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東海道   (桑名(七里の渡し)~四日市)


平成29年9月3日(日)    ☀|☁    桑名(七里の渡し)~四日市   16.0㎞
前回6月以来の東海道である。これまで不安定な天気で4~5日連続で晴れる日が無く、やっと4日程連続で晴れる見込みがあり、前回の続きの熱田からは陸路(電車)で桑名に渡り、七里の渡しから出発である。前日に桑名入りしたので、街道近くの神社仏閣をゆっくり巡ることができた。

海蔵寺 本統寺 通り井説明 三崎見附跡
桑名駅前から七里の渡しへ向かう途中に曹洞宗の法性山海蔵寺がある。
宝暦3年(1753)幕府から揖斐・長良・木曽三大河川工事を命ぜられた薩摩藩は、宝暦5年(1755)工事を完成させたが、多くの犠牲者と巨額の経費超過の責任を負って、工事総奉行平田靭負(ゆきえ)他多くの藩士は自刃した。
海蔵寺には、平田靭負他24基の墓石が現存している。
海蔵寺前の八間通を渡った南側に真宗大谷派の桑名別院本統寺がある。
本統寺は、慶長元年(1596)教如上人の開創で、その娘長姫(おさひめ)が開基である。
境内には、松尾芭蕉が貞享元年(1684)野ざらし紀行の初旅の折、本統寺に一泊した際に詠んだ 「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす」 の句碑が建っている。
本統寺から八間通に出ると通り井説明が建っている。
桑名は木曽川の土砂が堆積してできた土地であるため、昔から水質が悪く、住民は飲料水に苦しんでいたという。桑名藩第4代目藩主松平定行は、寛永3年(1626)に町屋川から道の中央に町屋御用水を掘り、その上に石をかぶせ、所々に井戸を設けて住民の用水にし、明治時代まで使用されていたという。
通り井説明の北側筋を入った突当りの民家前に三崎見附跡がある。
江戸時代、三崎通の西端は三崎見附と呼ばれ、多度や美濃国への出入り口として 「番所」 と 「三崎門」 が設置されていた。多くの人が往来することから、寺の御開帳や芝居・相撲の開催などを告げる立札が立てられる場所でもあった。桑名には三崎見附以外にも東海道筋に京町見附、吉津屋見附、七曲見附があった。

浄土寺 住吉神社 沼波弄山生誕地碑 大塚本陣跡
三崎見附跡から七里の渡しへ行く途中の北側に西山浄土宗の袖野山浄土寺がある。
浄土寺は永承4年(1049)海中から出現した地蔵尊を安置したのが始まりと言われている。慶長の町割りで現在地に移り、桑名藩主本多家の菩提寺となり、藩主本多忠勝が没した時に、当寺に葬られ、本多忠勝本廟となった。
また浄土寺にまつわる幽霊飴の話が伝えられており、現在でも8月の地蔵盆には幽霊飴が売られている。
七里の渡しの手前の揖斐川沿いに住吉神社がある。
住吉神社は、正徳5年(1715)海上の安全を祈り、大阪の住吉大社より勧請して建立された。東を向いた鳥居は、初日の出が鳥居の中央に上がるように計算されて建てられている。
境内には山口誓子句碑 「水神に守られ冬も大河なり」 と有本芳水の詩碑がある。
住吉神社から七里の渡しへの入り口筋右手に沼波弄山の生誕地碑が建っている。
沼波弄山は万古焼の創始者であり、船馬町の商人の家に生まれた。幼児より茶道に親しみ、京都にて尾形乾山に作陶を習い、元文年間(1736-41)に小向(現三重郡朝日町)に窯を築いて万古焼を始めた。中国や南蛮風の情緒を描いた赤鈴を特色とする。のちには江戸でも築窯し、将軍家の御用も勤めた。
直ぐ先左手に大塚本陣跡の船津屋がある。
大塚本陣は、桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で、裏庭から直接乗船できた。建物は変わっているが、明治時代から料理旅館 「船津屋」 として営業している。
板塀の中央にくり抜きがあり、歌行燈句碑が納められている。明治の文豪・泉鏡花が宿泊して書いた小説 「歌行燈」 に登場する 「かわうそ」 の話を俳人・万太郎が詠んだものである。

脇本陣駿河屋跡 七里の渡し 東海道道標 蟠龍櫓
大塚本陣跡(船津屋)の隣に脇本陣駿河屋跡(山月)がある。脇本陣は桑名宿に4軒あったが、そのうち最も格式の高いのが駿河屋であった。建物は変わっているが、現在は料理旅館「山月」の一部となっている。
山月の玄関前には、俗謡歌碑 「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱の女郎」 が建っている。
脇本陣駿河屋跡(山月)の先が七里の渡しであり、突当りに七里の渡し碑が建っている。
東海道は、ここを右に進んで行くが、石垣の上には伊勢国一の鳥居や安政3年(1856)の常夜燈などが建っている。
伊勢国一の鳥居の前の筋角に東海道道標が建っている。右が東海道で、奥に見えているのが蟠龍櫓である。 蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)は、七里の渡に面して建てられたもので、河口のまち桑名を象徴している。
かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルであり、歌川広重の浮世絵 「東海道五十三次」 でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いている。

