由緒
 往古は天台宗龍興院と称し、厚見郡板瀬(現在岐阜市加納龍興町)に在り、美濃浅野源氏玄孫家の菩提寺であった。鎌倉時代の浄永年間(1200頃)親鸞聖人が関東より京都への帰路の途上に、木瀬の草庵(厚見郡三宅)にてご説法に遇い、当時龍興院住持西方坊(西巌寺初代住職)は18人の仲間と共に、念仏のみ教えに帰依し河野門徒となり寺号を河野西巌寺と改める。
 慶長年間(1600頃)に、加納宿作りに伴い厚見郡清上沼(現岐阜市菊池町)に移転し現在に至る。

浅野家の歴史
 美濃浅野源氏の始祖・源光行は、羅生門の鬼退治で有名な源頼光・北面の武士から数えて8代目の末裔である。源光行は、土岐市肥田浅野の地を所領して美濃一帯に勢力を誇ったが、出家して浅野家菩提寺を草庵とし、初代西方坊と名乗り、親鸞聖人に帰依した。光行から8代目である浅野又三郎光隆が、蓮如上人に帰依し、河野西方坊から河野西巌寺に寺号を改めた。
 その際、専業の僧侶となり、それまでの藩僧侶・半武士を捨てた。慶長年間頃、加納宿作りに協力したにもかかわらず、時の加納藩主・奥平信昌公に帰依を受けたが、折り合わず長良川北岸の真龍寺に移転した。その後の元禄年間頃、時の加納藩主・松平候に現在地に戻された。時は流れ、幕末の20代住職・真教の時、伊賀藩主の息女が輿入れし、中山道沿いの名寺として有名となった。

芸州広島藩播州赤穂藩との関係について
 美濃浅野源氏の始祖・源光行を同じく始祖とする浅野長政や太閤秀吉の妻である浅野ねねの一族として、当寺は赤穂・広島両藩から帰依を受けた(浅野家の美濃浅野源氏家系図作成の際)。特に慶長年間建立の浅野長政の墓石は、鳥取砂岩で戒名が記入されており、当時の墓石で現存する唯一のものである。(浅野長政の墓は、日本国内に当時建立されたものは他にない。)また、当家は、浅野長政を藩祖とする赤穂浪士で有名な赤穂藩と、同一の家紋を使用しており、源光行の流れを共にすることを表すゐ虫食いの鷹の羽の紋である。

西巌寺由緒

右から左に初代から七代

即如門主御手植松

親鸞聖人御舊跡碑

親鸞聖人

西巌寺本堂の阿弥陀如来

浅野家累代の碑