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東海道   (四日市~井田川


平成29年9月4日(月)   ☁|☀    四日市~井田川    15.0㎞
昨日は、四日市シティホテルアネックスで宿泊し、夕食は近くの居酒屋で済ませた。今朝は街道が近いので、いつもより遅めの7時頃の出発である。引き続き、暫くは海に近い海抜3~4mの街道を進んで行く。

海抜2.7m 東漸寺 旧家 近鉄名古屋線
四日市シティホテルアネックスから2分程で四日市浜田郵便局前の街道に出ると、電柱に海抜は2.7mの標示がある。
過去、昭和21年(1946)の南海地震、昭和19年(1944)の東南海地震、嘉永7年(1854)の安政東海地震、宝永4年(1707)の宝永地震、慶長9年(1605)の慶長東海地震ほか多くの地震に見舞われ、その都度、四日市は津波に襲われ甚大な被害に遭っている。
先に進むんで街道が右にカーブする手前の右手に真宗高田派の東漸寺がある。
東漸寺の創建年代等は不詳であるが、境内には枝ぶりの良い2本の松が立っている。
街道に戻ると、直ぐ右手に連子格子の美しい旧家がある。 旧家から程なく、近鉄名古屋線の高架を潜って進んで行く。

鈴木薬局 落合橋 鹿化橋 町並み
先に進むと右手に寛延3年(1750)創業の鈴木薬局がある。
あいにく建替か修築で工事中であったが、鈴木家は代々勘三郎の名を受け継ぎ、現在の当主鈴木友造氏で第11代を数え、同家に伝わる家系図によると、第四代勘三郎高春が、寛延3年(1750)2月に蘭学勃興の地長崎に赴き、漢方を伝授されたと言われている。
鈴木薬局を過ぎると、落合川に架かる落合橋がある。
落合橋から右手に見える鉄道は、四日市あすなろう鉄道内部線である。
直ぐ先で鹿化川(かばけがわ)に架かる鹿化橋がある。
鹿化川は、市街地西部に位置する丘陵地帯から東へ流れ、下流で天白川に合流している。
中流の川島町付近には 「千本桜」 と呼ばれる並木がある。
鹿化橋を渡って日永地区に入ると、急に車の往来が激しくなり、狭い街道をスピードを出した車がすれ違って行く。
国道1号線の迂回路になっているようである。

大宮神明社 旧家 水沢道標 大聖院
日永地区に入って直ぐ右手に天照大御神を祀る大宮神明社がある。
大宮神明社は、現在の南高校のある岡山の麓に鎌倉時代より奉斉されたが、永禄5年(1562)この地に遷座された。
境内には、大己貴命・少彦名命を祀る二柱大神社、稲荷神社・山神社・天神社の境内社がある。
先に進むと右手に連子格子の旧家が建っており、この向かいにも壁が総板張りの旧家がある。 旧家の先の信号交差点を過ぎると、右手に東海道案内と大聖院の標識があり、大聖院へ入るこの筋の右角に小さな道標が建っている。今から約200年ほど前に大坂の古銭収集家の河村羽積という人が、東海道から水沢道が分かれる角に立てたのがこの道標である。 水沢道標の建つ筋を40~50m入ると右手に真言宗の無動山大聖院がある。
大聖院は、天平10年(738)行基菩薩による開創で、平安末期、醍醐寺座主定海僧正の住坊であった。醍醐三寶院直末、神戸藩主の祈願所として信仰を集め、現在に至っている。本尊の不動明王は、鎮守府将軍源頼義の念持仏であり、源氏歴代の武将によって信奉され、大正4年(1915)国宝に指定された。境内には、地蔵堂・庚申堂・弁天堂がある。

