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東海道   (有松~熱田(七里の渡し)


平成29年6月5日(月)   ☀|☁    有松~熱田(七里の渡し)    10.1㎞
本日は、昨日 「絞りまつり」 で賑わっていた有松の宿並みを改めて見ながら街道を進み、途中、桶狭間古戦場公園へも足を延ばし、鳴海宿を抜けて、宮宿(熱田宿)の七里の渡しまで進む予定である。

松野根橋 地蔵堂 有松山車会館 竹田庄九郎之碑
早朝の有松は、昨日と打って変わって人気がない。毛越川に架かる松野根橋から改めて有松の宿並みを進む。
橋の袂には、淡々の歌碑 「有松や家の中なるふぢのは那」 が建っている。
先に進むと左手に地蔵堂がある。
地蔵堂には、三界萬霊と記された木札の奥に地蔵菩薩坐像が安置されている。
街道右手に有松山車会館が建っている。
この東町の山車庫には、「布袋車」 と呼ばれる山車が格納されている。
明治24年(1891)に東町が袋町(中区錦二丁目辺り)の道具屋から、延宝3年(1675)より名古屋城下の三大祭の一つ、若宮祭へ参加していた布袋車を購入したもので、昭和48年(1973)市の文化財に指定された。
有松山車会館の直ぐ先左手の有松鳴海絞会館の駐車場裏に竹田庄九郎碑が建っている。
竹田庄九郎は、有松絞染の開祖で慶長15年(1610)名古屋城築城の頃、築城に参集してきた諸藩の人々の内に九州豊後(大分県)の者が着用してた衣類等に気をとめた竹田庄九郎が、その製法のヒントを得たと言い伝えられている。竹田庄九郎之碑の隣には、竹田庄九郎顕彰碑・絞中興の祖鈴木金蔵翁紀功之碑が建っている。

服部幸平家住宅の倉 服部家住宅(井桁屋) 中浜商店 唐子車山車庫
有松鳴海絞会館の斜向かいに服部幸平家住宅の倉がある。
服部幸平家は、西隣り(左側)の絞問屋・服部家から分家した家柄であり、かって屋号を井桁一といった。 明治時代中期、分家の際に譲り受けたこの倉は、切石の土台の上に建てられた木造切妻二階建桟瓦葺で、白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とし、江戸時代の様相を呈している。
服部家は、寛政2年(1790)創業の絞問屋で、屋号を井桁屋という。 屋敷地は、東海道に面して広い間口を有する。 中央部に店舗及び居住として利用する二階建の主屋を配し、井戸屋形、店倉、藍蔵、門など合わせて11棟の建物が有力な絞問屋の屋敷造構の典型として、 昭和39年(1964)県の有形文化財に指定された。 直ぐ先の信号交差点の手前に中浜商店が建っている。
建物前には江戸後期の国学者・加茂季鷹の歌碑 「上代より 千代の契りや 有松の 千しほ八千しほ くくり染けむ」 が建っている。碑の裏の板塀は 「チョンナ掛け」 とい匠大工の手技である。
信号交差点を越えて直ぐ、右手に唐子車山車庫が建っている。
ここ中町の山車庫には 「唐子車」 と呼ばれる山車が格納されている。 かつて祭礼に曳航した山車は、祭が終わると山車庫に解体保管していたが、現在は上山をおろした状態で収容、格納している。山車庫の脇には、磯丸の歌碑 「そめそめて あけも美とりも 有松の 里の栄は 色にても知れ」がある。

