・北方ヲ経テ谷汲山ニ至ル」 と刻まれている。 ここは馬場の追分である。 |
追分の地蔵堂を過ぎると糸貫川に架かる糸貫橋を渡って行く。渡り詰め左に延命地蔵を安置した本田地蔵堂がある。この地蔵尊は高さが90㎝の石仏座像で名古屋の石工大坂屋茂兵衛の作で文化6年(1809)に濃州本巣郡上本田村が建立したものである。 | 本田地蔵堂の先を左に入って行くと4つの寺社があり、一番奥に位置するのが真宗大谷派の紫雲山正等寺である。 | 正等寺を出ると畑の中を通る参道の先に八幡神社が南を向いて建っている。延慶元年(1308)楠孫三郎正長八幡宮の小社を再興したのが始まりという。 御祭神は神功皇后、鷹神天皇、比咩大神で、境内社は津島神社と神明神社である。 |
千手院 | 修学院 | 中山道町並 | 本田代官所跡 | |||
八幡神社の隣に高野山真言宗の大悲山慈眼寺千手院がある。堂宇は無く正面の建物に小さな鐘が下がっているので寺院とわかる。千手院は八幡神社の別当寺で八幡神社の修復に伴う遷宮等は、千手院の住職を祭事導師とし祠宮関屋氏とによって祭事が行なわれて来た。 | 街道に一番近い所に美濃新四国49番札所の修学院がある。 境内には弘法大師の幟や石柱などがあり、本堂の隣には不動堂と境内社の稲荷社がある。 |
街道に戻ると日比野綿業の向かいの旧家の前に中山道町並標柱が建っている。この斜め向かい側に本田仲町の秋葉神社がある。 | 秋葉神社の先の中川に架かる中川橋で渡った右手の旧家の辺りが本田代官所跡である。江戸時代の一時期、この辺りに幕府直轄地の代官所があったという。寛文10年(1760)野田三郎佐衛門が初代代官に任ぜられ、この地に陣屋を設け、後に川崎平右衛門定孝と云う名代官を迎えるなど、この地の人々に大きくかかわった。明和7年(1770)大垣藩に預けられるまで続いたという。 |
高札場跡 | 春日神社 | 五六橋 | さぼてん村 | |||
街道を進んで行くと北から南に水路が横切っており、水路に架けられ橋の辺りに高札場跡がある。 高札場跡の先の交差点には大エノキが見えている。 |
大エノキから350m程先の五六川の手前を左に入ると春日神社がある。境内の木は切り倒してしまったようで大きな切株がいくつもあった。 |
春日神社から街道に戻り、五六川に架かる五六橋を渡って行く。五六川は長良川支流の犀川に合流する一級河川である。河川名は中山道で川を渡ったところに美江寺宿があり、日本橋から56番目の宿場であることが由来となっている。 | 五六橋を渡って街道を進むと左手に 「さぼてん村」 と書かれた標柱があり、たくさんのビニールハウスが建っている。ビニールハウスの中には様々なさぼてんが栽培されている。 |
追分道標 | 美江寺一里塚跡 | 瑞光寺 | 自然居士之墓標柱 | |||
さぼてん村を過ぎて樽見鉄道線を越えた右手に道標が建っている。 道標には 「右岐阜加納二至ル 左北方谷汲二至ル」 と刻まれている。 |
美江寺大門裏交差点の先右手に美江寺一里塚跡がある。 ここは江戸日本橋から数えて108里目の一里塚跡である。 |
美江寺大門交差点の右手筋を入って行くと、浄土宗西山派の亀頂山瑞光寺がある。境内にある芭蕉句碑をはじめとした瑞光寺句碑群と美江寺宿本陣の主の山本友左坊之墓は瑞穂市指定史跡となっている。 | 街道右手の酒井電気サービスのところに自然居士之墓標柱が建っており、路地を入って行くと五輪塔がいくつか並んでいるが、どれが自然居士之墓かは説明が無い。 自然居士は、和泉の国(大阪府)に生まれ、京都の東福寺大明国師に師事したが、奇行遊行の僧侶であったという。 |