円楽寺 旧家 興正寺 天白橋
大聖院を出て次の右手筋を30~40m程入ると右手に天台宗の萬松山円楽寺がある。
円楽寺は、その昔、延暦寺の開祖伝教大師が此の地に巡錫されたときに開かれたと言われている。しかし、安政元年(1854)の大地震や水害などで寺の記録が焼失し、詳細は不明である。本堂には、本尊不動明王と、その脇仏として釈迦如来・薬師如来、歓喜双身天王が祀られている。
街道に戻ると左手に土蔵などもあるかなり大きな旧家がある。 大きな旧家の向かいに真宗高田派の日永山興正寺がある。
興正寺は、貞観6年(864)の創建と云われ、登城山にあったときは天台宗であったが、文暦元年(1234)親鸞聖人が当寺に立寄られたとき浄土真宗に改宗した。 その後200年程して、本山の第十世真慧上人が津の一身田に本山を定められ、高田派となった。
興正寺を出ると街道は緩やかな坂道となり、登りきったところに天白川に架かる天白橋がある。

両聖寺 日永神社 長命山薬師堂 東海道碑
天白橋を渡って先に進むと、右手に浄土宗の林光山両聖寺がある。
両聖寺は、昔、天台宗林光山西教院と称したが、 宝治2年(1248)に記主良忠禅師の布教により浄土宗に改宗した。
お盆には寺の境内で市の無形文化財の 「つんつく踊り」 が披露される。つんつく踊りは、天白川の堤防を築く(つんつく)ために村人が参加したときの踊りが始まりといわれる。
両聖寺の先で信号交差点を渡ると、右手に日永神社がある。
日永神社の主祭神は天照大御神で、鎌倉時代の建仁年間(1201-04)の創建と云われるが、天正年間(1573-92)に織田信長の兵火に罹り、過去の記録や神宝などは焼失し、正確な創建年代は不明である。また、日永神社は神戸藩主本多家の崇敬が篤く、本多家の家紋が献納されている。境内には、明暦2年(1656)の東海道最古の道標がある。
日永神社に隣接して長命山薬師堂がある。
薬師堂に安置されている薬師如来坐像は、もと伊勢安国寺の旧像で、天正年間(1573-92)安国寺炎上の時、千種常陸介忠治が猛火の中から日永村実蓮寺に運び出し、 境内に建てた小堂で代々内仏として信仰していたが、文化13年(1816)同志によって現在地に移したと云えられている。
薬師堂の直ぐ先、右手に東海道碑が建っている。
東海道碑の奥は四日市市立日永小学校で、校門脇に表忠碑・稲垣末吉翁頌徳碑が建っている。

西唱寺 日永一里塚跡 名残松 光明寺
東海道碑から程なく右手に浄土真宗高田派の雲祥山西唱寺がある。
西唱寺は、永禄2年(1559)僧玄聖の開創で、昔は安立院と称し、浄土宗の寺院であったが、江戸時代初期に住持の誓宅が、専修寺第14世尭秀上人に帰依して浄土真宗高田派に改めた。昭和20年(1945)6月の空襲で爆撃を受け、本堂・庫裡・鐘楼などは戦後に再建された。
西唱寺の先の十字路を過ぎると、右手に日永の一里塚跡がある。市内の東海道筋に4ヶ所築かれ、 文化3年(1806)の 「東海道分間延絵図」 にも、富田・三ツ谷・日永・釆女の一里塚が描かれている。この日永一里塚は、5m四方で高さ2.5mの塚が両側に築かれ、西側の塚には榎が残っていたが、明治2年(1869)に伐採され、 塚もその姿を消した。
ここは江戸日本橋から数えて100里目の一里塚跡である。
街道を先に進むと、左手に一本の名残松が立っている。
昔、この辺りから泊の集落までは、東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に、大きな松の木が並んで植えられていた。 その間には、家は一軒もなく、縄手と呼んでいた。 この松は、その縄手に植えられていたものが残った貴重なものであり、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝えるものである。
先に進んで県道44号線を越えると、右手に 「近鉄泊駅100m」 の標識があり、この筋を進んで泊駅前の踏切を渡ると左手に真言宗新義豊山派の囲瀬山光明寺がある。
光明寺は天平年間(729-49)に行基菩薩が開かれたと伝えられている。
境内には、西国三十三所観音霊場を模した観音堂と西国八十八所霊場を模した大師堂がある。