中舛竹田荘 竹田家住宅 岡家住宅 小塚家住宅
唐子山車庫の斜向かいに中舛竹田壮がある。
この家は、旧東海道の歴史的な街並みを伝える貴重な建物であり、有松絞りの開祖である竹田庄九郎ゆかりの江戸時代の建物であったと伝えられている。
現在は、デイサービス有松松柏苑として活用されている。
中舛竹田壮の隣に竹田家住宅がある。
竹田家は、屋号を笹加いい、江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていった。 建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。 とくに主屋は塗籠造、書院、茶席とも建築的にたいへん優れている。
平成7年に市指定有形文化財に指定された。
竹田家住宅から程なく、街道が緩やかに右に曲がる左手に岡家住宅がある。
この建物は、江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。 主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗籠造の建物である。昭和62年(1987)に市指定有形文化財に指定された。
岡家住宅の二軒隣に小塚家住宅がある。
小塚家は、重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめている。 主屋の一階は格子窓、二階は塗籠壁、隣家との境に卯建があり、塗籠造のうち最も古いものの一つと思われ、有松らしい家並みの景観上からも貴重な建物である。
小塚家は屋号を山形屋として明治まで絞問屋を営んでいた。 平成4年(1992)に市指定有形文化財に指定された。

町並み 神功皇后車山車庫 二代目松 有松の一里塚跡
小塚家住宅前から振り返った有松の町並みである。 街道右手の天満宮社標の向かいに神功皇后車山車庫がある。
ここには神功皇后車と呼ばれる山車が格納されており、かつて祭礼に曳航した山車は、祭が終わると山車庫に解体保管していたが、現在は上山をおろした状態で収容、格納している。
神功皇后車は、明治6年(1873)西町が名古屋の大工・久七に発注して造ったもので、有松に現存する3台の山車の中で最も古くから曳かれている。
山車庫の斜向かいに東海道53次二代目松が立っている。
ここまで昨日の 「有松絞りまつり」 で混み合っていたところを再度見てきた。
直ぐ先の名古屋第二環状自動車道の高架下に有松の一里塚跡がある。
かつて、この辺りに一里塚があったが、大正13年(1924)に払い下げられ、無くなってしまった。その後、地元の強い熱意により、平成24年この地に復元された。
ここは江戸日本橋から数えて87里目の一里塚である。

七ツ塚 桶狭間古戦場公園 瀬名氏俊陣地跡 長福寺
ここで暫し街道を離れて、有松宿から1.5㎞程南にある桶狭間古戦場公園周辺を巡ってみることとした。
武路公園に近いここは織田信長が今川義元を討ち取った後、釜ヶ谷に全軍を集め勝鬨を上げ、村人に命じて戦死者を埋葬した塚のうちの一つである。
桶狭間の合戦の中心地で、田楽坪とも言われ、今川義元最後の地である。「信長公記」 によると、義元が討死した所は、深田の傍らの低地であったという。
公園には信長・義元両雄の銅像が建立され、
義元の墓・首洗いの泉などが配され
、当時の地形を模したジオラマ公園となっている。
大池の近くに瀬名氏俊陣地跡があるが、ここは永禄3年(1560)5月17日、今川義元の家臣・瀬名氏俊隊約200名が先発隊として着陣した所である。瀬名氏俊は桶狭間山に本陣を設営後、大高に向かっていたため戦死を免れ、のち武田家の家来になったと言われている。
地元では瀬名氏俊を偲び 「セナ薮」 とか 「センノ薮」 と呼んでいる。
大池の近くにある浄土宗西山派の和光山長福寺は天文7年(1538)善空南立上人によって創建された寺院である。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いのとき、上人は今川勢が当地に着陣するや、住民の先導者となって酒食を提供し、その労を労ったという。戦いの後、首検証をさせられた義元の茶坊主林阿弥は、許されて国に帰ったが、後に主君を弔うため阿弥陀如来像を納めたと伝えられ、それが現在の本尊となっている。

桶狭間神明社 名残松 神明社 常夜燈
桶狭間神明社の創建代ははっきりしないが、桶狭間村は、14世紀の中ごろ南朝の落武者が山間に逃れ、隠れ住んだのが始まりで、神明社はその拠り所として奉祀されたと言われている。ここには瀬名氏俊が戦勝祈願した折り奉献した酒桶が残されている。
境内には天満宮・山の神・津島社・愛宕社など多くの境内社が祀られている。
街道に戻って、手越川に架かる鎌研橋を渡り、四本木交差点を越えると、右手に名残松が間を開けて2本立っている。 最初の名残松を越えると、右手に神明社の社標があり、階段を上ると神明社がある。
階段に立札があり、この神社は 「元伊勢伝承の神社です」 と記されている。
神明社の創建年代等は不詳であるが、境内には宝暦6年(1756)の宿中安全と刻まれた手水石、保存樹のクロマツがある。
先に進んで平部北交差点を渡ると、左角に文化3年(1806)の常夜燈が建っている。
常夜燈には 「秋葉大権現」 「永代常夜燈」 「宿中為安全」 「文化三丙寅正月」 と刻まれており、ここは鳴海宿の東口である。

