中山道の三大難所の一つ 「木曽のかけはし 太田の渡し うすい峠がなくばよい」 と詠まれた、現可児市今渡地区に残る木曽川の渡し場跡です。(この対岸の呼称が太田の渡し)。木曽川が出水する度に 「船止め」 となったので、今渡地区には、旅人のための宿屋や茶屋などが建ち並び、湊町として繁栄したと伝わります。
 明治34年(1901)3月には両岸を渡す鉄索を張り、それに船を滑車でつなぎ、川の流れを利用して対岸へ船を進める 「岡田式渡船」 となりました。その頃には、渡し賃も無料となっていたようです。乗客がほどよく乗り合わせると出発し、一日に何回も往復しました。夜でも対岸の船頭小屋へ大声で呼び掛けると、船を出してくれたといいます。
 昭和2年(1927)2月、この直ぐ上流に見る太田橋が完成し、渡し場は廃止されました。

 鎌倉時代に起こった承久の乱の記録によれば、当時の官道である東山道は、この下流にある市内土田地区から木曽川を渡り、「大井戸の渡し」 と呼ばれていました。
 江戸時代に入り、この官道は中山道として再整備されました。当時の絵図などから見ると、江戸時代の中頃までは同じ土田地区の渡し付近(土田の渡し)から渡っていたようですが、後期頃からはここ今渡地区へ移されています。
 土田の渡しは、中山道の正式な渡し場ではなくなりましたが、その後も続き、昭和5年(1930)頃に岡田式渡船を採用し、昭和35年(1960)頃に廃止されました。

今渡の渡し場跡説明

今渡の渡し場跡標柱

対岸の太田の渡し

木曽海道六拾九次之内 「太田」 広重画

今渡の渡し場跡