造り酒屋布屋 | 美江神社 | 美江寺観音 | 旧庄屋和田家 | |||
街道左手には元禄9年(1696)に加納藩から 酒株を分与された造り酒屋布屋が建っている。小森文左衛門が創業した建物は、濃尾地震からも倒壊を免れており、今も酒屋として営業している。 | 造り酒屋布屋の先右手に美江神社がある。かつては、この地に天台宗の寺院である美江寺が存在した。 鳥居脇には高札場跡があり、境内に高札場が復元されている。拝殿内にある陶磁の狛犬は瑞穂市指定有形文化財に指定されている。 |
美江神社の境内奥に美江寺観音がある。美江寺観音は永禄10年(1567)織田信長の命により建立されたという。 街道には 「美江寺観世音道」 の道標が建っており、御堂の前には木彫りの薬師如来が安置され、常夜燈の脇には三面の馬頭観音、地蔵菩薩がある。 |
美江神社の鳥居前を直角に左折した右手に美江寺城主和田氏の末裔といわれる旧庄屋和田家が建っている。 |
光行寺 | 美江寺宿本陣跡 | 開蒙学校跡 | 墨俣道道標 | |||
旧庄屋和田家の先右手の路地先に浄土真宗大谷派の彗日山光行寺がある。 山門は真新しい鐘楼門となっている。 |
光行寺から街道に戻ると50m程先の左手に美江寺宿本陣跡がある。美江寺は天正17年(1589)豊臣秀吉の下知により問屋場が設けられ、荷物中継ぎの業務に当たっていたが、江戸時代になり中山道が整備され宿場制による駅伝業務を担当する宿場となった。本陣は宿場開設より32年遅れて建設され、問屋山本金兵衛が管理を兼ねた。 | 美江寺宿本陣跡の向かい側に尋常高等小学校の前身である開蒙学校跡がある。開蒙学校は、明治6年(1873)に美江寺村が創立した学校で、明治12年(1879)には近隣の月盛学校と合併し、舟木学校となる。その後、近隣の4ヶ村が共同で尋常小学校を設置した。 | 150m程先に進んだT字路に墨俣道道標が建っている。ここは美江寺宿の西口(京口)である。道標には 「右大垣赤坂二至ル 左大垣墨俣二至る」 と刻まれおり、街道はここを右に直角に曲って行く。道標の脇にはお休み処が設けられている。 |
広重の眼 | 千手観音堂 | 千躰寺 | 神明神社 | |||
道標を右に曲がった直ぐ左の空き地の中に広重の眼と書かれた看板があった。廻り込んでみると歌川広重が 「みゑじ」 を描いたのが、この位置であるとのこと。 | 広重の眼の看板の先、犀川の手前に美江寺千手観音堂がある。 御堂には天保4年(1833)の石造りの千手観音が祀られている。 |
犀川を渡って進むとT字路に突当り、正面に千躰寺がある。 千躰堂には自然居士が作成した桧材一木造の阿弥陀如来立像が千体並べられている。仏像は千躰仏と呼ばれ、寺の名前の由来となった。 |
千躰寺の前を左に進んで行くと犀川に突当り、犀川に沿って進むと右手に神明神社がある。神明神社は天照大神を御祭神とした新月村の鎮守である。境内は最近整備された様子で鳥居、手水石、狛犬などが真新しい。 |
熊野神社 | 長護寺橋 | 中山道跡地 | 願照寺 | |||
神明神社から120~30m程先の左手の橋を渡った先に熊野神社がある。熊野神社は十七条城跡(船木城跡)にあり、南北朝時代の初め船木頼胤が築いた城跡である。後に春日の局(お福)の夫となる林正成が元亀2年(1571)この十七条城で生まれた。林正成は成人すると大垣・曽根城主の養子となり、稲葉正成と改正し、お福と結婚した。 境内には 「春日の局ゆかりの地碑」 が建っている。 |