伊勢蔵㈱ 日永郷土資料館 日永の追分 地蔵堂
街道に戻ると、左手に大正3年(1914)創業の伊勢蔵㈱がある。
伊勢蔵㈱は、東海地方に伝わる製法を守った「伊勢みそ」 「伊勢蔵しょうゆ」 を製造・販売している。
伊勢蔵㈱から程なく、国道1号線に合流する手前左手に東海道日永郷土資料館がある。
この資料館は、土蔵付きの商家の建物を整備したもので、館内には、「日永足袋」 「日永うちわ」 をはじめ、地域に残る歴史・民俗・文化・街道(東海道・伊勢街道)などに関わるさまざまな資料を展示している。
国道1号線に合流して間もなく、国道1号線と右に延びる旧道との間に、安永3年(1774)建立の伊勢神宮逢拝鳥居、嘉永2年(1849)建立の道標、明治13年(1880)建立の常夜燈、湧き水などがある。
この 「日永の追分」 は、昭和13年(1938)に三重県の史跡に指定された。
国道1号線から分かれて直ぐ、右手の旧家の脇に小さな地蔵堂があり、陽刻の地蔵菩薩碑が祀られている。

日蓮宗追分教会 追分駅 海抜10.0m 大蓮寺
地蔵堂の直ぐ先、右手に日蓮宗の追分教会がある。
門扉は閉まっていて中に入れなかったが、境内中央に日蓮上人像が立ち、右の方には動物供養碑などもある。
直ぐ先で近鉄内部線が横切り、踏切の左手に追分駅がある。 追分駅前のY字路から左に旧道へ入ると、電柱に海抜10,0mの表示がある。
これまで平らな道を進んできたと思っていたが、この間7m程上って来たことになる。
ブロック塀や鉄柵に括り付けられた 「東海道」 の道標を見ながら進んで行くと。右手に真宗高田派の米田山大蓮寺がある。
当初、大蓮寺は真言宗であったが、その後、寛正元年(1460)に、真宗高田派専修寺末寺米田山大蓮寺として、清順上人により開基したと言われている。大蓮寺には、快慶作の阿弥陀如来立像御丈一尺五寸が安置されている。

観音寺 小許曽神社 東海道道標 願誓寺
大蓮寺に隣接して黄檗宗の慈現山観音寺がある。観音寺は、戦国時代、織田信長の兵火により焼失したが、村人たちが観音堂を建て、本尊千手観音像を祀った。その後、元文2年(1737)黄檗宗の僧鎮堂が旅の途中、夢枕に現れた老人のお告げにより、この地に新しく寺を建て観音寺とした。
山門は四脚門方式で、屋根の両端に 「魔伽羅」 が飾られている。
観音寺の脇の路地に小許曽神社社標が建っており、100m程先に小許曽神社がある。
小許曽神社は、平安の昔、醍醐天皇の御代、延喜5年(905)式内神社として神名帳に記載されている古社で、古くから地元住民に崇拝されている。
境内には、白龍大神・愛宕大権現・地蔵堂などがある。
街道に戻ると、先の十字路左角に電柱に貼られた東海道道標があり、街道はここを右折して進んで行く。
この電柱の下には、小さな石の道標があり、「左 追分」 「右 大治田」 と刻まれている。
東海道道標を右折して進むと、突当りで街道は左に曲がるが、この突当りに浄土真宗の米田山願誓寺がある。
願誓寺は、当初は真言宗であったが、寛正年間(1460-65)専修寺第10世真慧上人の教化に帰依し、浄土真宗に改宗した。
本尊である阿弥陀如来は、寺伝では聖徳太子の御作と伝わっている。

歌碑 東海道碑 内部川 内部橋
願誓寺の前を左に曲がって進むと、右手のマンションの駐車場前に歌碑が建っている。
何時のものか年代も内容も不明である。
歌碑の先で小古曽三丁目交差点を斜めに横断すると、横断した道路と旧道との間に東海道400周年記念に建てられた東海道碑がある。
この少し先で、内部地区から采女地区へと入って行く。
東海道碑から程なく、街道は内部川に突き当たる。江戸時代には、ここに石橋の采女橋が架かっていたが、今は左に進んで内部橋を渡って行く。 内部橋は、一級河川内部川に架かる国道1号線の橋である。
内部橋は、片側2車線の直線区間にあるため、高速で走行する車が多いが、歩道は広くとられており安全である。