鳴海宿町並み 金剛寺 クロマツと旅姿碑 中島砦跡
町並みは平部町東端の秋葉常夜燈から始まり、平部町から中島町まではほぼ直線の東海道が走り、中島橋で扇川を渡ると相原町に入って行く。 街道右手に曹洞宗の紫雲山金剛寺がある。
金剛寺は、宝暦10年(1760)瑞泉寺20世呑舟和尚が創建し、本尊は行者菩薩像である。当初、行者堂と称したが、昭和17年(1947)瑞泉寺31世道本蜜成和尚を寺号開山とし、本尊行者菩薩の金剛杖や金剛般若経と縁深いことから、紫雲山金剛寺と改称した。
境内には明和4年(1767)の西国三十三観音が安置された観音堂がある。
先に進むと左手の民家前にクロマツがあり、その傍らに女性と手代の旅姿碑が建っている。 中島橋の手前を左折して扇川と手越川の川縁を回り込んで行くと、標識の先10m程先に中島砦跡がある。
永禄2年(1559)織田信長が今川義元の尾張進攻に備えて築いた砦であり、桶狭間の戦い後、その役目を終えた。

中島橋 瑞泉寺 相原町並み 万福寺
扇川に架かる中島橋を渡ると相原町へ入って行く。 中島橋を渡ると直ぐ右手に曹洞宗大本山総持寺直末の龍蟠山瑞泉寺がある。
瑞泉寺は、鳴海根古屋城主安原宗範が応永3年(1396)に創建したと伝えられ、大徹禅師を開山とする。 初め瑞松寺と称し、その後、兵火により焼失し、 文亀元年(1501)現在地に移り、後に寺号を瑞泉寺と改めた。山門は、切妻屋根の中央部が上方に突き上がった、宇治の万福寺の総門を模したもので、県の有形文化財に指定されている。
相原町並みには所どころに連子格子の家が建っており、往時の街道を偲ばせている。 街道を進むとT字路の手前右手筋を入ったところに真宗高田派の万福寺がある。
万福寺は、永享年間(1429-41)三井右近大夫高行の創建で、永禄3年(1560)兵火で焼失したが再建され、江戸時代末期にも再々建された。
明治6年(1873)に鳴海小学校仮校舎となり、校名を広道学校と称した。

東の問屋場跡 本町山車庫 高札場跡 圓龍寺
街道に戻って枡形を曲がると、左手に緑生涯学習センターがあるが、ここはかつての東の問屋場跡である。
鳴海宿には、当初、花井町の児玉家が勤め一ヶ所であったが、天保年間(1830-44)に東の問屋場が出来て交替で勤めた。
本町交差点の手前左手に本町山車庫がある。この地には成海神社と鳴海八幡宮の二つの由緒ある神社があり、それぞれ別々に山車祭りが行われている。 本町交差点を右折した三菱東京UFJ銀行の前に高札場が復元されている。
鳴海宿では、江戸時代、宿場の中央にあたる東海道と鳴海駅前通りの交差点東北角に大きな屋根付きの高札場が作られ、 高札が掲示されていた。(ここより南に約70mの場所)
高札場のある三菱東京UFJ銀行の裏手に真宗大谷派の竹林山圓龍寺がある。
圓龍寺は、当初、天台宗の善正寺と称したが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いの前哨戦で寺が焼失し、寛永10年(1633)この地に再建され、浄土真宗竹林山圓龍寺と改称された。
本堂は街道を向いて建っており、街道から上がる道もあるが、現在は使用されていない。

