江戸時代の東海道は、慶長6年(1601)正月に定められ、桑名宿も設けられた。 江戸から約96里(約384㎞)、京都から約30里(約120㎞)であった。 宮宿(熱田)から海上七里(約28㎞)、四日市宿までは陸上三里八町(約13㎞)、七里の渡し場から川口町、江戸町、片町、京町、吉津屋町、 鍛冶町、新町、伝馬町、鍋屋町、矢田町、福江町までが桑名宿であり、さらに大福、安永を通り、町屋橋を渡って、東海道が続いていた。 天保14年(1843)調べでは、宿内人口は8,848人であり、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒があった。

 正面の堀川東岸(三之丸地内)の城壁は、桑名城城壁の一部で、川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約500mが現存し、市の文化財に指定されている。
 積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎの二方法によっており、また刻印を刻んだ積石も多くみかけられる。 片町に面したところには、出隅、入隅があった。 各所に堀川に向って狭い通路が設けられているのは、明治以後、廃城になってから便宜上付けられたものであろう。 戦前までは南大手橋から京橋裏、それに三之丸立教小学校横まで堀川は続いていたが、終戦直後、またたく間に埋めたてられた。 この城壁には老松が並木を作り、枝は堀へ垂れ、川水は満々と美しく、行き交う荷船で賑わった。

 桑名は、東海道42番目の宿駅であり、桑名藩の城下町であり、また、木曽三川の河川交通、伊勢湾の海上交通を担う港町でもあった。 その上、桑名は、熱田宮宿に次いで、東海道中第二位の宿数を誇り、一の鳥居を擁す伊勢路の玄関口として、賑わいを見せていた。 このような史実に着目し、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られたのがこの公園である。

桑名城城壁跡説明

東海道53次桑名宿説明

歴史を語る公園説明

日本橋のモニュメント

三条大橋のモニュメント

富士山のモニュメント