東海道道標 東海道道標 旧道口 成満寺
内部橋の渡り詰めを右に降りる階段があり、ここに東海道道標が貼ってある。
階段を降りると内部橋公園があり、東屋や内部川案内などがある。
内部橋公園から内部橋の下を潜って反対側にでると、東海道道標が建っている。
街道はここを右に折れて緑色の歩道橋を渡って進んで行く。
建っている道標には、「平成内部の一里塚」 とあるが、これは内部橋公園を指していると思われる。
緑色の歩道橋を渡って国道1号線の脇を進むと、左手に延びていく旧道がある。
かつては内部川に架かる石橋の采女橋から続いていた道である。
旧道口から100m程進むと右手に真宗高田派の米田山成満寺がある。
成満寺は、永承2年(1047)真言宗長生寺として創建されたと伝えられているが、その後、専修寺第10世真慧上人の弟子の専察を迎えて真宗高田派に改宗した。

旧家 金刀比羅宮 うつべ町かど博物館 杖衝坂
成満寺の先で右に曲がると、右手に連子格子の立派な旧家がある。
街道は、この旧家の前を左に曲がって杖衝坂へと延びている。
先に進んで小川に架かる橋を渡ると坂道となり、左に折れる角に金刀比羅宮がある。
金刀比羅宮の創建年代等は不詳であり、境内には小さな手水石があるだけである。
金刀比羅宮の前を左に曲がると坂は一気に急になり、左手にうつべ町かど博物館がある。
この博物館は、平成19年(2007)に采女町内の東海道沿いに開館され、平成24年にこの杖突坂にリニューアルオープンしたものである。
うつべ町かど博物館の先は、緩やかにうねった杖衝坂となる。

芭蕉句碑 弘法の井戸 血塚社 国道1号線
杖衝坂の途中左手に、元禄元年(1688)芭蕉が旅の途中、馬に乗ってこの坂を越えようとして、あまりの急坂に落馬して詠んだ句碑 「歩行ならば杖つき坂を落馬かな」 が建っている。
ここには史跡杖突坂碑、文化8年(1811)の常夜燈、弘法大師ゆかりの井戸などがある。
杖衝坂を上りきった左手に、弘法の井戸がある。この井戸は、弘法大師が水に困っている村人に杖で指し示され、そこを掘ったところ清水が湧き出た井戸であると伝えられている。 弘法の井戸から直ぐ先の黒塀の立派な家の脇に血塚社がある。
東国征伐の帰途、伊吹山に登って病に取りつかれ、衰弱した身体で坂の上に辿り着いた日本武尊が、足下を見ると出血していたので、この場所で血を洗い落として止血したとされる。
祠の下に日本武尊の血で染まった石を集めて葬ったと伝えられている。
先に進んでいくと、右手から国道1号線が上ってきて、街道は国道1号線に合流する。

采女一里塚跡 豊富稲荷神社 旧道口 地蔵堂
国道1号線に合流して直ぐ右手のガソリンスタンド出光の前に史跡采女一里塚跡碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて101里目の一里塚跡である。
采女一里塚跡を過ぎると、直ぐ左手に豊富稲荷神社がある。
豊富稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、鳥居を潜って先に進むと拝殿は国道1号線に背を向けて南を向いて建っている。
暫く国道1号線を進んで行くと、鈴鹿市の標識が見えるところから左に入る旧道口がある。
この旧道口を境に、四日市市から鈴鹿市へと入って行く。
旧道に入って程なく右手に地蔵堂がある。
ここには単直庵の扁額が掛かる御堂もあり、阿弥陀仏が祀られ、堂脇に天保12年(1841)の南無阿弥陀仏名号碑が建っている。

町並み 東海道案内 旧道口 石薬師宿碑
地蔵堂の先は、暫く、車の往来も人通りもなく、静かで長閑な道が続いている。 先に進んで国道1号線が正面に見えるところの右手に東海道案内が建っている。
東海道は国道1号線を斜めに横断しているが、横断歩道が無いため、この案内の脇の道から国道1号線に施設された地下道で渡って行く。
地下道を潜って国道1号線の右側に出て進み、浪瀬川を渡ると、右手に東海道道標の建つ旧道口がある。 旧道口から間もなく左手に石薬師宿碑が建っている。ここから東海道53次の44番目の石薬師宿へ入って行く。
ここは、東屋のあるポケットパークになっており、北町地蔵堂のほか、東海道案内などの説明板が建っている。

