51代平城天皇の大同年間(806-10)の頃、このあたりに百薬に手を尽くしてもなお治らない疾病が流行し諸人は大変苦しんでいた。 このことを東国の旅の途中に知った弘法大師は、ここに足を止め、薬師如来を彫り、開眼した。 すると、たちまち夕立の雲の晴れるがように諸人の難病は平癒していった。
 諸人は弘法大師に感謝するとともに、城山にお堂を建ててこの薬師如来を祀ったという。
 その後、茂福城主朝倉下総守盈盛は、ここを菩提寺として、大伽藍を建立し、報乳山洪恩寺と号したが、永禄10年(1567)に、滝川一益の兵火にかかって焼失した。 このとき本尊は自ら火中を逃れて、門前の松に避難され光明を放っていたのである。 諸人は再度の奇跡に深く感じて、翌年現在地に草庵を結び本尊を祀った。
 その後、桑名船場町の十念寺の芳誉上人によって、再建されたと伝えられている。
 現在、本尊薬師如来は秘仏として扉は閉ざされている。当地唯一の尼寺である。  
   富田地区文化財保存会

薬師寺由緒

薬師寺本堂

山門