中山道は、江戸時代に五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)の一つとして開かれました。信濃国を通るので、木曽街道・岐蘇路などとも呼ばれていました。江戸日本橋を起点に69の宿場が置かれており、草津宿から先は東海道と合流して京都へと続き、往きかう旅人たちで賑わいました。京都までの距離およそ136里(約530㎞)の間に、いくつもの峠越えや川を渡る難所がありました。
 この地には中山道の太田宿が置かれ、江戸から京都へ向かう場合、太田宿に入る前には木曽川を渡らなくてはなりませんでした。木曽川の渡し場のことを 「太田の渡し」 といい、中山道の難所の一つとして 「木曽のかけはし 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい」 とうたわれました。
 この街道では、参勤交代で往来した大名や皇女和宮をはじめとする多くの姫君たち、天狗党の一行をこわごわ見ていた坪内雄蔵(後の坪内逍遥)、そして名もなき大多数の旅人たちの様々なドラマが展開されたのです。

 太田宿は、江戸日本橋からおよそ99里(約385㎞)の位置にあり、伏見宿との間には木曽川が流れており、交通の要衝として栄えました。町並は東から上町・中町・下町と大きく分かれ、19世紀中頃の規模は東西に6町14間(約673m)あり、宿内戸数が118戸の規模でした。この宿場に本陣と脇本陣が中町にそれぞれ1軒あり、旅籠屋などがありました。
 本陣や脇本陣以外の旅宿を旅籠屋といい、主に一般庶民や私用の武士たちが宿泊しました。記録によると太田宿には旅籠屋が20軒あったとされ、旧小松屋(吉田家)もその内の1軒でした。
 この宿場町には、今も残る江戸時代の面影を残すとともに、次の時代に向けてその姿を連綿と受け継いでいます。

 太田宿には、旅人を宿泊させる旅籠屋や木賃宿がありました。天保14年(1843)の 「中山道宿村大概帳」 によると 「旅籠屋20、内大3軒、中11軒、小6軒」 と記されています。大・中・小に区分され、宿の規模や格付けがされています。脇本陣林家所蔵の 「旅籠万覚帳」 によれば、松野屋・岩井屋・坂本屋・三枡屋・油屋・今井屋・小松屋などが太田宿で宿屋を営んでいることがわかります。
 この旧小松屋の辺りは、右の絵図に描かれている通り上町の枡形からすぐの所にあり、今も枡形はその面影を残しています。

旧小松屋と上町の枡形説明

中山道説明

太田宿説明

旧旅籠小松屋

解放されている建物内

太田宿で生まれた坪内逍遥の説明