天神社(鳴海城址) 圓道寺 誓願寺 本陣跡
三菱東京UFJ銀行の北側に天神社がある。
天武天皇朱鳥元年(686)、日本武尊とその御東征を翼賛した尾張氏始祖とを併せ祀って、この所に鳴海神社が創建されたが、戦国時代当初、応永年中(1391-1427)に足利氏武将安原宗範がこの地に築城のため、成海神社を乙子山の現在地に奉遷した。その後、桶狭間合戦の際この城は今川氏の重要拠点となり、その時祀られていた天神社が遺ったものであり、境内には芭蕉句碑などがある。
天神社の向かい側の県道を渡ったところに、曹洞宗の庚申山圓道寺がある。
圓道寺は、天正年間(1573-91)の創建で、当初庚申山猿堂寺と称していたが、本堂は有松に移転し祇園寺となった。一方、旧地に残った地蔵堂は安永3年(1774)に庚申堂と改称し、昭和17年(1942)に圓道寺となった。本尊は青面金剛で、屋根に 「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿が据えられている。
圓道寺に隣接して石山浄土宗の来迎山誓願寺がある。誓願寺は、天正元年(1573)僧俊空の開山で、本尊は阿弥陀如来である。
境内には、元禄7年(1694)10月に芭蕉が亡くなった翌月の命日に建立された芭蕉供養塔、安政5年(1858)に永井士前始めその門人が建立した芭蕉堂がある。芭蕉堂には芭蕉手植えの杉の古木で彫られた芭蕉像がある。県道に面しては観音堂があり、聖観世音菩薩と弘法大師が祀られている。
街道に戻って本町交差点を直進すると、左手のばんの家電のところが本陣跡である。
手前の山車庫のところに説明があり、「幕末のころ、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。 なお、天保14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3,643人・旅籠68軒(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。 また、予備の脇本陣は、2軒あった。」 と記されている。

如意寺 東福院 長翁寺 旧家
直ぐ先の右手に曹洞宗の頭護山如意寺がある。如意寺は、康平2年(1059)上ノ山に青鬼山地蔵寺として創建され、応永5年(1398)東区長母寺の無住国師が現在の場所に移転し、その後、応永20年(1413)如意寺と改称した。
境内には、飢饉のとき地蔵尊の足元から蛤が出てきて村人を救ったという蛤地蔵尊が安置されている。山門脇にはせき地蔵尊が祀られた弘法堂もある。
如意寺を出て作町交差点のT字路を右折すると、右手に大きな旧家があり、その脇を入って行くと真言宗智山派の東福院がある。
東福院は、古くは鎌倉街道にあり、寛永年間(1624-43)にこの地に再建され、根古屋(鳴海)城の廃材を用いた山門が現存する。本尊は大日如来で、山門脇には観音堂があり、境内には江戸時代に祀られた弁天堂がある
街道に戻って三皿交差点を右折すると、左手に曹洞宗の白龍山長翁寺がある。
長翁寺は、永正7年(1510)鳴見町薬師山の地に創建されt、天正年間(1573-91)に現在地へ移転した。本尊の薬師如来は織田有楽が信長の念持仏を貰い受けたものと言われ、織田薬師とも呼ばれている。
境内には薬師堂があり、薬師三尊が祀られている。
長翁寺の先の街道は微妙にくねっており、町並みには連子格子の旧家が残っている。