石薬師の町並み 信綱かるた道 大木神社 石薬師宿標
先に進むと連子格子の旧家や総板壁の家が見られる。 街道の所どころに 「信綱かるた道碑」 があり、短歌は立板がほとんどだが、連子格子に掛けられたものもある。
これは第9番目で 「ふる雪の いや重け吉事 ここにして うたひあげけむ ことほぎの歌」 と記されている。
信綱かるた道を進むと、右手に大木神社の昭和15年(1940)の一の鳥居があり、鳥居から70~80m程入ったところに大木神社がある。
大木神社は延喜式内社で、この地の氏神様である。
境内には、玉幸稲荷神社、山の神社、賽の神社の境内社のほか、信綱歌碑などがある。
大木神社一の鳥居の斜向かいに当たる民家の塀に、「東海道石薬師宿」 の標札が貼ってあり、鉄柵の隣に東海道53次之内石薬師宿の絵が描かれている。

小澤本陣跡 天野記念館 石薬師文庫 佐佐木信綱資料館
程なく右手に小澤本陣跡がある。
東海道石薬師宿は、元和2年(1616)幕命によって設立され、宿の名は当時有名であった石薬師寺からとった。
この家の前には小澤本陣址碑があり、建物には鈴鹿市の小澤本陣跡解説が貼られており、隣の家の前には石薬師地区明るいまちづくり推進協議会の小澤本陣跡解説が建っている。
小澤本陣跡の隣に天野記念館がある。
天野修一翁はタイムレコーダーで名高いアマノ株式会社の創業者であり、記念館前に天野修一翁揮毫の天野記念館碑が建っている。
石薬師小学校の校門脇に石薬師文庫がある。石薬師文庫は、昭和7年(1932)佐佐木信綱が還暦にあたり旧石薬師村に寄贈したものである。 以前からあった土蔵(今も裏側にある)を文庫とし、本建物が閲覧所として建設され、伊勢国学に関する多くの版本や写本などを含む貴重な書籍が贈られた。
建物前には、信綱・幸綱歌碑、道標、道路原標などがある。
石薬師文庫の隣に信綱生家があり、その隣に佐佐木信綱資料館が建っている。
資料館には、佐佐木家をはじめ、信綱ゆかりの方々から寄贈、寄託を受けた品々の他、これまで生家に保管されていた資料一切が収蔵されている。
信綱生家の前には、信綱の歌碑 「目とづればここに家ありき奥の間の机のもとに常よりし父」 が建っている。

石薬師宿 佐々木弘綱翁記念碑 浄福寺 瑠璃光橋
佐佐木信綱資料館の先で県道115号線を渡ると、左手に石薬師宿の看板が建っている。 石薬師宿看板の直ぐ先、左手の浄福寺山門前に信綱の父である佐々木弘綱翁記念碑が建っている。
傍らには、信綱の孫である幸綱の歌碑 「しゃくなげを愛し短歌をすずか嶺を愛し石薬師を愛したる人」 がある。
浄福寺は真宗高田派の寺院で、本尊は阿弥陀如来である。開基は室町時代の永正年中(1504-20)と伝えられている。
浄福寺は佐々木家累代の菩提寺であるため、山門脇に佐々木弘綱翁の記念碑がある。
境内には、石薬師保育園がある。
先に進むと国道1号線を跨ぐ瑠璃光橋がある。
橋の名前は、渡り詰めにある石薬師寺の院号・瑠璃光院から付けたようである。
瑠璃光橋からは、下を通る国道1号線の先に鈴鹿市の町並みが良く見える。