街道に戻り犀川に沿って進んで行くと長護寺川に突当る。往時は、真っすぐ長護寺川を渡って、その先の大月水場公園に抜けていた。ここでは右手の県道156号線に出て長護寺川に架かる長護寺橋を渡って行く。 | 長護寺橋を渡って進んでいくと、瑞穂市立巣南中学校の前の大月浄水場公園の一角に中山道跡地の解説がある。ここには中山道をイメージした石畳の両側に美濃16宿の宿名を刻んだ石柱が建っている。石畳の延長線上に揖斐川土手に続く旧道が延びている。 | 石畳の延長線上に旧道が南西に延びているが、旧道口の前を右(西)に真っ直ぐ行くと、突当りに浄土真宗本願寺派の願照寺がある。境内には親鸞聖人像がある。 |
鷺田橋 | 良縁寺 | 白鳥神社 | 即心院地蔵堂 | |||
旧道に戻って進むと揖斐川土手に突当る。往時は、ここから揖斐川(往時は呂久川と呼ばれた)を船で渡っていた。現在は鷺田橋手前のトンネルを抜けて左に回り込んで鷺田橋上に出て揖斐川を渡って行く。揖斐川は冠山を水源とし、河口付近で長良川と合流して伊勢湾に流れ込んでいる。 | 鷺田橋を渡って左手の土手脇の道を進むとY字路手前の右手に真宗大谷派の良縁寺がある。 | 良縁寺の隣に白鳥神社の鳥居が建っている。長い参道の先に白鳥神社の社殿がある。主祭神は日本武尊、弟橘媛(おとたちばなひめ)で寛文7年(1667)遷宮法主覧常院の棟札がある。社殿前の狛犬の位置が通常とは逆で、阿形の狛犬が左、吽形の狛犬が右になっている。 | 街道に戻り100m程先で右に直角に曲がると、直ぐ左手に浄土宗の即心院があり、街道に面して地蔵堂が建っている。 |
蓮生寺 | 馬淵家の長屋門 | 観音堂 | 小簾紅園 | |||
即心院地蔵堂の斜め向かい側に真宗大谷派の蓮生寺がある。 境内には皇女和宮100年祭の折の秩父宮妃殿下御休憩所跡碑、大正13年(1924)の常夜燈が建っている。 |
蓮生寺の先右手に馬淵家の長屋門があり、門脇に明治天皇御小休所跡碑が建っている。慶長15年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、13を数え、中でもこの船年寄馬渕家には、船頭8人、助務7人が置かれていた。 | 馬淵家の長屋門前からコの字型に枡形道を進むと、馬淵家の長屋門前を直進してきた道と合流する所に観音堂が建っており、脇に地蔵堂がある。 | 観音堂の裏手一帯が小簾紅園(和宮遺蹟)の呂久渡船場跡(呂久の渡し)である。呂久の渡しは中山道を遮る呂久川(現揖斐川)を舟渡しでつなぐ渡し場であり、天正時代織田信長が安土に城を移した頃から交通が頻繁となり、江戸時代の初期に整備されて中山道となり、この呂久の渡しも、それ以来、交通の要所となった。一角には皇女和宮が降嫁の折に詠んだ 「落ちて行く身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」 の句碑が建っている。 |
神明神社 | 耕地整理竣工記念碑 | 地蔵堂 | 新橋 | |||
小簾公園の先で豊後川を渡ると右手に神明神社がある。参道入口脇に木製の道標があり、正面に 「神戸町 日本歴史街道」、右側面に 「東 美江寺宿」、左側面に 「西 赤坂宿」 と書かれている。狭い境内には石造りの神橋、揖斐川に関する石碑が建っている。 | 街道を進むと下柳原夜警詰所の前に道標を兼ねた耕地整理竣工記念碑が建っている。碑の左側面には 「右県道 美江寺北方岐阜方面 左県道 斎田落合方面」 と刻まれている。 | 耕地整理竣工記念碑の先右手に地蔵堂があり、地蔵菩薩、観音像、力石が安置されている。地蔵堂の斜め左先には平野井川を向いて地蔵堂が建てられている。 | 平野井川を新橋で渡って、土手道を進んで行くと平野井川の対岸に神明神社が見える。 |