常夜燈 光明寺 鉾ノ木貝塚 緒畑稲荷神社
T字路信号交差点の右手に篤志家の寄進により設置された、寛政4年(1792)の常夜燈が建っている。常夜燈の表に 「秋葉大権現」、右に 「寛政4年11」、左に 「新馬中」、裏には 「願主重因」 と刻まれている。
傍らには 「安産守護子安地蔵大菩薩光明寺」 と刻まれた、大正15年(1926)の光明寺寺標が建っている。
T字路信号交差点を右に入ると、左手に曹洞宗の一国山光明寺がある。
光明寺は、当初、真言宗の清水寺と称し鎌倉海道筋にあったが、弘治2年(1556)現在地に移転し、瑞泉寺九世剛菴洞金大和尚が開山となり、曹洞宗に改宗し光明寺とした。
山門には風神・雷神が祀られ、天女の扁額が掛かっており、境内には文政4年(1821)の手水石がある。
街道に戻って進むと、右手に鉾ノ木貝塚がある。この貝塚は、縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。 下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線文土器、上部貝層からは、前期中ごろの羽状縄文、 爪形文を施した平底の深鉢型土器を主体として出土しており、上層土器の型式をとらえ 「鉢ノ木式」 と呼称されている。 野村三郎氏により発見された。 鉾ノ木貝塚の直ぐ先右手に鳥居があり、細い道を上って行くと千句塚公園標石に芭蕉句 「星崎の 闇を見よやと 啼く千鳥」 が刻まれ、千句塚公園に上がると奥の方に緒畑稲荷神社がある。
緒畑稲荷神社は、室町時代に伊勢の緒畑原から勧請されたと言われている。境内には不動明王・弘法大師などの石造物があり、公園の一角には日本最古の翁塚で松尾芭蕉存命中唯一の千句塚碑が建っている。

天白橋 知多郡道道標 笠寺一里塚跡 東光院
街道に戻り三王山交差点を渡って先に進むと、天白川に架かる天白橋がある。
天白川は、愛知県日進市東部の三ヶ峯上池付近を源とし、名古屋市を流れて伊勢湾に注いでいる。天白川は明治時代になって付けられた名前で、それ以前は米野木川と呼ばれていた。
天白橋を渡り、赤坪町交差点を越えると、左手の笠寺精治寮病院前の歩道に知多郡道道標が建っている。
道標には 「知多郡道この先50m南へ」 と刻まれており、道標の先の歩道上には、東海道分間延絵図が設置されている。
笠寺精治寮病院の先で、街道が右にカーブした先のY字路中央に笠寺の一里塚跡がある。
この塚は東塚で、塚上にはエノキが植えられており、西塚は大正時代に取壊されてしまった。ここは江戸日本橋から数えて88里目の一里塚である。
先に進んで、カーブミラーが両側に設置された十字路を左折すると、真言宗智山派の天林山東光院がある。東光院は、天平8年(736)に開創され、延長8年(930)藤原兼平中将が再建し、その宿坊として創立された。その後、幾多の変遷を経て天文5年(1536)再興された。本尊は不動明王で、境内には出世神酒天神と言われる天満宮がある。また、寛永7年(1630)頃宮本武蔵が一時滞在し、天満宮に帰依し、自筆の書・自作木刀・肖像画が寺宝として残されている。

笠覆寺 泉増院 西方院 東海道道標
街道に戻って進むと、右手に真言宗智山派の天林山笠覆寺がある。笠覆寺は、天平5年(733)僧善光が開き、十一面観音を安置したのが始まりである。当初、小松寺と呼ばれていたが、その後荒廃し、延長8年(930)に藤原兼平が復興し、現在の笠覆寺という名前になった。現在の本堂は、宝歴13年(1763)に建造されたもので、境内には宮本武蔵之碑・千鳥塚のほか、玉姫堂・善光寺堂・地蔵堂などたくさんのの堂宇が建っている。 笠覆寺の放生池の向かいに真言宗智山派の天林山泉増院がある。
泉増院は、笠覆寺塔頭の一つであり、境内には玉照姫を祀った不動堂がある。
泉増院の直ぐ先、左手の段上に真言宗智山派の天林山西方院がある。
西方院は、笠覆寺塔頭の一つであり、境内には木曽義仲の母が持仏として信仰していた烏枢沙摩明王と粕畠観音と言われる十一面観世音菩薩碑が祀られている。
西方院を出て笠覆寺の西門向かいの筋を進み、名鉄名古屋本線を越えた十字路左手に東海道道標が建っている。
道標には 「是より北よびつき」 「是より東かさでら」 と刻まれている。よびつきとは呼続と書き、昔この辺りは浜であったため、互いに名前を呼び合いながら渡ったところと言われている。