舟会所・問屋場跡 通り井跡 本多忠勝像 九華公園(桑名城跡)
街道を先に進むと左手の空地前に舟会所・問屋場跡標柱がある。
舟会所は宮および佐屋へ渡る旅人のために渡船の手配をする事務所であった。旅人はこの舟会所に乗船の申込をして料金を払い、乗船した。問屋場は東海道を旅する旅人のために人足や馬を手配する事務所で人馬継問屋場とも人馬会所ともいわれた。
いずれも正確な跡地は定かではない。
先に進むと左手に通り井跡標柱がある。
桑名は地下水に海水が混じるため、寛永3年(1626)に町屋川から水を引いた水道をつくり、町内の主要道路の地下に筒を埋め、所々の道路中央に正方形の升を開けて、一般の人々が利用した。 これを 「通り井」 と言う。 昭和37年(1962)工事のため道路を掘っていて、「通り井」 跡の一つが発見された。現在は道路面に 「井」 と書いた石がはめこまれている。
通り井跡の先の十字路を左折して舟入橋を渡ると、九華公園の入口に本多忠勝像が建っている。
本多忠勝は德川四天王のひとりで 慶長6年(1601)桑名に入封した際、積極的に街づくりを行い、川の流れを変え 「慶長の町割り」 と呼ばれる整備をした。
九華公園は、桑名城の本丸・二の丸一帯を整備した公園で、桑名城は本多忠勝が居城したことで知られている。
公園内には、桑名城天守台跡、鎮国守国神社・鎮国稲荷神社、俳人・葛山たけしの句碑などがある。

春日神社 桑名城城壁 石取会館 道標
街道に戻ると右手に春日神社がある。
正式には桑名宗社というが、一般に春日神社と呼ばれる。 古来から桑名の総鎮守で、 県指定文化財として石取祭、青銅鳥居があり、市指定文化財としては、千姫が寄進したと伝えられる徳川家康坐像、松尾芭蕉真蹟短冊、村正作の太刀および短刀、 千子正重作の太刀、御車祭奏楽、御膳水井、銅鏡及び古鈴などがある。 鳥居横にしるべ石があり、境内には山口誓子と千葉兎月の句碑がある。
街道に戻ると左手に桑名城城壁があり、川口樋門より南大手橋にいたる堀川東岸の城壁約500mに創建当時の面影を残す石垣が残っている。 石積みは野面積み・打込みはぎの2方法で築造されている。
また堀沿いは日本橋から京都の三条大橋に至る東海道53次をモチーフにした公園が整備されている。
掘沿いの公園端でT字路に突当り、ここを右折して行くと右手に大正14年(1925)建築の石取会館が建っている。
石取会館は、国の登録有形文化財に登録されている。
石取会館の先の十字路左手にある桑名市博物館の前に道標が建っている。
道標には、「右☞京いせ道」 「左江戸道」 と刻まれている。

三重県電話発祥の地 東海道道標 道標 観音寺
桑名市博物館の道路を挟んだ向かい側に、三重県電話発祥の地碑が建っている。
明治33年(1900)4月1日、桑名市吉津町に名古屋電話交換局桑名支局が設立され、88名のお客様により三重県で初めて電話交換業務が開始された。
街道に戻って十字路を西に入ると、右手の角に東海道道標が建っている。
この道標の後ろの角地には、毘沙門堂が建っており、道路を挟んだ西側にある京町公園がかつての京町見附跡である。
街道を進むと左手に新しい道標が建っている。
この道標は、桑名市博物館の前に建っている道標のレプリカのようである。
道標には、「右☞京いせ道」 「左江戸道」と刻まれている。
道標の先で交差点を渡ると、左側に道路に面して西山浄土宗の江南山観音寺がある。
観音寺の詳細は不明であるが、道路に面した入り口から入ると、両側に地蔵菩薩・弘法大師などの石像があり、その奥に内陣がある

吉津屋見附跡 東海道道標 教宗寺 光明寺
街道に戻って60~70mほど進んだ右手筋角に吉津屋見附跡がある。
江戸時代の始めは、この付近は吉津屋町に属しており、東海道上に吉津屋門と番所があって、吉津屋見附と言った。 のち鍛冶町として独立したので、鍛冶町門(または小字名の七つ屋門)と言う。 ここの道路は四角形の三辺をまわる枡形道路となっていた。 この枡形道路は現在でも使われており、石取祭車が通る道である。
吉津屋見附跡から四角形の三辺を廻る枡形道路を、それぞれの角に立つ東海道道標に従って過ぎると、その先の 「いもや本店」 の前の十字路角にも東海道道標が建っている。
ここから先は直線の道筋となる。
東海道道標から150mほど先の右手に浄土真宗本願寺派の教宗寺がある。
教宗寺の創建年代等は不詳である。
教宗寺の南側に西山浄土宗の瑠璃山光明寺がある。
光明寺の創建年代等は不詳であるが、室町時代には既に本町付近にあったと言われている。

法盛寺 泡洲埼八幡社 光徳寺 十念寺
光明寺を出ると街道左手(東側)を平行に走る県道613号を渡ったところに浄土真宗本願寺派の裡光院法盛寺がある。
本統寺が真宗大谷派で東御坊と呼ばれるのに対し、法盛寺は浄土真宗本願寺派で西御坊と呼ばれる大寺であり、桑名における布教拠点であった。大伽藍は戦災で焼失したが、本尊は 「阿弥陀如来立像」 (市指定文化財)で両足裏に仏足紋がある。
街道に戻ると直ぐ右手に泡洲埼八幡社がある。この付近一帯は泡洲崎と言われ、八幡社は、往古より泡洲崎一洲の鎮守であった。
境内には、天保13年(1842)新町北端に建立されていた道標があり、「右きゃういせみち」 「左ふなばみち」 と刻まれている。
泡洲崎八幡社の隣に浄土宗の光徳寺がある。光徳寺は、古くは泡州崎念仏道場と称し、 明治7年(1874)進善学校(日進小学校の前身)が開かれた。 境内には、県指定史跡の沼波弄山の墓がある。 沼波弄山(1718-77)は桑名船馬町の商人で、万古焼の創始者である。
また、大坂の市岡新田を開発した市岡宗栄(1664-1714)や、万古焼継承者加賀月華(1888-1937)の墓がある。
光徳寺の南に隣接して浄土宗の仏光山九品院十念寺がある。
十念寺は、古くは朝明郡切畑(現三重郡菰野町)にあったが、室町時代に桑名へ移り、慶長町割の際に現在地に移った。 県指定文化財として祭礼図屏風(江戸時代初期の作と思われる)、市指定文化財として当麻曼茶羅図、仏涅槃図、森陳明之墓がある。 森陳明(1826-69)は明治維新の際に、桑名藩が敗北した責任をとり、藩を代表して切腹した。