神明神社 | 三回り半標柱 | 素戔嗚社 | 秋葉神社 | |||
土手道の先で柳瀬橋を渡って神明神社の鳥居前に行くと一里塚跡の解説が建っている。ここは江戸日本橋から数えて109里目の一里塚である。 | 神明神社から柳瀬橋を渡って街道に戻り、土手道から左に降りて先を進むと、県道156号線のガードをくぐった先に 「中山道三回り半」 と刻まれた標柱が建っている。この標柱は、この先にカーブが3つと僅かなカーブが有ることを意味している。 | 三回り半標柱の先で二つ目となる右にカーブする所に素戔嗚社がある。明治21年(1888)7月29日大垣輪中瀬古堤決壊で神府が竹藪に漂着し、鑑定をすると素戔嗚尊と判明し、この地に社殿を設けたのが始まりである。 | 三つ目となる左カーブを曲がり、暫く道なりに進み県道212号線を越えると左手に秋葉神社がある。本殿の隣には稲荷神社が祀られている。 |
長徳寺 | 道標・聖観世音菩薩 | 七回り半標柱 | 加納薬師如来道標 | |||
秋葉神社の先右手に真宗大谷派の長徳寺がある。本堂には御本尊の阿弥陀如来がある。 | 長徳寺の先の二車線道路との交差点右手に道標を兼ねた聖観世音菩薩が祠に安置されている。ここから北に延びる道は、西国三十三所札止めの谷汲山華厳寺への道である。聖観世音菩薩像の脇には 「右ぜんこうじ道 左谷汲山ごうどいび近道」 と刻まれている。 | 二車線道路を横断して進むと右カーブの左手に 「中山道七回り半」 と刻まれた標柱が建っている。ここから京へ向かって7つの曲りとわずかな曲りが1つあるという意味である。この先2度カーブを回り、片側2車線道路を横切って集合住宅の裏に回り込ん行くと、県道230号線の中沢交差点に突き当たる。街道は県道230号線を左折して行く。 | 県道230号線を進み2つ目のカーブ右手に加納薬師如来道標が建っており 「是より北八丁」 と刻まれている。 その奥に地蔵堂があり、道標を兼ねた地蔵尊の下に 「左かのふ村 やくし ミち」 と刻まれている。 |
日比野五鳳記念碑 | 浄圓寺 | 一貫楼分店 | 菅野神社 | |||
加納薬師如来道標の先右手に日比野五鳳記念碑の標識があり、路地を入って行くと日比野五鳳の銅像と隣に万葉歌碑が建っている。日比野五鳳は中沢地区の出身で書道の奥義を究めた書家で芸術院会員である。隣の万葉歌碑は 「東の野にかぎろひの立つみえてかへりみすれば月かたぶきぬ」 と刻まれている。 | 街道を右手に入ったところに浄土宗の浄圓寺がある。ご本尊の薬師如来座像は神戸町指定重要文化財になっている。寺標の隣には地蔵堂があり一体の地蔵菩薩が安置され、山門脇には旧堂宇の鬼瓦が保存されている。 | 12時を回り食堂を探しながら街道を進むと養老線の踏切を越えた左手に中華料理の一貫楼分店があった。 ここでラーメンを食べて一休みとなった。 |
一貫楼分店前の通りの先左手に菅野神社がある。この神社は奈良時代に百済国王の末孫が祖神を祭神として奈良興福寺領の興福寺に祀り、旧中川庄の13村の総社として五穀豊穣、福徳長寿を崇め祀る古社である。本殿にある木造文官神座像は大垣市重要文化財となっている。境内には五角海百合(ゴカクウミユリ)の入った化石が、梅の花が咲いたように見える為 「梅花石」 と呼ばれる佐渡ヶ島産梅花石が安置されている。 |
徳蔵寺 | 白山神社 | 池尻の一里塚跡 | 多賀神社 | |||