東海道道標 桜神明社 富部神社 清水稲荷神社
先に進むと十字路の両側に東海道道標が建っている。左側の道標には 「冨部神社塩付街道」、右側の道標には 「桜神明社塩付街道」 と刻まれており、東海道を横切る筋が塩付街道である。
塩付街道は、星崎付近の塩田で取れた塩を、足助を経て信州方面に運ばれたことに由来している。
右側の道標を東に入り、突当りを左に進むと桜神明社がある。
桜神明社の創建年代等は不詳であるが、本殿は5世紀末ごろの古墳の上に鎮座している。
桜神明社古墳の名は、桜神明社が祀られていることに由来するが、別に 「ひめ塚」 とも呼ばれている。大正5年(1916)には近在の熊野権現社が合祀され、境内には津島神社・秋葉神社の境内社がある
街道に戻って、左側の道標を西に入って行くと右手に富部神社がある。
富部神社は、「蛇毒神社」「戸部天王」 とも呼ばれ、慶長8年(1603)清洲城主松平忠吉が津島市にあった津島神社を現在地に移し、慶長11年(1606)に本殿・祭文殿・回廊・拝殿を建てたと伝えられている。
境内には戸部新左衛門政直霊位碑・戸部城址碑のほか、八王子社・居森社・富部龍王社などの境内社がある。
街道に戻って東海道道標から50~60m進むと、左手に清水稲荷神社がある。
清水稲荷神社は独立した神社ではなく、曹洞宗の稲荷山長楽寺の鎮守社となっている。
鳥居の前には東海道宿駅制度400年記念碑があり、参道には推定樹齢400年の御神木の楠、文化4年(1807)の常夜燈がある。

長楽寺 街道町並み 誓願寺 地蔵院
清水稲荷神社の隣に曹洞宗の稲荷山長楽寺があり、街道には長楽寺寺標が建っている。
長楽寺は、弘仁12年(821)に空海が巡礼途中にみた夢のお告げで、呼続の浜に七堂伽藍を創建したのが始まりと言われる。その後、荒廃したこの寺を永正5年(1508)に今川氏が再建し、寺号を 「長楽寺」 と改めた。境内には観音堂・弘法堂のほか、動物観音・盲導犬慰霊碑などがある。
街道に戻ると車の往来の少ない長閑な町並みが続いている。 街道がやや左にカーブした先で呼続小学校前交差点を渡ると、左手に西山浄土宗の正覚山誓願寺がある。
誓願寺の創建年代等は不詳であるが、本尊は阿弥陀如来で、境内には地蔵菩薩が安置されている。
誓願寺から程なく右手筋角に地蔵院がある。
御堂には、鎌倉時代に鋳造されたと伝えられる高さ約2.3mの地蔵菩薩坐像が安置されている。
この地蔵尊は、人々が湯を浴びせて祈願したことから、「湯浴地蔵」 と呼ばれているが、戦災と伊勢湾台風の被害に遭ったため、仏頭と両掌だけが原形を留めている。地蔵院前の通りは鎌倉街道で、東海道を横断して西に延びており、東海道の両側に鎌倉街道と刻まれた道標が建っている。

白毫寺 熊野三社 東海道道標 安泰寺
街道左手の鎌倉街道を西に進んで行くと、突当りに曹洞宗の眉間山白毫寺がある。
白毫寺、元亀2年(1571)桂岩昌玖大和尚による創建と云われ、元緑年間(1688-1703)に本堂・庫裡・山門などが整備された。昔、この辺りは、年魚市潟(あゆちがた)と知多の浦を望む勝景の地で、万葉歌人などが歌に詠んだところであり、境内には 「年魚市潟勝景碑」 が建っている。「あゆち」 は「あいち」 に転じ、県名の語源となった。
街道に戻って進み、信号交差点を渡ると右手に熊野三社がある。
熊野三社は、永禄年間(1558-70)に山崎城主の佐久間信盛が城中の守護神として祀ったことに始まり、その後、寛永4年(1627)に山崎村及び付近一帯の鎮守として現在地に再建された。
境内には、松巨嶋と刻まれた明和3年(1766)の手水石、津島社・浅間社などの境内社がある。
街道がやや左にカーブする辺りの左手に、うなぎ一品料理 「泉玉」 があり、その前に東海道道標が建っている。
道標には 「山崎の長坂」 「山崎城址安泰寺」 と刻まれている。
東海道道標の向かいの筋を入って行くと、名鉄名古屋本線の跨線橋を越えた先に、浄土宗の寶珠山安泰寺がある。
安泰寺の創建年代等は不詳であるが、境内は、山崎城の跡地にある。山崎城は、蔵人浄盤の居城であったが、その後、加藤与三郎が入り、最後に佐久間信盛の居城となった。佐久間信盛は大坂石山本願寺の戦いの後、織田信長に高野山へ追放され、山崎城も廃城となった。