寿量寺 顕本寺 長円寺 東海道道標
十念寺に隣接して日蓮宗の妙円山寿量寺がある。寿量寺は、文明元年(1469)頃の開創と云われ、元は今一色付近にあったが、慶長町割の際に現在地に移った。
市指定文化財として狩野光信の墓、銅馨、日蓮聖人本像がある。狩野光信は江戸城の障壁画を描いて、京都へ帰る途中、慶長13年(1608)6月4日に桑名で没した。参道入り口すぐ南にある小さな五輪塔が狩野光信の墓である。
寿量寺を出ると県道401号線を渡るが、左に進むと萱町交差点角に日蓮宗の自栄山顕本寺がある。
旧本山は身延山久遠寺で、檀家には桑名藩士が多く、関連する墓が多数現存する。中でも、吉村宣充吉村又右衛門宣充、水谷光勝水谷九左衛門光勝の墓は桑名市指定文化財に指定されている。
街道に戻って県道401号線を渡った先を進むと、右手に浄土真宗本願寺派の大悲山長円寺がある。
長円寺は、古くは江場村にあったが、慶長町割の際に現在地へ移った。市指定文化財として、桑府名勝志、久波奈名所図会、桑名の千羽鶴がある。桑名の千羽鶴は一枚の紙で連続した鶴を多く折る、珍しい方法である。
境内には、大阪相撲の千田川善太郎(1804没)の墓がある。
長円寺の直ぐ先で左手を並行していた県道613号線に合流すると、直ぐ右手の古田タバコ店の前に東海道道標が建っている。
街道は、古田タバコ店の角を右折して行く。

広瀬鋳物工場跡 天武天皇社 本願寺 道標
古田タバコ店の角を右折して間もなく、右手に広瀬鋳物工場跡がある。
江戸時代のはじめ、城の建設などのため、桑名城主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏を招いて、ここに工場を与えた。 そのためこの付近を鍋屋町と称するようになった。 この工場では梵鐘や日用品も造り、鋳物製品は桑名の特産品となった。 東海道に面しており、文政9年(1826)にはシーボルトも見学している。現在は個人の住宅となっている。
広瀬鋳物工場跡の隣に天武天皇社がある。
壬申の乱(672)の際に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に駐泊されたことにちなみ、建立された神社で、天武天皇を祭祀する全国唯一の神社である。
古くは新屋敷の地にあったといわれるが、寛永12年(1635)新屋敷を武家屋敷としたため、鍋屋町南側に移転し、その後、鍋屋町北側の現在地に移った。
天武天皇社を出ると20m程先の左手に本願寺がある。
本願寺といっても伽藍等は無いが、境内には松尾芭蕉の門人の各務支考の分骨供養塔 「梅花佛鏡塔」 が建っている。周囲には、芭蕉句碑 「今日斗り人も年よれ初時雨」 のほか、桑名の俳句結社 「間遠社」 の歴代社長句碑10基が並んでいる。
本願寺の直ぐ先の十字路右手角に、明治20年(1887)の道標が建っている。
道標には、「右 西京伊勢 道」、「左 東海道渡船場 道」 と刻まれている。

一目連神社 明圓寺 教覚寺 中川梵鐘店
道標の向かいの角に一目連神社がある。
一目連神社の御祭神は、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)で、大津彦根命の御子神であって天照大神の御孫神にあたる。
一目連神社は、我が国金属工業の祖神であり、鋳物及鉄工に関して御利益がある神として知られている。
一目連神社の先で信号十字路を渡ると、右手に真宗大谷派の明圓寺がある。
明圓寺の創建年代等は不詳である。
続いて右手に浄土真宗本願寺派の教覚寺がある。
教覚寺の創建代等は不詳であるが、境内には天保6年(1835)の手水石があり、鐘楼は戦災で焼失して土台だけが残っている。
教覚寺を出ると右手に江戸時代末期創業の中川梵鐘店がある。
中川梵鐘店では、お寺の鐘の他に、石取祭に使う「鉦」 も扱っている。桑名は古くより鋳物産業が盛んで、灯籠や梵鐘、農具・鍋などの日用品が生産された。

善西寺 立坂神社 火の見櫓 神戸岡神社
中川梵鐘店の先で国道1号線を渡ると、右手に浄土真宗本願寺派の走井山善西寺がある。
善西寺は、古くは矢田城が置かれた走井山麓にあったが、後に現在地に移った。
境内には、天保3年(1832)の手水石と戦災を免れた山門と鐘楼がある。
善西寺の西筋入り口に立坂神社の鳥居が建っている。神社は鳥居から300m程北に進んだところにある。
立坂神社は、桑名藩主本多忠勝の宗敬深く、以後代々の藩主の保護を受けた。もともと立坂町(東方)に建立されており、矢田八幡社と称していたが、明治以後は式内立坂神社と称している。
街道に戻るとT字路突当りの右角に火の見櫓が建っている。
ここ矢田町は江戸時代の立場があったところで、ここから左に曲がって福江町に入っても立場が続いていたという。この角には東海道道標も建っている。
東海道道標の先を進んで間もなく、右手に神戸岡(ごうどおか)神社がある。
神戸岡神社の創建年代等は不詳であるが、もとは街道の左手(東)にあり、明治29年(1896)に立坂神社に合祀され、その後、昭和35年(1960)に現在地に移された。