石薬師寺 御曹子社 石薬師の蒲桜 蒲川橋
瑠璃光橋の渡り詰め右手に、真言宗東寺派の高富山瑠璃光院石薬師寺がある。この標柱から入って行くと裏門があり、街道を進むと右手に表門(山門)がある。
石薬師寺は、神亀3年(726)当地で巨石が地下から出現し、これは薬師如来の出現だとしてお堂を建てたのが始まりという。境内には、地蔵堂、大師堂、天満宮、岩佐又兵衛歌碑、一休禅師歌碑、佐佐木信綱歌碑などがある。
石薬師寺山門の向かいの筋角に 「蒲冠者範頼之社」 標柱があり、30~40m先に御曹子社がある。
御曹子源社は、頼朝の弟である蒲冠者範頼を祀った神社である。
御曹子社の鳥居の向かいの筋を60m程進むと右手に石薬師の蒲桜がある。
伝説によると、蒲冠者源範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師寺に戦勝を祈り、 鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが、芽を出してこの桜になったと言われている。桜の木の下には、小社・信綱歌碑・可婆左久良碑がある。
街道に戻って先に進むと、蒲川に架かる蒲川橋がある。蒲川の上流は、大石川とよばれ、下流で鈴鹿川に流れ込んでいる。

石薬師一里塚跡 関西本線ガード 道標 国道1号線ガード
蒲川橋の渡り詰め左手に石薬師の一里塚跡がある。
ここには町内安全と刻まれた石燈籠があり、道路を挟んだ向かいには、石薬師宿碑と 「信綱かるた道」 の最後第50番目の短歌 「生家にゆくと弱かりし母が我をせおひ徒渉せしか此の甲斐川を」 がある。
ここは江戸日本橋から数えて102里目の一里塚跡である。
蒲川橋の先の直線の道は途中で消滅しているため、一里塚跡前を左折して、関西本線のガードを潜って行く。 関西本線のガードを潜ると正面に道標があり、庄野宿方面へ左に田圃を見ながら進んで行く。 道なりに進んで行くと、左手に先程あった道標と同じものがあり、ここを右折して国道1号線のガードを潜って行く。

国道1号線合流 庄野宿入口 庄野宿町並み 善照寺
国道1号線のガードを潜り、左折してその先で小川に架かる橋を渡って進んで行くと国道1号線に合流する。 暫く国道1号線を進み、右手に日本コンクリート工業の建物を見て、庄野町北交差点のところで右に折れると庄野町西交差点に庄野宿碑が建っている。 先に進むと、黒板壁の家や連子格子の家などがあり、旧街道の面影を偲ばせている。 庄野宿に入って間もなく、左手に真宗高田派の筧口山善照寺がある。
善照寺は、長禄年間(1457-60)に平田地内筧口と称する所に、善正法師が善照寺を開基した。初めは天台宗であったが、高田派第10世真慧上人の教化により真宗高田派に改宗した。
盆行事の一つの庄野大念佛は、鈴鹿市無形文化財に指定されている。

旧小林家住宅 問屋場跡 妙法寺 庄野宿本陣跡
善照寺から100m程進んだ左手に、鈴鹿市指定文化財となっている旧小林家住宅がある。
旧小林家住宅は、現在、主屋の一部を創建当時の姿に復元して、庄野宿資料館として使用されている。
館内には、庄野宿の本陣・脇本陣文書、宿駅関係資料や地域に残る民具、農具、日用品などが展示されている。
旧小林家住宅から20m程先、右手に問屋場跡がある。
問屋場は御伝馬所とも言い、街道の宿場にとって重要な役所であった。問屋2名、年寄4名、書記(帳付)馬差各4~5名が半数ずつ交替で詰めた。主な任務は公用書状の継立、往来者の要望に応じて人足・馬の割振り、助郷村々への人馬の割当て、賃銭・会計であった。
問屋場跡の向かいの細い路地に入って行くと、臨済宗東福寺派の妙法寺がある。
妙法寺の創建年代等は不詳であるが、境内には五輪塔の一部などの石像物がある。また、毎週日曜日の朝に座禅会が行われているという。
街道に戻ると、右手の庄野集会所前に庄野宿本陣跡がある。
ここには庄野宿本陣跡碑と新しい道標が建っている。