法泉寺 東海道道標 秋葉神社 山崎橋
街道に戻って進むと右手に曹洞宗の龍雲山法泉寺がある。
法泉寺は、文禄3年(1594)行基開基と言われ、寛政年間(1789-1801)曹洞宗になった。
本尊は、薬師如来・日光菩薩・月光菩薩で弘法大師の作と伝わっている。
街道に戻って先に進むと、山崎川に架かる山崎橋の手前の右角に東海道道標が建っている。道標には 「北あつた・南よびつぎ」 と刻まれている。
傍らにある石柱は、明治21年(1888)の旧山崎橋の親柱であり、左手の筋脇にも親柱が保存されている。
山崎橋の手前、左手筋の旧山崎橋親柱の直ぐ先に秋葉神社がある。 山崎橋は、山崎川に架かる橋で、この橋を境に南区から瑞穂区へ入って行く。
現在の橋は、昭和39年(1964)に架け換えられたものである。

道標・旧親柱 秋葉神社 東ノ宮神社 東海道標柱
山崎橋の渡り詰め右手の緑地の中に、旧山崎橋の親柱と道標が建っている。
道標は風化進み判読は難しいが、「是より井戸田村」 「是より北音・・」 などと刻まれている。
山崎橋の渡り詰めを左折すると、左手の段上に秋葉神社がある。 街道を進んで名古屋高速3号大高線の高架手前にあるラッキープラザの手前を左に入ると東ノ宮神社がある。
東ノ宮神社の創建年代等は不詳であるが、境内には明治天皇覧穫之所碑と明治天皇八町畷御野立所碑が建っている。
街道に戻るとラッキープラザの前の歩道上に東海道標柱が建っている。

二宮金次郎像 内浜神社 地蔵堂 新堀川
名古屋高速3号大高線の高架下に架かる穂波歩道橋で松田橋交差点を渡ると、左手の居酒屋はなまるの前に、二宮金次郎像が建っている。
先に進んで内浜交差点で左筋に入って、田光中学校の校庭向かいの筋を入ると、左手に内浜神社がある。
内浜神社は、旧東海道八町畷の松並木で、入海寝間地と重なる景勝の地に鎮座していた。その後、度重なる開発と国道1号線の拡張のため昭和12年(1937)現在地に遷座された。
内浜交差点の先で国道1号線は高架になり、その側道下道を進んで行くと、東海道本線の踏切手前左手に地蔵堂がある。
地蔵尊の奥には、木彫りの不動明王と仏像が安置されている。
東海道本線の踏切を渡り、左の筋を進んで新堀川に架かる熱田橋を渡って行く。
新堀川は、かつて精進川として豊富な水量を持ち、曲がりくねった川筋で、頻繁に洪水を起こしていた。このため明治43年(1910)に現在の川筋に付け替えられた。