街道に戻って県道230号線を200m程進むとY字路があり、街道は左に進んで行く。旧道に入って直ぐ左手に真宗大谷派の徳蔵寺がある。 | 徳蔵寺の先で用水路を渡ると左に用水路に向かって建つ白山神社がある。白山神社の根元社は、加賀の白山の麓石川県鶴来町白山比咩神社で、創建年記は不詳であるが、約290年前の宝永年間(1704-11)に二ツ森から水害を避けて遷されてきた。本殿脇には諏訪社と琴平社の脇社がある。 | 白山神社の先で街道が左にカーブする手前左側に中山道一里塚跡碑が建っている。ここは江戸日本橋から数えて110里目の一里塚跡である。 | 一里塚跡を過ぎると、国道417号線に合流する手前左手に多賀神社がある。この神社は大正10年頃近江國多賀神社御分身を勧請したもので、境内は覚宝院跡であり、御祭神は天照大御神、伊邪那岐神、伊邪那美神である。本殿は昭和34年(1959)9月の伊勢湾台風により甚大な損害を受け、翌年再建されている。 |
道標 | 秋葉神社 | 赤坂湊跡 | 浅間神社 | |||
国道417号線に合流する左手角地に道標燈籠が建っている。道標の正面は 「交通安全」、右側面は 「右おおがきみち」、左側面は 「左なかせんどう」 と刻まれ、脇に赤坂宿をイメージした地域素材の石灰岩と蛍のオブジェが建っている。道標の先は杭瀬川に架かる赤坂大橋である。 | 赤坂大橋を渡って直ぐ右手の路地を入って行くと火防・火伏の神を祀る秋葉神社がある。境内には寄進された燈籠、火伏石の標柱が建っている。 | 街道に戻って進むと旧杭瀬川に突当り、赤い欄干の橋を渡ると右手に赤坂湊跡があり、湊が復元されている。橋の手前左手には大名などが宿場に入る際に宿役人や名主が出迎えた 「赤坂宿御使者場跡」 があり、向かい側には火の見櫓がそびえている。 | 赤坂港会館の隣に赤坂湊の守護神である浅間神社がある。 |
まちの家赤坂宿 | 赤坂本町駅跡 | 赤坂宿本陣跡 | 旧清水家住宅 | |||
赤坂湊から程なく左手に 「まちの家赤坂宿」 と看板を掲げた二階建ての趣のある家がある。入口に 「くつろぎ処森山」 と立て看板がある。ここは地域の看護師が中心となり、健康づくりと相互支援を目指すカフェであり、お茶の間保健室と言われているようである。 | くつろぎ処森山の先に西濃鉄道貨物線の踏切があり、この左手に赤坂本町駅跡碑が建っている。大正8年(1919)8月美濃赤坂線の鉄道が開設されると、杭瀬川の舟運業は急激に衰退し終焉を迎えることとなった。現在は、金生山から産出される石灰石を運ぶ貨物列車が運行されている。 | 西濃鉄道貨物線の踏切を越えると、左手の赤坂本陣公園に赤坂本陣跡碑と和宮之碑が建っている。寛永以後は、馬渕太郎左衛門から平田又左衛門が代々務め、天明~寛政の頃に谷小兵衛に代わったが、以後は矢橋広助が2代務めて明治維新で終了している。公園の奥には、元治元年(1864)俗論党に襲われた井上聞多(馨)の一命を救った幕末憂国の志士 「所郁太郎」 の像がある。 | 赤坂宿本陣跡の先の十字路手前の右手に享保15年(1730)に建築された旧清水家住宅がある。この家は大垣市の重要文化財に指定されている。切妻造りの中2階建てで、2階の軒高が低い途子二階の町屋の技法を採っている大きな商家の建物である。南面1階は、ほぼ全面にわたって格子が入っている。かつては米屋を営んでおり、2階には米を収納する広い部屋が残っているという。 |
道標 | 矢橋家住宅(本陣跡) | 赤坂宿脇本陣跡 | 五七処 | |||