了順寺 江場松原跡 城南神社 晴雲寺
街道を先に進むと、左手に浄土真宗本願寺派の桑部山了順寺がある。
了順寺は、桑部城主毛利秀重(織田信長によって落城)の孫の秀元が出家して、元和7年(1621)に創建した。桑部城は、室町時代末期に町屋川南岸に舌状に張り出した低丘陵地の先端部に築かれた城である。
山門は桑部城の門を移築したものといわれている。
了順寺を過ぎると右手に江場松原跡がある。七里の渡し場から大福までの東海道は両側とも家が建ち並んでいたが、江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていた。 眺望がよく、西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られた。 昭和34年(1959)の伊勢湾台風ごろまでは松並木も残っていたが、現在は家が建ち並び、一本の松も残っていない。 江場松原跡から程なく、右手に城南神社がある。
城南神社は、古代に垂仁天皇の皇女倭姫命が皇祖神天照大神の鎮座地を求めて大和から近江、美濃を通り伊勢へ巡行の折り、この地に休息したとの言い伝えがある。古来神宮式年遷宮ごとに皇大神宮一ノ鳥居及び古殿舎の一部を拝戴改築の古例になっている。
街道を進むと前方の国道258号線高架の手前、右手に浄土真宗大谷派の清浄山晴雲寺がある。
晴雲寺の創建年代等は不詳であるが、参勤交代の西国大名は、晴雲寺に立ち寄って衣服を改めてから桑名城下へ入ったと言われている。

玉喜亭の藤 伊勢神宮常夜燈 旧町屋橋付近 町屋橋
国道258号線の高架下を潜って先に進むと、左手に玉喜亭の藤がある。
この藤は推定樹齢二百数十年を経ており、春は近在の人で賑わい、地震の時は住人の集合場所であったと言われている。この地は東海道往還の人馬の休息所であり、向かいの母屋には 「御馬口御洗水」 の高札が残されている。
玉喜亭の先で員弁川に突き当たるが、その手前右手に、文政元年(1818)に桑名・岐阜の材木商によって寄進された伊勢神宮常夜燈と明治26年(1893)の石造里程標が建っている。
この向かい側には、東海道道標があり直進する矢印となっているが、旧東海道の町屋橋は昭和8年(1933)に廃止されており、国道1号線の町屋橋に迂回することになる。
東海道道標に従って直進すると安永第一公園がある。
ここには東海道53次町屋橋跡説明があり、近くにベンチもあるので休憩するにはいい場所である。
東海道道標のところから国道1号線に迂回して行くと、町屋橋の袂に旧町屋橋の親柱があり、近くに町屋橋の移り変わり説明がある。
また、渡詰めにも 「文学の中の町屋川と橋」 の説明がある。

旧道口 金光寺 真光寺 山口誓子句碑
町屋橋の渡り詰めを右折すると、対岸の伊勢神宮常夜燈の筋の延長線上に旧道口がある。 旧道に入って小川に架かる橋本橋を渡ると、右手に十一面観音菩薩標柱が建っており、奥に進むと高野山真言宗の雨宝山金光寺がある。金光寺は、もともと天台宗で、その後真言宗になったと言われている。延宝2年(1673)に現在の公民館縄生分館の辺りに小堂が建てられ、本尊十一面観世音を祀ったが、寛政年間(1789-1800)に現在地に移った。
本堂の裏には貞享2年(1685)に亡くなった中興開山 「良弄律師」 の墓がある。
金光寺の西に隣接して浄土真宗本願寺派の桔梗山真光寺がある。
真光寺は、大同2年(807)最澄が天神山の西北、お坊カ谷に天台精舎として創建、興国元年(1340)に本願寺第三世覚如上人の教化を受けて、浄土宗に改宗した。
境内には、第7代桑名藩主松平定重が寄進した万治3年(1660)の手水鉢などがある。
街道に戻って先に進むと、左手の水谷たばこ店の前に山口誓子句碑が建っている。
句碑には山口誓子の筆跡で、「露けさよ祷りの指を唇に触れ 誓子」 と刻まれている。

縄生一里塚跡 安達本家酒造㈱ 旧東海道碑
山口誓子句碑から左手3~4軒程先の民家前に縄生一里塚跡碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて97里目の一里塚跡である。
先に進むと近鉄名古屋線の手前右手に安達本家酒造株式会社がある。
安達本家酒造は、明治43年(1910)安達常右衛門氏が創業し、現在で4代続く酒蔵である。代表銘柄に 「富士の光」 「清鷹」 がある。
近鉄名古屋線の伊勢朝陽駅前の伊勢朝日第1号踏切を渡ると、左手の緑地前に旧東海道碑が建っている。
碑の傍らには、瓦に刻まれた東海道説明とそれを分かりやすくした表示した解説板が建っている。
旧東海道碑が建つ緑地の道路脇に推定樹齢300年余の榎が立っている。
榎の根元には、榎の説明を刻んだ瓦と、それを分かりやすく表示した解説板が建っている。

