光勝は徳川家康の家臣で、本能寺の変の際、家康が堺から逃れて伊賀越えをし、伊勢から三河へ渡海した折りの案内役を務めたと言われている。その後、四日市代官・名古屋築城の作業奉行・山田奉行などを歴任した。桑名・中臣神社には、徳川家康の意によって神社に百石が与えられる旨を通知した光勝の文書が残されており、また、本寺修造に尽力したともいわれる。
墓は生前に造られたもので、向かって右端が光勝、中央が光勝の妻のもので、共に元和4年(1618)の銘がある。左端の墓は、寛永5年(1628)で「浄智院」とあるが、詳細は不詳である。
(桑名市教育委員会)
水谷九左衛門光勝墓解説
中央は光勝の妻の墓、左端は詳細不明
水谷九左衛門光勝墓 (右端)
顕本寺本堂
本堂内陣
本堂に掛かる白栄山の扁額
日蓮聖人