旧清水家住宅の先の十字路右手に石灯籠を兼ねた天和2年(1682)の道標が建っている。道標の正面には 「左たにくみ道」、右側面に 「谷汲山観音道?」、左側面に 「天和二癸亥十月十八日」 と刻まれている。右にある小さい道標には 「左禅蔵寺道」 と刻まれている。この十字路は東西に中山道、北に向かう谷汲街道、南に向かう養老街道の四つ辻である。 | 四つ辻の左手に天保4年(1833)に建てられたという本陣を務めた矢橋家住宅があり、国登録有形文化財となっている。矢橋家一族の建物は、養老街道と中山道の角に建っており、養老街道に面した壁は板壁になっていて趣がある。 | 矢橋家の隣にある榎屋旅館が脇本陣跡で、建物前に中山道赤坂宿脇本陣跡標柱が建っている。赤坂宿では唯一の脇本陣で、宝暦年間(1751-64)以後脇本陣を勤め、明治まで問屋と年寄役を兼ねていた。明治維新後、建物の一部が解体され、町役場となったが、母屋は近年まで榎屋旅館として営業していた。 | 脇本陣の隣に岐阜新聞・毎日新聞の販売所があり、軒を連ねて宿場の駅の五七処がある。ここは赤坂宿が日本橋から数えて57番目の宿場町にあたることにちなみ、「五七」 をキーワードとする饅頭や煎餅などの五七商品を販売している休憩所・案内所である。隣の新聞販売所の自動販売機は格子で覆われて街並みに溶け込んでいる。 |
妙法寺 | 観音寺 | 八王子神社 | 弘法寺 | |||
五七処の斜め向かい側に日蓮宗の妙法寺がある。妙法寺には幕末の志士・所郁太郎と戸田三弥の墓がある。戸田三弥は文政5年(1822)大垣藩家老の家に生まれ、幕末維新の際には藩老小原鉄心と共に紛糾する幕論を勤王に統一するのに尽力した。境内には七面宮、稲荷社、南無日蓮大菩薩碑などがある。 | 妙法寺の先の右手の路地を上がって行くと八王子神社社標の隣に観音寺がある。観音寺とは言うものの軒下に小さな鐘が下がった御堂のみである。 御堂の手前には谷汲山御分身と刻まれた標柱と地蔵堂が建っている。 |
観音寺の奥に八王子神社がある。創建年紀は不詳であるが、古くから明治12年頃までは子安町と田中町の氏神であった。その後は子安町の氏神として祀られており、主祭神は 木乃花咲耶姫之命(このはなのさくやひめのみこと)で、鳥居から本殿までは急傾斜地にある。 | 八王子神社の隣に高野山真言宗の弘法寺があり、堂宇の前に南無弘法大師の幟が立っている。堂内の賽銭箱の上に弘法大師像が安置されている。 |
秋葉神社 | 子安神社 | 所郁太郎生誕地碑 | 兜塚 | |||
弘法寺の横斜め下に秋葉神社がある。秋葉神社も傾斜地に建てられており、鳥居から社殿まで石段が続いている。 | 秋葉神社と道路を挟んで子安神社がある。創祀は不詳であるが、主祭神は神功皇后で第4代将軍徳川家綱の出生時(1641)、領主の戸田左門氏がこの地の竹で造り献上した産刀が霊験あらたかで安産ができたと伝えられている。 境内には馬の背のような 「跨ぎ石」 という霊石があり、これを跨いで子授け祈願をすると子宝に恵まれるという。 |
子安神社から街道に戻ると 「子安神社・化石館」 の案内板の手前に所郁太郎生誕地碑が建っている。 赤坂本陣公園に所郁太郎の銅像が建っているが、美濃国赤坂で生まれ、医者の所伊織の養子となり、憂国の士の精神的支えとなった梁川星巌と親交があった。 |
直ぐ先で信号交差点を過ぎて進んで行くと、廃線となった石灰を運ぶ西濃鉄道貨物線跡の手前に兜塚がある。この墳丘は関ケ原合戦の前日(1600年9月14日)杭瀬川の戦いで戦死した東軍・中村隊の武将・野一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めた場所と伝えられている。兜塚の脇に 「赤坂宿御使者場跡」 の標柱が建っており、ここは大名などが赤坂宿に入る際に宿役人や名主が出迎えた場所で、赤坂宿の西口である。 |