高札場跡 脇本陣跡 郷会所跡 常楽寺
庄野宿本陣跡の左筋の角に高札場跡があり、説明板には次のように記されている。
高札場は、法度掟書などを書いた 「高札」 を掲示した場所で、各村の庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに一ヶ所設けられていた。 庶民に法令などの趣旨を徹底させるためであった。 庄野宿資料館には、人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が展示されている。
高札場跡の立札が建っている家が庄野宿脇本陣跡であり、軒下に説明がある。
脇本陣は江戸時代、本陣の予備にあてた街道の宿舎で、本陣に余裕のない時に利用された。大名や幕府の重臣が本陣に泊る時、家老や手代の宿舎にあてられた。本陣に次ぐ宿場の名望家が選ばれることが多かった。庄野宿では、本陣隣の楠与兵衛家が脇本陣であった。(文久3年庄野宿軒別図)
脇本陣跡から3軒程先の理容伊藤が郷会所跡であり、壁に解説が貼られている。
郷会所は助郷の割当てを受けている各村の代表者(庄屋または肝煎)が集会する場所であった。江戸時代も後期になると助郷人馬の割当てが多くなり該当の村々の疲弊が重なり、減免陳情のため会合が繰り返された。庄野宿資料館には陳情書の控え等が保管されている。
先に進むと、右手に真宗仏光寺派の常楽寺がある。
常楽寺には由緒等が見当たらず、創建年代等は不明である。

川俣神社 庄野宿碑 迂回路 旧道復帰
常楽寺から程なく、右手に川俣神社がある。
街道に面した社標に延喜式内川俣神社とあるので、延喜年間(901-22)の時代に、すでに存在していた神社である。
境内には、昭和44年に三重県指定天然記念物に指定された推定樹齢300年のスダジイ(椎)の木がある。
先に進むと十字路角に庄野宿碑が建っており、この辺りが庄野宿の西口になる。 庄野宿を出ると国道1号線に突き当たる。
かつての東海道は直線上に道があったが、国道1号線と県道637号線が通っているため、案内図に従って国道1号線のガードを潜り、その先で県道637号線のガードを潜り抜けて迂回して行く。
迂回路を抜けると、右から回り込んできた道と合流し、旧道に復帰する。

平野道道標・地蔵堂 真福寺 神戸(かんべ)領界石 女人堤防碑
先に進んで、街道がやや右にカーブするところの左手筋角に、平野道と刻まれた大正3年(1914)の道標がある。
手前に新しい平野道道標があり、「この奥50mいぼとり取地蔵」 とある。奥に入って行くと突当り右手に地蔵堂があり、汲河原のいぼとり地蔵尊が祀られている。
街道に戻ると程なく左手に、浄土真宗本願寺派の富田山真福寺がある。
真福寺の創建年代等は不詳である。
真福寺の先で集落が途絶えると、小川の手前右手に、「従是東神戸領」 と刻まれた継接ぎをした神戸領界石が建っている。
傍らには、山神碑・文化10年(1827)の手水石・常夜燈などがある。
神戸領界石の向かい側に女人堤防碑が建っている。この辺りは鈴鹿川と安楽川の合流点で、度重なる氾濫により被害が続き、文政12年頃、神戸藩に何度も修築を申し出たが許されず、女性たちが禁を犯し打ち首を覚悟で堤防を補強したところである。
傍らには、明治33年(1900)の新しい神戸領界石と常夜燈が建っている。

中富田一里塚跡 川俣神社 常念寺 福万寺
女人堤防碑の先を進み、次の集落中富田に入ると、川俣神社の境内脇に中富田の一里塚跡がある。中冨田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。
享和3年(1803)に作成された 「東海道亀山宿分間絵図」 には、中冨田村川俣神社の東隣に街道を挟んで 「一里塚」 が描かれている。
ここは江戸日本橋から数えて103里目の一里塚跡である。
川俣神社の創建年代等は不詳であるが、境内入口の自然石の社標に 「式内川俣神社」 と刻まれいることから、庄野宿の川俣神社同様、延喜年間(901-22)の時代に、すでに存在していた神社である。
境内には、山神碑、石造物の前を布で隠した小社がある
街道を先に進むと、右手に天台真盛宗総本山西教寺末寺の富光山常念寺がある。
常念寺は、承応年間(1652-54)智詮和尚の開基と云われ、かつては別の場所にあったが、安政元年(1818)の大地震により倒壊し、同じ村内にあった平建寺を買収して現在地に移転した。境内には、平建寺の本尊だった延命地蔵尊を祀った地蔵堂・平建寺寺標などがある。
先に進んで西富田の集落に入ると、右手に真宗高田派の金光山福万寺がある。
福万寺は、文永11年(1274)常照師により常照寺として開創され、天台宗に属していたが、寛文元年(1661)本山専修寺第14世堯秀上人の教化により真宗高田派に改宗し、福万寺と改めた。

