明治の文豪・泉鏡花(1873-1939)は大泉原村(現・いなべ市員弁町)の高等小学校で講演するため明治42年(1909)11月に来桑、 ここ船津屋(東海道桑名宿・大塚本陣跡地)に宿泊した。 この時の印象を基にして、小説 「歌行燈」 を書き、翌年1月号の 「新小説」 に発表した。
昭和14年(1939)、東宝映画から依頼を受けた劇作家・久保田万太郎(1889-1963)は船津屋に泊まり、3ヶ月ほどで戯曲 「歌行燈」 を書き上げた。
昭和15年7月に、まず新生新派により明治座で上演され、昭和18年に成瀬巳喜男の監督で映画化された。 上演・映画化にあたり、万太郎は手直しのため再度船津屋を訪れている。
船津屋は当初から格式高い料理旅館だったが、小説では湊屋と書かれ、裏河岸から 「かわうそ」 が這い上がってきて悪戯をするという噂話が登場する。
俳人としても著名だった万太郎が、船津屋主人の求めに応じてその情景を詠んだのがこの句である。
自筆のこの句碑は揖斐川上流の自然石を杉本建吉画伯がデザインしたもので昭和31年6月に建てられた。