東海道標柱 名鉄常滑線 伝馬町一里塚跡 姥堂
熱田橋渡詰めの十字路を越えた左角に東海道標柱が建っている。 先に進むと名鉄常滑線が横切っており、このガード下を潜って行く。 名鉄常滑線のガードを潜ると、右手に伝馬町の一里塚跡がある。
一里塚碑などは無いが、ここは江戸日本橋から数えて89里目の一里塚である。
一里塚跡の直ぐ先、左手に姥堂がある。
姥堂は、延文3年9月(1358)法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に創建されたと伝えられている。姥堂のすぐ東に精進川が流れていて、そこに裁断橋が架けられていたが、大正15年に川が埋立てられ、橋の擬宝珠四基は残されて道路脇に保存されてきたが、現在、この擬宝珠は市博物館に保存されている。姥堂前には、復元された裁断橋、旧裁断橋桁石などがある。

鈴之御前社 伝馬町 道標 ほうろく地蔵
直ぐ先左手に鈴之御前社(すずのみまえしゃ)がある。
鈴之御前社は、熱田神宮の境外末社で、かつては精進川がこの宮のそばを流れており、東海道を往来する旅人が熱田神宮に参拝する時は、この社で鈴のお祓いを受けて身を清めてから参拝する習わしであった。
直ぐ先で県道225号線で分断されるめ、左右いずれかに迂回して、向かい側の伝馬町門の先へ進んで行く。 迂回して先に進むと、突当りの手前右手に道標が建っている。
ここは、江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点で重要な地点であった。
突当りを右に進むと熱田神宮、左へ進むと七里の渡しである。
道標の向かい側、突当りにほうろく地蔵がある。地蔵堂に説明が有り、「この石地蔵はもと三河国重原村(現在知立市)にあったが野原の中に倒れ捨石のようになっていた。 ところが三河より焙烙を売りに尾張へ来るものが、荷物の片方の重石としてこの石仏を運んできて、ここで焙烙を売りつくした後石仏を海辺のあし原に捨てて帰った。云々」 と記載されている。

熱田神宮 赤本陣跡 宝勝院 脇本陣跡
道標を右折すると熱田神宮である。
熱田神宮は、草薙剣の神霊である熱田大神を主祭神とし、相殿には天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命が祀られている。折しも、熱田まつり(尚武祭・しょうぶさい)が行われており、境内に露店・屋台が立ち並び、各所で演芸や神楽など数多くの奉納行事が行われていた。
街道に戻って国道247号線を渡ると、右手のあつた蓬莱軒の駐車場に宮の宿赤本陣跡がある。
宮の宿は熱田宿とも呼ばれ、本陣が2軒あり、赤本陣と白本陣と呼んで区別していた。ここ赤本陣は南部新伍左衛門が務め、名字帯刀を許されていた。天保年間(1830-44)の東海道宿村大概帳によれば建坪236坪となっており、南部家の記録では間口約16間、奥行き21間であったと記されている。
あつた蓬莱軒の隣に西山浄土宗の蓬寿山宝勝院がある。
宝勝院は、元和年間(1615-23)の創建と云われ、熱田湊常夜燈を承応3年(1654)から明治24年(1891)まで管理していた。
山門脇には宝玉烏枢沙摩明王が祀られた明王堂がある。
先に進んで宮の渡し公園に突当り、右折すると右手に脇本陣・丹羽家住宅が建っている。
丹羽家は、幕末に旅籠伊勢久と称し、正面の破風付玄関が、かつての面影を残している。
昭和59年(1984)に名古屋市有形文化財に指定されている。

熱田荘 七里の渡し
脇本陣跡の先5軒目に熱田荘がある。
この建物は明治29年(1896)武藤兼次郎が建てた 「魚半」 という料亭であった。太平洋戦争中は三菱重工業の社員寮として、現在は高齢者福祉施設として利用されている。
丹羽家とともに、宮の宿の景観を偲ばせる遺構の一つで、名古屋市の有形文化財に指定されている。
熱田荘の向かいの海岸が七里の渡しである。
宮宿と桑名宿の間は、木曽川・長良川・揖斐川の三河川が流れ、河口の為川幅は広く、日々流れを変えるため架橋できなかった。このため海上七里を舟で渡ることとなった。
現在、ここは宮の渡し公園として整備され、太平洋戦争で焼失した常夜燈・時の鐘が復元されている。
今回はここで終了し、次回は七里の渡しを陸路で越えた桑名宿からスターとする予定である。

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