ここ安永の里玉喜亭のふじは、樹齢約2百数十年を経ており、春は近在の人々の花見で賑わい、根の張ったふじの幹は地震の時、住人の集合場所であったと伝えられる。この地は東海道の往還に当たるので、人馬の休憩所とされていた。当時使用された
「御馬口御洗水」 の高札が向いの母屋に残されている。(江戸時代の東海道筋の地面は現在より低い位置にあり、この母屋を見れば推測できる)
母屋は文政元年(1818)戌寅年の建物で、玉田屋喜輔による墨跡も保存されており、昭和18年頃まで使用され 「名物安永餅」 を作った 「かまど」
と 「看板」 が今も唯一現存する。
旅人を茶屋の暖簾に招かせて
のぼり くだりを まち屋川かな
桑名七里の渡しより、ここ安永の里へ至る旅人の憩いの場所として十返舎一九の著本 「東海道中膝栗毛」 にも、この街道が紹介されており、往時の面影がしのばれる。
玉喜亭の藤
玉喜亭の藤説明