小向神社 橘守部誕生地遺跡 浄泉坊 西光寺
榎から500m程進んだ十字路右手角に小向神社社標が建っている。
社標から北西に300m程進んで、関西本線を渡って右に200m程線路に沿って行くと、左手段上に小向神社がある。小向神社の創建年代等は不詳であるが、お盆の8月には小向八王子祭りという火祭りで、年男が上半身裸になって、鐘と太鼓を打ち鳴す中、松明で叩き合うという奇祭が行われる。境内には、佐佐木信綱の歌碑がある。
街道に戻ると左手に橘守部誕生地遺跡説明板がある。
橘守部(1781-1849)は、江戸時代後期に活躍した国学者である。当時、国学者の多くが本居宣長の門人であった中で、ほとんど独学で国学を学び、独自の学説を展開した守部は異色の存在であり、平田篤胤、香川景樹、伴信友とともに天保の国学四大家に数えられている。
直ぐ先の県道66号線の手前右手に浄土真宗本願寺派の小向山浄泉坊がある。
浄泉坊は、慶長8年(1603)に伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したことに始まる。徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあり、山門や瓦に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っている。そのため、参勤交代の大名はこの門前では駕籠から降りて黙礼したと伝えられている。
県道66号線を越えて進むと、右手に真宗大谷派の朝明山西光寺がある。
西光寺の創建年代等は不詳であるが、現存する絵像ご本尊の裏書に明応5年(1496)とあり、この時をもって開基とし、その後、貞享2年(1685)大谷派に転じ現在に至っている。
現在の建物は、明治10年~23年にかけて建立され、街道に面する松も風雪に耐え、松並木の面影をとどめている。

東海道標識 伊勢湾岸自動車道 多賀大社常夜燈 朝明橋
西光寺の先で街道は左に曲がり、直ぐ右に曲がるS字状になっている。
最初の曲がり角は、Y字路になっているが、東海道標識があり、手作りの看板もある。右に曲がると直線の道となり、右に並行して清らかな流れの水路がある。
水路に沿った道を進むと伊勢湾岸自動車道が東西に横切っている。
伊勢湾岸自動車道は、この近くの東名阪自動車道の四日市JCTから東に進んで、名古屋港を横断して新東名高速道路と東海環状自動車道の結節点である豊田東JCTに至る高速自動車道である。
伊勢湾岸自動車道の手前の土手道脇に弘化3年(1846)の多賀大社常夜燈が建っている。
竿石に 「壽命長久」 と刻まれたこの常夜燈は、元々、朝明川堤にあったものをここへ移したものである。この辺りから東海道を分岐して滋賀県の多賀大社へ行く道があったようである。
伊勢湾岸自動車道高架を潜ると朝明川に架かる朝明橋がある。
橋を渡ると四日市であり、渡詰めのポケットパークには、東海道の案内図や力石などがある。

東海道道標 御厨神明社 観音堂 タカハシ酒造
ポケットパークから坂道を下って変則十字路に出ると、右手の防火水槽金網に東海道案内が貼ってあり、四日市宿まで9kmとある。
ここから先は、民家の塀、生垣など所どころに「東海道」 の道標が貼ってあり、まず地図を見ることなく歩くことができる。
変則十字路の先を進ん行くと、直ぐ右手に御厨神明社がある。
御厨神明社の創建年代等は不詳であるが、祭神は豊受姫命、大山祇命である。
折しも拝殿では神事が行われており、多くの人がお祓いを受けていた。
街道に戻ると直ぐ右手に観音堂がある。
観音堂の由緒などは不詳であるが、狭い参道口には、大正10年(1921)の南無弘法大師標柱があり、奥に入ると観音堂の前に石燈籠・聖観音菩薩像が建っている。
観音堂から程なく左手に、文久2年(1862)創業のタカハシ酒造がある。
この辺りは東海道に沿った村で、昔から酒造業が盛んな地であり、その頃から、伊勢神宮に毎年、この地域の酒を奉納していた。
また 「桑名の焼蛤」 は、この辺りの伝統料理であり、当時、この辺りが桑名藩領であったから、そう呼ばれていたという。

松寺の立場跡 蓮證寺 宝性寺・御厨神明社 長明寺
タカハシ酒造の南を通る筋を過ぎると、左手に松寺の立場跡がある。
当時、桑名宿と四日市宿の間には、五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、南は富田の立場があった。
この奥には、輝子頌徳記念碑が建っている。
立場跡から20m程先の右手に浄土真宗本願寺派の松栄山蓮證寺がある。
蓮證寺は、口伝によれば、400年位前に現在地に御堂があり、本堂も200年位前に建てられたと伝えられている。
太平洋戦争で供出された梵鐘は平成5年に再建され、山門は平成6年に再建された。
蓮證寺を過ぎて暫く街道を進むと、右手に大きな御厨神明社社標と宝性寺寺標が建っており、奥に進むと正面に宝性寺、右に御厨神明社がある。
宝性寺は天平12年(740)聖武天皇の勅願によって創建されたといわれ、もとは天台宗であったが、
現在は単立で地元の観音堂として信仰を集めている。御厨神明社はここ蒔田村の氏神様である。
街道に戻ると直ぐ右手に浄土真宗本願寺派の長明殿長明寺がある。
この地は文治年間(1185-90)に蒔田相模守宗勝が居城した蒔田城址といわれ、境内は濠と築塀に囲まれて、参道正面入口に文化3年(1806)に築造された参詣橋が架かり、桑名城より移築された山門脇には延宝年間(1673-80)に建立した鐘楼が建っている。