昼飯(ひるい)大塚古墳 | 如来寺 | 史跡の里標柱 | 延長寺 | |||
西濃鉄道貨物線跡を過ぎて、右手に河合石灰工業昼飯工場を見て進んで行くと、左手に昼飯大塚古墳がある。昼飯大塚古墳は今から約1600年前(4世紀末)に築かれた岐阜県最大の前方後円墳である。この墳丘の長さは150mほどあり、後円部と前方部の構造が三段築成となっている。古墳の前にある昼飯公園の一角に小御堂があり、三面八臂の馬頭観音が安置されている。 | 昼飯大塚古墳の先右手に浄土宗の如来寺がある。昔、善光寺如来という仏像が大坂の海から拾い上げられ、長野の善光寺に納められることになり、この仏像を運ぶ一行がこの地で昼飯をとったことから昼飯という地名となり、建久6年(1195)僧の定尊が村東の花岡山に三尊仏を安置して如来寺とした。後に織田信長の兵火に遭い、この地に遷座したという。折しも山門は改修中であったが、手前に地蔵堂があり、境内には観音堂あある。 | 如来寺の先で東海道本線のガードをくぐると、その先の左手に 「史跡の里青墓町 古墳粉糟山」 の標柱が建っている。標柱の向かい側に当たる集落の裏手に小高い丘上になった粉糠山古墳がある。現在古墳は青墓町の共同墓地となっている。粉糠山の地名は青墓の宿場が栄えた頃、遊女たちが朝夕の化粧に使った粉糠を捨てたのが積もり重なって小山となったので 「粉糠山」 と呼ばれるようになったという伝説がある。 | 街道を進んで行くと右手に浄土真宗本願寺派の國府山延長寺がある。山門は廃藩となった青野城(陣屋)の表門を移築したと伝えられている。天和2年(1682)稲葉正次の子・正休は1万2千石の大名となり青野城を築城したが、2年後の貞亨元年(1684)8月28日江戸城本丸内で従兄弟でもある大老堀田正俊を刺殺し、自らも斬殺され青野藩は廃藩となっている。 |
白髭神社 | 照手姫水汲井戸 | 圓願寺芦竹庵 | 中山道青墓宿標柱 | |||
延長寺の隣に白髭神社がある。白髭神社は、桓武天皇の御代に僧最澄の伝教大師が此の地に仏堂を建立したのが始まりと伝えられている。 白髭神社の祭礼に奉納されている大太鼓祭は10月の第2日曜に行われ、農民の雨乞い祈願や豊作踊りで大垣市の無形民俗文化財に指定されている。 |
白髭神社参道口の先左手の路地口に照手姫水汲井戸標柱が建っている。この先を進んで行くと県道216号線赤坂垂井線の手前に照手姫水汲井戸がある。絶世の美女照手姫と相思相愛の小栗判官は、郡代の家来に毒殺され、照手姫は売り飛ばされ諸国を転々とし、最後に美濃国青墓宿の大炊長者に買われた。照手姫は客を取るのを断ったため長者から籠で水を汲めなどという無理な仕事を言いつけられた。 | 街道に戻ると照手姫水汲井戸標柱の斜め向かい側に圓願寺芦竹庵の標柱が建っている。平治の乱で源氏が敗れると、牛若丸(後の義経)は、京都から金売吉次を供にして奥州へ落ちのびる途中、青墓の円願時で休み、江州から杖にしてきた芦の杖を地面に突き刺し 「挿しおくも 形見となれや 後の世に源氏栄えば芦竹となれ」 の歌を詠み、東国へ出発した。その後、芦から芽が出て竹の葉になったという。 | 街道を進むと大谷川の手前右手に中山道青墓宿の標柱が建っている。 青墓宿は中世の東山道の宿駅で、平安時代末期から鎌倉時代に遊女や傀儡子が多くいたことで 「遊女の里」 とも言われていたが、戦国時代に浅井氏の侵攻で荒廃していったという。 |
智教寺 | 道標 | 教覚寺 | 地蔵堂 | |||
