江戸期の町屋川
 東海道が渡る員弁川(町屋川)は、江戸期より人々の往来が盛んでした。 文学作品にその様子をみることができます。

「一目玉鉾」 井原西鶴 元禄2年(1689)刊
 桑名
 宿はづれより、若松の長縄手をすぎて矢田の片町、大福村、やなか村をこして、
 町屋川
 小橋有、大橋は160間の土ばし也、縄生村、あふせ村、かき村を行て濱邊はる(か)に玉垣の里、久しき名所也、

「東海道名所図会」 秋里籬島 寛政9年(1797)刊
 名物焼蛤、東富田、小向の多所の茶店にて火鉢を軒端へ出し、松毬にて蛤を焼き旅客を饗す。桑名の焼蛤とはこれなり。町屋川、尾州小牧合戦、和睦の後、内大臣織田信雄公と豊臣秀吉公と此川原にて対顔ありしところなり。

伊勢参宮名所図会」 蔀関月 寛政9年(1797)刊
 町屋川橋の長さ160間、此所より西、正面に近海(江)の山々見ゆ。此西、近海(江)伊勢の境なり。

「東海道中膝栗毛」 十返舎一九 享和2年(1802)~文化6年(1809)刊
 旅人を茶屋の暖簾に招かせてのぼりくだりをまち屋川かな
 町打興じてなを村おふけ村にあどりつく。此のあたりも蛤の名物、旅人を見かけて、火鉢の灰を仰立ゝ

中村古松の句に詠まれた町屋
 中村古松(本名喜三郎 明治34年(1901)ー昭和54年(1979))は、朝日村大字縄生(現朝日町縄生)に生まれて町屋川のほとりに住み、 銀行員、農業を営むとともに生涯俳句を詠み続けた俳人です。 大正10年(1921)俳句結社 「不老会」 を設立し、機関紙 「松の葉」 を刊行しました。
  風涼し 橋を隔へだてて 町屋の灯(昭和十四年)

 員弁川(町屋川)にかかる町屋橋と呼ばれる橋は、東海道の一部として、寛永12年(1635)に架けられたといわれています。 場所はここよりも上流約百メートルでした。享和2年(1802)発刊の 「久波名名所図会」 に、当時の町屋橋周辺の賑わいを見ることができます。
  この橋は、明治8年(1875)に、幅2間(約3.6m)、長さ120間半(約220m)の木橋となりました。
  東海道が国道1号線として整備されていくに従って、昭和7年(1932)、現在の位置に近代的なコンクリート橋が完成し、新たな町屋橋となりました。 開通時には夫婦三代による渡り初など盛大な祝賀が催されました。
  昭和38年(1963)にはこの橋の両側に歩道用の橋が増設されました。そのときの親柱がこの広場に残っています。
  そして昭和61年(1986)、現在の橋が架けられました。 非常に経済的な設計でシンプルな形の鋼桁橋です。 なお、国道1号線は幅員25m四車線の計画ですが、そのうちの半分の幅で架けられています。
  しかしこの橋の幅員は1.5mしかなく、またコンクリートの壁式の高欄であったこともあり、歩行者や自転車利用者には使いにくいものでした。 そこで平成15年(2003)から、歩道の拡幅整備事業を地域の皆さんと一緒に検討し、平成17年(2005)歩道拡幅と高欄や照明の整備、橋詰広場の整備が完成しました。
 町屋橋周辺の員弁川(町屋川)は自然が豊かで、魚釣りや散策に多くの人が訪れるとともに、桑名を代表する石取り祭りの舞台ともなります。 また東海道と縁の深い歴史性を踏まえた整備が行われました。 親柱は昭和7年完成のコンクリート橋に見られた形を踏襲しています。 高欄の笠木には肌触りがよく、耐久性のあるドゥッシーというアフリカ産の木材が使われています。
     平成17年(2005)5月 国土交通省 桑名市・朝日町

文学のなかの町屋川と橋説明

町屋橋

この付近の俗称で町屋川と呼ばれている

現在の橋と親柱

現在の橋(改修前)

昭和7年(1932)のコンクリート橋

旧町屋橋の親柱

江戸時代の橋

明治時代の木橋

員弁川上流域