当寺院は浄土真宗本願寺派の寺であり、山号を木下山と称し、平安時代末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた蒔田相模守宗勝の墓碑のある寺として知られている。
 承久3年(1221)法名を祐善と号した宗勝が示寂し、時の富田郷木下にあった江戸報徳寺(真言宗)の分地に埋葬された。子々孫々その菩提を弔い、11代正了の折り、真宗八代門主蓮如上人の教理にふれ、一宇の坊舎を建立したのが、この寺院の開基と伝えられている。
 江戸徳川氏の御代(慶長11年)、長福寺の寺名をもって本願寺の末寺に列し現在地に寺院を建立するも、寺名が時の幕府に忌避され、享保2年(1717)三光寺と改名され、翌年に寺院御堂が建立された。130年後、安政大地震により破壊され、明治20年(1887)に再建されるも昭和37年(1962)の火災により焼失、現在の堂宇は昭和47年に建立されたものである。

法要が営まれており、早々に失礼する

鐘楼

三光寺由緒

三光寺山門

三光寺本堂

手水舎

蓮如上人像