切通は境川北岸に位置し、地名の由来は岩戸南方一帯の滞留水を境川に落していたことによるという。
 文治年間(1185)渋谷金王丸が長森庄の地頭に任ぜられこの地に長森城を築いた。延元2年(1337)美濃国守護2代土岐頼遠が土岐郡大富より長森に居を移し長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめた。
 江戸時代に入るやこの地は加納藩領となり以後幕府領・大垣藩預り地と変わり、享保3年(1802)磐城平藩の所領となるに及びこの地に陣屋が設けられ、幕末までこの地を治めた。
 切通は古来、東西交通の要路にあたり、江戸初期中山道が開通されるや手力雄神社前から浄慶寺付近までは立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物屋等が設けられ、旅人の通行で賑わいを見せ、各地の文物が伝来し、文化の向上に大きく寄与した。

親鸞聖人像

鐘楼

 当山浄慶寺は、もとは天台宗の寺院でしたが、文明18年(1486)5月本願寺第8世蓮如上人に深く帰依した上人直弟子である正専坊が開基した浄土真宗本願寺派の寺院です。
 宗祖親鸞聖人の教えを蓮如上人は、広く民衆にわかるように御布教されました。「いかなるものをも救う本願念仏の教え」 に正専坊は、歓喜帰依し、浄土真宗に転派しました。
 本願寺第8世蓮如上人より名号等を賜り、文亀元年(1501)3月本願寺第9世實如上人より真筆の六字名号を拝領、元和7年(1621)9月4日、12世准如上人より木仏・寺号を賜りました。
 浄慶寺は中山道に面し、戦国時代には、尾張清洲城の織田信長と斎藤義龍・龍興との合戦、天下分け目関ヶ原合戦の前哨戦-米野の戦い、江戸時代には朝鮮通信使節団、皇女和宮下向、幕末の騒乱など、数多くの歴史上の出来事を数百年に渡り見つめてきました。

市場山浄慶寺沿革

切通し由来と中山道碑