長屋門 鏡ヶ池跡 西富田踏切 三光寺
長明寺を過ぎると蒔田信号交差点の手前左手に長屋門の大きな屋敷がある。
長屋門には 「東海道」 の道標が貼られている。
蒔田信号交差点を渡ると左側の二軒目の民家前に鏡ヶ池跡がある。
聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き、天皇の笠が池の中に落ち、 ちょうど傍で洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げた。これが縁で天皇はこの田村家に宿をとられたという。ここには鏡ヶ池碑と鏡ヶ池説明板が建っている。
鏡ヶ池跡の直ぐ先にJR関西本線の西富田踏切がある。
ここは三岐鉄道の高架の下をJR関西本線が交差し、そこを東海道が通る珍しい踏切である。
西富田踏切を渡ると右手に浄土真宗本願寺派の木下山三光寺がある。
三光寺は、この地を治めた蒔田相模守宗勝が没した後、子々孫々その菩提を弔い、11代正了の時、蓮如上人の教理にふれ、一宇の坊舎を建立したのが始まりと言われる。享保3年(1718)に建立された堂宇は安政大地震により崩壊し、その後再建された堂宇は昭和37年の火災で焼失し、現在の堂宇は昭和47年に建立されたものである。

若宮八幡神社 三岐鉄道と近鉄名古屋線 富田の一里塚跡 八幡神社
街道に戻ると直ぐ先でT字路となり、街道は左に進むが、右に入ると左手に若宮八幡神社がある。
若宮八幡神社は、元和9年(1623)の創建で、主祭神は第15代応神天皇である。明治36年(1903)に山神社の老朽化に伴い、大山祇命を合祀し、境内社には若宮稲荷大明神がある。
ちょうど境内清掃を行っていた住民がおり、この地の歴史を詳しく話して頂いた。
街道に戻ってT字路を左折して行くと、三岐鉄道と近鉄名古屋線の高架が続いている。 近鉄名古屋線の高架を潜って直ぐ一塚橋を渡ると、右手に富田の一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて98里目の一塚跡である。
街道を進むと左手に八幡神社がある。
八幡神社は、弘安2年(1279)富田地頭佐原豊前守政盛によって、東富田に勧請されたのが始まりである。明治42年(1909)鳥出神社に合祀されたため、社殿址に 「八幡神社址」 の石碑が建立された。その後、昭和40年(1965)頃現在の社殿が再建され、西町の産土神として戻された。
境内には、重さ100㎏ほどの力石がある。

行啓記念道路碑 東海道道標 正泉寺 道標
八幡神社の先の十字路を越えた右手筋に行啓記念道路碑が建っている。
この碑は、大正天皇が皇太子時代にこの道路を通られたことを記念して建てられたものである。明治43年(1910)11月16日、第三師団と第十五師団の対抗演習を見学のため西下された皇太子殿下は 当時三重県立第二中学校(旧制富田中学校・現四日市高校)にお立ちよりになられた。
先に進むとT字路の左に建つ電柱に大きく 「東海道→」 の道標が貼ってある。
東海道は、このT字路を右に進んで行く。
T字路を直進すると突当りに、真宗高田派の月光山正泉寺がある。正泉寺は、足利時代の永正年中(1510頃)月光院釋唯圓大法師によって開創されたと伝えられている。
元和年間(1615-23)には、高田本山の記録に照泉寺と記述されており、明治以降正泉寺と改名した。現在の本堂は、明治20年(1887)に改築されたものであるが、本堂屋根瓦の老朽化が進み、平成11年に大改修が行われた。
街道に戻ってT字路を左折して進むと、右手2本目の筋角に道標が建っている。
この道標は明治時代のもので、正面に 「津市元標へ拾里」、右面に 「四日市市大字四日市へ壱里八町」、左面に 「桑名郡桑名町大字桑名へ貮里貮拾町・員辨郡大泉原村大字楚原へ四里拾参町貮拾四間」 と刻まれている。

長興寺 神社 道標 明治天皇碑
道標の先の十字路を左折すると左手に曹洞宗の富田山長興寺がある。
長興寺は、養老年中の薬師如来をお祀りする草庵が始まりとされる。天文14年(1545)時の城主南部甲斐守兼綱が菩提所として再建し、永禄7年(1564)には現在地へ移転した。明治期に至り、富田小学校や三重県第二中学校の仮校舎となるなど、富田山と言う山号の如く、けんか祭りや鯨供養など、富田の歴史がそのまま長興寺の歴史となっている。
街道に戻って十字路を直進すると、右手の富田地区市民セターの横に神社がある。
社標も扁額もなく、神社の名前は不明であるが、鳥居は神明系である。
富田地区市民センター入口脇に、街道からは頭しか見えない道標が建っている。
この道標は、明治時代のもので、大正6年(1917)10月に再建され、「右 富田一色・東洋紡績・川越村 道」 と刻まれている。
富田地区市民センターの隣に位置する四日市市立富田小学校の校門脇に、明治天皇富田御小憩所阯碑が建っている。
ここには公爵近衛文麿筆の明治天皇御駐輦跡碑が建っており、その説明もある。

善教寺 十四橋 常夜燈 旧家
先に進むと十四川の手前左手に真宗高田派の成徳山善教寺がある。
善教寺は、寛正のころ(1460-66)東海・北陸地方を布教中の真宗高田派10世真慧上人が、既にあった道場に名号・野袈裟と御書を授けたと伝えられている。本尊の阿弥陀如来像は、仁知2年(1241)藤原実重を施主にして菰野杉谷の地で開眼、
元亀2年(1571)織田信長の兵火から逃れ、この地に安置されたと伝わる国指定重要文化財である。
善教寺の前を流れる十四川に十四橋が架かっている。
十四川沿いの土手には、両岸1.2kmに渡ってソメイヨシノが約800本植えられている。
この桜の歴史は大正12年(1923)に地元製網業を営んでいた伊藤勘作氏ほか有志により植樹したのが始まりで、昭和53年(1978)には開花ぶりが良いと 「日本さくらの会」 より全国表彰を受賞している。
十四橋を渡ると右手一本目の筋角に天保10年(1839)の常夜燈が建っている。
桑名川口から伊勢までの街道に有る常夜燈は、伊勢神宮への導光と考えられている。
常夜燈の横の筋を挟んだ南側に、連子格子で全面板壁の旧家がある。
こうした家屋は、東海道の昔の面影を偲ばせてくれている。