道標 盛福寺 川俣神社 和泉橋
福万寺から70~80m程先の十字路右角に道標が建っている。
この道標は、田中音吉の寄付により建立された道標で、 「ひろせ道」 と刻まれている。
道標が建つ右手筋を30~40m程進むと、天台真盛宗の梅光山盛福寺がある。
盛福寺の創建年代等は不詳であるが、境内には小さな五輪塔・石仏、宝篋印塔などがあり、伊勢国鈴鹿郡八十八所巡拝の第80番になっているという。
街道に戻って進むと,、安楽川の堤防手前に西富田の川俣神社がある。
庄野宿・中富田に続き3社目の川俣神社で、ここも 「式内川俣神社」 の社標があり、延喜年間(901-22)の時代に、すでに存在していた神社である。境内には、織田信長の三男で、神戸城主の織田信孝が愛飲したと伝わる無上冷水井跡・ひろせ道道標・旧和泉橋親柱などがある。
川俣神社の先は安楽川で、江戸時代は平水時は土橋、出水時は徒歩渡しであった。
現在、その道は消滅しているので、堤防を左に進んで昭和56年竣工の和泉橋で渡って行く。

地蔵堂 道標 地蔵堂 観音堂跡
和泉橋の渡り詰めを右に進んで旧道に復帰すると、右手の和泉町公民館の脇にブロックで造られた地蔵堂がある。
和泉町公民館前には、川俣神社にあったものと同じ旧和泉橋親柱が保存されている。
直線の街道がやや右にカーブする所の右手筋両脇に自然石の道標と角柱の道標が建っている。
左の自然石の道標は、「右のゝぼり道」 と刻まれ、右の田中音吉建立の道標も 「右のゝぼり道」 と刻まれている。「のゝぼり」 は 「野登」 であり、安楽川上流にある真言宗御室派の鶏足山野登寺への道である。
道標の斜向かいに当たる、街道左手に地蔵堂がある。
中には地蔵尊ではなく、観音菩薩と思われる端正な顔立ちの石仏が祀られている。
先へ進んで、街道が下り坂に差し掛かる右手段上に観音堂跡がある。ここは隣の地福寺がかつて七堂伽藍を有していたころの観音堂跡である。旧境内には、旧観音堂鬼瓦、明治天皇御小休所碑、旧和泉橋親柱などがある。

地福寺 田村道道標 海善寺 井田川駅
観音堂跡の隣に浄土宗の極楽山地福寺がある。地福寺は、その所在地を小田町道心がいどうと呼び、その昔道心が多く修業したところと言われている。
当時は七堂伽藍の備わった寺といわれ、現在も中堂、そして道心達の風呂のあった場所として、風呂の谷等その名残りの地名が残されている。境内には、毘沙門天を祀る毘沙門堂・子安地蔵尊などがある。
地福寺のところから県道641号線に合流し、その先で関西本線の踏切を渡り、Y字路の手前で鈴鹿市から亀山市に入り、Y字路を左に進むと、右手筋角に道標が建っている。
この道標は 「田村道」 と刻まれ、大正3年(1914)に田中音吉によって建立されたものである。
直ぐ先の三星電気商会の向かいの筋角に観音堂(ほぼ台座のみ)があり、ここを入って行くと曹洞宗の海善寺がある。
海善寺本堂の向拝部分は、亀山藩主石川家において家老職を務めた、加藤家の玄関を移築したものである。正面に加藤家の 「変り藤」 紋が据えられている。
海善寺の直ぐ先、左手は関西本線の井田川駅である。
駅前ロータリーの周りには、東海道道標、東海道イラスト案内、日本武尊像などがある。
本日はここで終了し、宿泊の為、一駅先の亀山駅へ出ることとした。

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