江戸時代につくられた 「鵜沼村絵図」(寛政5年6月)、「中山道分間延絵図」(寛政12年7月~文化3年)によると、鵜沼宿の東側にある一里塚より、東の坂を
「7坂」 「長坂」 とか 「うとう坂」 と呼んでいました。
「鵜沼の東坂」 とか 「うとう坂」 という呼び方は、昭和になってからです。
うとう坂にある一里塚、江戸(東京)から一里ごとにつけられた目印で、旅人にとっては距離の目安、馬や駕籠の乗り賃支払いの目安となり、日差しの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松が植えられました。ここでは片側だけが残り、幅10m、高さ2.1mあります。塚の上には松が植えられました。
江戸時代に、各務原の一部を治めていた旗本坪内氏の 「前渡坪内氏御用部屋記録」 を見ると、天保3年の文書に、この坂を通って10日ほどかけて江戸の屋敷へ到着する計画が残されています。それによると1日の距離は、9里(36㎞)から10里(40㎞)が多く、関東平野に入ると14里(56㎞)という場合もあります。1日の距離数から、当時の交通事情が推測できます。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利をおさめた徳川家康は、慶長6年(1601)に東海道各宿に対し伝馬制を敷き、宿駅制の整備に着手しました。美濃を通る中山道では、慶長9年(1604)に大湫宿、同11~12年に細久手宿が設けられ、さらに寛永11年(1634)には加納宿、元禄7年(1694)には伏見宿が新設されて美濃中山道16宿体制が完成しました。また、この間の寛永年間(1624-44)には大名の参勤交代制が敷かれ、各宿駅に問屋・本陣・助郷制が整備されています。
各務原地域を通る中山道は、慶安4年(1651)にそれまでの木曽川を越えて犬山善師野から可児へ抜ける道筋から、鵜沼の山沿いを通り、ここ 「うとう峠」
を越えて太田宿へ至る道に付け替えられました。うとう峠の 「うとう」 とは、疎(うとい・うとむ・うとうで、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」
などの意味があると考えられます。このうとう峠と鵜沼宿との間は、16町(約1.8㎞)に及ぶ山坂で、長坂・天王坂・塞ノ神坂などの険しい坂が続き、「うとう坂」
と総称されていました。
うとう峠の 「一里塚」 は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれぞれ 「北塚」 ・ 「南塚」 が残っています。北塚は直径約10m・高さが約2mで良く原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中に航空機の兵舎建設によって、南側の半分が壊されてしまいました。
かつて各務原地域には、ここ以外に各務山の前・六軒東方・新加納村にも一里塚がありましたが、現在ではすべて消滅しています。一里塚は江戸時代の交通・宿駅制度を考えるとともに、当時の旅人の苦労が偲ばれる重要な史跡であり、、うとう峠の一里塚は、そのわずかに残された貴重な歴史的財産と言えます。
(各務原市教育委員会)
一里塚標柱が建つ北塚(右側)
北塚の前に立つ説明版
うとう坂の一里塚と中山道説明
中山道道標
(← 鵜沼宿 ・ 太田宿 →)
旧中山道うとう峠一里塚説明
一見して塚とは分からない南塚(左側)