中山道間の宿新加納案内
間の宿新加納
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は、江戸と京都を結ぶ中山道(536㎞)の整備を行った。
新加納は、東の鵜沼宿、西の加納宿の距離が17㎞と長いため 「立場」 と呼ばれる小休所が設けられ、人足や荷馬が休息をとった。また茶屋が設けられ旅人が休息し、「間の宿新加納」
としても栄えた。皇女和宮の降嫁の際には、新加納の梅村屋を休息所とした。
旗本坪内陣屋
新加納周辺を治めていた坪内氏の初代は、松倉城(各務原市川島松倉町)に拠点を置き、織田家に仕え蜂須賀小六ら川並衆をまとめていた。4代利定は、関ヶ原の戦いで徳川隊の鉄砲隊を率いて活躍。これにより、6530石を治める旗本となり、拠点を松倉城から新加納陣屋に移した。陣屋は、巨大な濠(幅5.2m以上、深さ約3m)と土塁(約3m)に囲まれ、強固な防衛施設として建設された。(現在は住宅地)旗本坪内氏は、利定以降11代定益まで続き、明治元年領地を奉還した。
日吉神社
拝殿前には、駒蛙が奉納されており全国的にも大変珍しい。中山道沿いにある定書には、蛙の捕獲禁止の条が書かれている。蛙にまつわる伝承があり、毎年4月に
「げえろ祭り」 が行われている。
「げえろ祭り」
むかし、日吉神社のひょうたん池に、何時の頃からか大きな蛙が住み着き、村人にいたずらをするようになった。村の人は 「蛙は腹が減って悪さをするのだろう」
と、池にごちそうを投げ入れた。
すると、蛙のいたずらがなくなっただけでなく、薬を届けたり、日照りの日には雨まで降らせてくれた。以来、福蛙として村人に親しまれるようになった。現在、池は埋められているが、毎年4月にげえろ祭りが行われている。
道路左手の一里塚跡標柱
日吉の蛙
Y字路中央の一里塚跡標柱