薬師寺 常照寺 力石・新設用水道碑 證圓寺
旧家から程なく右手に薬師寺がある。
大同年間(806-10)の頃、この辺りに疫病が流行し村人が苦しんでいたことを、旅の途中で知った弘法大が薬師如来を彫り、開眼した。すると疫病はたちまち平癒して行った。村人は弘法大師に感謝し、城山に御堂を建ててこの薬師如来を祀たという。その後、茂福城主がここを菩提寺としたが、兵火により焼失した。この時薬師如来は難を逃れて、現在に至っている。
街道を進みT字路に突き当たる手前右手に浄土真宗本願寺派の光明山常照寺がある。
常照寺は、天文7年(1538)釈法導によって開山された。 寛文年間(1661-73)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派して以来400余年を経て今日に至っている。
境内には、茂福町内会が管理する千手観音像が祀られた観音堂がある。
常照寺を出るとT字路突当りに、力石と新設用水道碑が建っている。
力石は、大人用120㎏と子供用19㎏のものが並んで保存されている。
T字路を左折して直ぐ右にクランク状に曲がると、右手に浄土真宗本願寺派の林光山證圓寺がある。
證圓寺は、もともと天台宗だったが、天文年間(1532-55)浄土真宗本願寺派に改宗したと伝わっている。その後、永禄10年(1567)茂福盈豊が滝川一益に謀殺され、茂福城が落城すると、盈豊の遺児は家臣と共に逃れ、その子孫が證圓寺住職を務めたという。境内には、開法蔵があり、一切経を初め多くの経文が納められている。

道標 茂福神社 常夜燈 米洗橋
證圓寺の左手筋の角に道標が建っている。
道標には、「左四日市」 「右いかるが」 と刻まれている。
道標の建つ筋を北西に2㎞程行くと伊賀留我神社がある。
道標の直ぐ先で前川橋を渡ると、右手筋の奥に茂福神社がある。
茂福神社は、応永28年(1421)摂津守政平が越前朝倉よりこの地に赴任したとき、建速須佐男命と天照皇大神をお祀りしたもので、茂福の産土神様である。境内には、鳥居・石灯籠・狛犬・神橋などの石造物がたくさんある。
街道に戻って、県道64号線の高架下を潜って先に進むと、米洗川の手前右手にひときわ大きな常夜燈が建っている。
竿石に 「大神宮」 と刻まれていることから、十四橋の先にあったものと同じ、伊勢神宮への導光であろう。
常夜燈の前を流れる米洗川(よないがわ)に米洗橋が架かっている。
米洗川は、天武天皇元年(672)に勃発した壬申の乱の際、大海人皇子が奈良の吉野を離れて伊賀に入り、鈴鹿から三重郡衙(三重郡の役所)に進み、さらに朝明郡迹太川(あさけぐんとおがわ)のほとりで天照大神に戦勝祈願したというが、その迹太川ではないかと言われている。

地蔵堂 かわらずの松 志氏神社 光明寺
米洗橋を渡って先に進むと、八田第一自治会集会所の脇に地蔵堂が建っている。
地蔵堂の前には、真誉法願上座碑が建っており、地蔵堂の横の空き地奥には、伊勢国八幡神社碑が建っている。
ここは伊勢国八幡神社の跡地であり、八幡神社は明治41年(1908)に志氏神社に合祀された。
先に進むと街道左手に 「かわらずの松」 と言われる名残松がある。
松の木の傍らには、かわらずの松の説明板が建っている。
かわらずの松の先で堀切橋を渡って先に進むと、右手に志氏神社鳥居と社標が建っている。
ここから北西に350m程進むと小高い場所に志氏神社がある。
志氏神社は、垂仁天皇の頃の創建で 「志氏」は天武天皇が皇子の頃、壬申の乱を避け吉野から鈴鹿を経て桑名への途次、迹太川の辺りで伊勢神宮を望拝されたことに由来する。
境内には、4世紀末頃築造された前方後円墳がある。
街道に戻ると、50m程先の右手に浄土真宗本願寺派の初野山光明寺がある。
光明寺は、元々は大矢知村青木谷にあって、弘仁年間に空海が諸国を巡回した時に小堂を建てたのが始まりと伝えられている。その後の変遷を経て、天正年間(1573~1591)に京都興正寺の勧めにより高田派から本願寺派に転じたと言われる。寺標の隣には、八十宮御遺蹟碑が建っている。

森源八酒店 道標 元三大師道道標 多度神社
街道を進むと森源八酒店のところで左にカーブし、その先で国道1号線に合流する。
森源八酒店は、江戸時代には夫婦鈴という土鈴を造っており、「鈴屋」 と呼ばれていた。
明治に入って酒造業に転じ、昭和56年(1981)まで酒造りが行われたが、現在は酒の販売店になっている。
国道1号線に合流して進むと、右手のガソリンスタンドENEOSの角に大正12年(1923)の道標が建っている。
道標には、正面に 「右 桑名 ・ 左 四日市 道」、左面に 「右 四日市 ・ 左 大矢知 道」、裏面に 「羽津四區除雪紀念」 と刻まれている。
国道1号線の左側を進んで行くと、左手に分岐する旧道口があり、この旧道口のところに大正4年(1915)の道標が建っている。
道標には、正面に 「国宝元三大師道」、右面に「垂坂山観音寺是より二十三丁」 と刻まれている。これは此処より直線で3.5㎞程北西に進んだ垂坂町にある観音寺への道標である。
元三大師道道標から旧道に入って直ぐ左手に多度神社がある。
多度神社は、明治18年(1885)多度大社(桑名)より分霊を祭祀し、産土神として奉斎したものである。

