「力石」 は、鎌倉の頃より、江戸、明治、大正と時代を超えて若者たちに愛され継承されてきた。 「力石」 は豊作の願いと村一番の力持ちの競い合いと仕事士の証としての踏ん張りの精神力、そこに集まった人々の笑いを意味していて 「生きる喜びの証」 であったろうと思われる。
「力石」 の中には重軽石といって、願掛け、占いに使われたものもあるが、ここ八幡神社の 「力石」 は、力比べ体力養うことを対象にしたものであり、
この石に触れることによって、健康長寿への信仰を深めたのであろう。
しかし、この 「力石」 も労働の機械化、生活の変化に伴って次第に忘れられ、神社や広場の片隅に放置される存在となってしまった。 昔日の人々のこの思を引き継ぎ、ここ八幡神社の神前に捧げ末永く保存することにしたものである。
重量 およそ100㎏
「力石」 は、ここ八幡神社のほか、北村若宮八幡神社、茂福にも存在する。
富田地区文化財保存会
「富田六郷氏神記」 に 「八幡大菩薩は弘安2年(1279)2月15日、富田地頭佐原豊前守政盛によって、東富田に勧請される」 と記されている。
これが、富田西町の八幡神社の起こりである。 更に 「氏神記」 には 「社地東西16間2尺、南北8間、面積145坪、本村の元標より北の方、字茶屋町に鎮座す」 とあり、
かつてはこのあたりの地を八幡と呼んだと伝えられている。
明治42年(1909)鳥出神社に合祀され、社殿址に 「八幡神社址」 の石碑が建立された。 昭和40年(1965)頃現在の社殿が再建され西町の産土神として戻された。
昔は、東海道五十三次富田立場の西端が八幡の森で、昼でも暗く鬱蒼と樹木が繁っていたと伝えられている。
現在では当時をしのぶ面影はないが社殿西に数百年を経た椋木の古木が名残をとどめている。 また、境内には力石も残されている。
富田地区文化財保存会
八幡神社の力石説明
力石
八幡神社拝殿
拝殿奥の八幡神社本殿
拝殿に掛かる皇道巾国是の扁額
八幡神社址碑
八幡神社由緒