大谷川を渡り、県道216号赤坂垂井線を横断して進んで行くと左手に真宗大谷派の雙六山智教寺がある。 | 智教寺の先右手に常夜燈を兼ねた道標が建っている。 道標には 「国分寺道」、「薬師如来御寶前」 と刻まれている。ここを北に上がって行くと美濃国分寺跡(美濃国分寺跡歴史公園)へ出る。国分寺は、国家の泰平を願い天平13年(741)聖武天皇の命により、全国68か所に建立されたものである。 | 道標を北に10数mほど入ると春日の局ゆかりの浄土真宗本願寺派の教覚寺がある。山門前に稲葉石見守正休公碑が建っているが、かつてこの辺りに青野城(屋敷)があったという。春日局は乳母となる前は稲葉正成の妻であり、正成から3代目が正休で貞享元年(1684)江戸城内で大老堀田正俊を刺殺し、自身も居合わせた大久保忠朝などに惨殺され、稲葉家は改易となった。 | 街道に戻ると右手に地蔵堂があり、中には前掛けをした地蔵菩薩坐像が安置されている。 |
一里塚跡 | 稲荷神社 | 地蔵堂 | 喜久一九稲荷神社 | |||
地蔵堂脇の民家の隣に大正5年(1916)の大神宮常夜燈が建っている。この手前に中山道一里塚跡標柱が建っている。ここは江戸日本橋から数えて111里目の一里塚跡である。 | 街道を進むと右手に赤い鳥居が目立つ稲荷神社がある。 鳥居の左手前に瓦屋根の地蔵堂があり、中に赤い布に隠れた地蔵菩薩がある。 |
稲荷神社の先の片野酒店の十字路右手に地蔵堂があり、中に2体の地蔵菩薩が安置されている。 地蔵堂の隣には自然石の道標があり、「平尾 御坊道」 と刻まれている。道標の先には浄土真宗東本願寺派の平尾御坊願證寺がある。 |
追分東交差点を過ぎると、街道右手に喜久一九稲荷神社がある。 境内の井戸の脇に手水石が置かれ、社殿前には日露戦役の二十八珊(㎝)砲丸が奉納されている。 |
地蔵堂 | 垂井追分 | 相川橋 | 東の見附跡 | |||
喜久一九稲荷神社の直ぐ先、右手に倒壊防止のため鉄柱に支えられた地蔵堂が建っており、その裏にこちらも倒壊防止の木柱に支えられた観音堂がある。 |
地蔵堂の先で左にカーブしてT字路に突き当たると、左角に垂井追分道標が建っている。道標には 「是よ里 右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」 と刻まれている。この道標は、宝永6年(1709)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で7番目に古いものである。また、ここには高さ2mの享保3年(1718)の角柱の道標もあった。 | 垂井追分の先で梅谷川に架かる追分橋を渡り、次いで相川に架かる相川橋を渡って行く。相川は昔から暴れ川で度々洪水があったため、江戸時代初期には人足渡しによる渡川が主であった。川越人足は垂井宿の百姓が務め、渡川時の水量によって渡賃が定められていたが、姫君や朝鮮通信使などの特別な通行時は木橋が架けられた。 | 相川橋を渡ると左手に東の見附跡がある。ここから先776mに渡って垂井宿が続いている。垂井宿は江戸日本橋から440㎞、58番目の宿場である。 |
垂井駅 | 大垣城 | |||||
東の見附跡の先でY字路となり右が垂井宿への道となるが、今回はここまでとし、Y字路を左に進んで垂井駅から大垣に出ることとした。 | 垂井駅から7分程で大垣駅に到着したが、まだ陽があるので大垣城へ寄ってみることにした。大垣城は牛屋川を天然の外濠に取り入れた要害堅固な平城で、天文4年(1535)宮川安定によって創建されたと伝えられている。慶長5年(1600)関ケ原合戦では、西軍の本拠となり壮絶な攻防戦が繰り広げられたが、戸田家が入城してからは歴代藩主と共に天下泰平の時期を過ごした。 |