三ツ谷一里塚跡 海蔵橋 法泉寺 佛性院
多度神社の先で海蔵川に突き当たるが、その手前に三ツ谷の一里塚跡がある。
かつての一里塚は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。 「東海道分間之圖」 によれば、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されている。
ここは江戸日本橋から数えて99里目の一里塚跡である。
一里塚の先の旧道は、海蔵川で消滅しているので、土手道に出て海蔵橋で迂回して行く。
海蔵川は、四日市市のほぼ中央を東西に流れる川で、鈴鹿山脈山麓(菰野町千草)に端を発し、四日市港に流れ込んでいる。
海蔵橋の渡り詰めで左に折れて旧道に復帰すると、右手に浄土真宗本願寺派の法泉寺がある。
法泉寺の創建年代等は不詳であるが、明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府方の桑名藩主松平定猷の嫡子定教は、ここ法泉寺に幽閉された。
法泉寺の先で信号交差点を越えると、右手に浄土宗の宝光山佛性院がある。
佛性院の創建年代等は不詳である。

三滝橋 なが餅笹井屋 建福寺 帯や脇本陣跡
街道を進むと四日市市の中央部を東流する三滝川に架かる三滝橋がある。
三滝橋は、江戸時代、東海道を往還する人馬で賑わう土橋であったが、明治10年(1877)に板橋に架け替え、さらに大正13年(1924)に鉄構橋に改築された。
歌川広重の描いた「東海道五十三次之内 四日市三重川」 は、この三滝橋あたりだと言われている。
三滝橋を渡ると四日市宿に入り、直ぐ左手に天文19年(1550)創業の笹井屋がある。
「なが餅」 と呼ばれる名物餅は、初代彦兵衛氏がここ勢州日永の里に因んで創ったもので、伊予今治藩主で、後に伊勢津藩の初代藩主となった藤堂高虎も足軽の頃、永餅の美味しさに感動し、「武運のながき餅を食うは幸先よし」 と大いに喜んだという。
笹井屋の脇の筋を東に入ると、右手に曹洞宗の東溟山建福寺がある。
建福寺は、応永年間(1394-1427)諸国行脚中の竺堂了源が三滝川畔のこの地に草庵を構えたのが始まりという。
境内には、安政元年震災惨死者之碑、四日市陣屋を中心としたところにあった四ヵ所の内の一つの 「泗水の井戸」 がある。
街道に戻って進むと、右手に近藤建材がある。
ここは、かつて帯や脇本陣があった場所であるが、現在、標柱や解説はない。

問屋場跡 黒川本陣跡 道標 諏訪神社
近藤建材から3~4軒先に福生医院がある。
ここは、かつて問屋場があったところであるが、現在、標柱や解説はない。
福生医院から通りを二つ越えた右手に黒川農業商会がある。
ここは、かつて黒川本陣があったところであるが、黒川の名は有るものの標柱や解説はない。
黒川農業商会の先で国道164号線を横断して進むと、変則十字路の角に道標が建っている。
この道標は、札の辻(問屋場跡近くの今の伊藤皮膚科医院の角)に建っていたものを複製したもので、立て方は変だが、
正面に 「文化七庚午冬十二月建」、右面に 「すぐ京いせ道」、左面に 「すぐ江戸道」、裏面に 「京いせ道ゑどみち」 と刻まれている。
旧道は道標のところから斜めに国道1号線を横切るように通っていたが、消滅しているので道標の角を何れかに回って国道1号線に出て横断する。横断すると旧道の右手に諏訪神社がある。
諏訪神社は、鎌倉時代の初め建仁2年(1202)信州諏訪神社の御分霊を此地に奉遷したもので、四日市開拓以来の氏神である。
境内には、山津見神社・政成稲荷神社・天神社の境内社がある。

アーケード 東海道碑 阿瀬知橋 崇顕寺
街道は、諏訪神社の先からアーケードのある商店街に入って行く。
川越街道のハッピーロード大山と似た感じである。所どころに東海道の幟が立ち、四日市市のマスコットキャラクター 「こにゅうどう君」 の像も立っている。
アーケードを抜けて中央通りを渡ると、街道入口に東海道400年記念の東海道碑が建っている。 先に進むと阿瀬知川に架かる阿瀬知橋があり、川縁に円柱の 「阿せちはし」 の標石が建っている。 阿瀬知橋を渡ると直ぐ左手に真宗高田派の崇顕寺がある。
崇顕寺は、織田勢の滝川一益に滅ぼされた田原家の一族丹羽弥八郎時定が菩提のため、創建したと言われている。
現在は、幼稚園になっており、正門前に丹羽文雄生誕地之碑が建っている。

鵜森神社 四日市シティホテルアネックス
崇顕寺の先の右手筋を西に300m程入ると鵜森神社がある。
ここは文明2年(1470)に築城された浜田城があったところで、天正3年(1575)浜田城主田原遠江守元綱は織田方の瀧川一益に敗れ浜田城は落城した。その後、田原家の旧臣が鵜森大明神を創立し、藤原秀郷や初代城主田原忠秀らを祀った。
本日はここで終了し、鵜森神社と東海道の中間辺りにある四日市シティホテルアネックスに宿泊である。

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