拝殿内部

手力雄神社火祭記念碑

手力雄神社参道

瓢箪型にくり抜かれた手水石

大正6年(1917)の常夜燈など5対並んでいる

 古来、都に軍勢が上がる時、東海道より東山道(後の中山道)に移るには木曽川渡河点として必ず長森を通ることから美濃側の防衛拠点として御鎮座。後に土岐頼遠が長森城を築くも同趣意。
 延喜式に 「鄙守(ひなもり)神社」 とあり、美濃雑事記に 「ひなもり神社、いま手力雄神社という」 とある。以来平時は洪水を抑え、干天には慈雨を賜い、良民を慰撫し、長森は花園天皇の代(南北朝)まで皇室領であった。
 上総の介(織田信長)美濃侵攻の時は一部岐阜町まで侵入を許したが、長森口は拒止し、墨俣一夜城、川並衆調略によって背後を攻められ、陥落。織田中納言秀信公の祈願所として尊崇されたが、西方お味方のため、関ヶ原合戦の前哨戦で東軍の蹂躙するところとなる。
 小野木藤衛門御神体を背負い難を避け、戻って来た時には朱い鳥居と社額が燃え残るのみであった。この社額は当社ご神宝。細畑小木曽氏、柳原氏による 「元和2年」 の幟奉納は、この時の社殿復興より今日まで続いている。
 天正14年(1586)大地震と洪水で木曽川の本流が境川から現在の流路に移る。
 天保3年(1832)より円城寺区雨乞い。(お藤伝説)
 一の鳥居は美濃赤坂にあったという。中山道が美濃赤坂より鵜沼まで舟航時代の名残。二の鳥居は現在の中山道と神社参道の境に立つ。長森騒動の際は切通駅近くにあり、加納藩が聞き取りに当たった。三の鳥居は朱い尾鳥居。
 火祭りは明和年間(1764-71)に中断し、文化2年(1805)再開した。旧暦9月14日御鎮座を祝い奉納された。「打ち上げ」 「手花火」 「からくり」 などを奉納。

手力雄神社由緒

さざれ石

拝殿前の狛犬

中央の狛犬

手力雄神社拝殿

一番手前の狛犬