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中山道   (立科~下諏訪)

立科(芦田宿)から下諏訪までは、長久保宿、和田宿、下諏訪宿の3宿であるが、アップダウンのある峠越えの約35kmの道程である。

平成26年8月16日(土) ☁/☂  立科(芦田宿)~和田峠入口  21㎞   
前回碓氷峠で痛めた左足 (弁慶の泣き所)は、2週間目が酷くて左足の指全部まで内出血で腫れあがったが、4週間目に入る頃にやっと腫れが引いて歩ける状態になったので、天気の心配はあったが予定通り友人と二人で歩くこととした。

正明寺 石打場公園 常夜燈 道祖神
芦田交差点の先、街道左側に真言宗智山派の正明寺がある。
参道の階段を上ると左側に大きな枝垂桜があり、境内には地面を這う紫雲の松があり、南無阿弥陀仏名号碑や、嘉永6年(1853)と享保19年(1734)の石仏などが3体並んでいる。
国道142号線に突き当るところに石打場公園がある。説明版には、「石打場」 の地名は、奈良、新潟、群馬などにあり、「石打場」 は当て字で、「石内」 が本字らしい。つまり、「石内」 とは 「境界」 または石敢当の意味があり、「災害除け」 または防御示のための場所というのが本来の意味であると書かれいる。
公園までの街道には、男女双体道祖神が建っている。
公園の先には、大きな常夜燈が建っており、ここが笠取峠の入口である。
常夜燈の先には、享保10年(1725)の馬頭観音が安置されている。
笠取峠口の左側に編み笠を持った男女双体道祖神が建っている。
直ぐ先には、「笠取峠の松並木」 と刻まれた石柱が道の中央に建ち、左手に三石勝五郎歌碑が建っている。

松並木 馬頭観音 和宮東下の行列碑 小諸藩領界石
笠取峠は、雁取峠とも呼ばれる。
芦田宿の西方1kmの地点から笠取峠にかけ約2㎞にわたり松並木がある。
総本数73本(平成20年現在)の老赤松はいずれも150年から300年以上経たもので、その景観は、往時の中山道を偲ばせてくれる見事なものである。
赤松の根元には、天保11年(1840)の馬頭観音が建っている。
途中には、馬頭観音、遺言が刻まれた石碑、若山牧水の歌碑などがある。
文久元年(1861)仁考天皇の皇女和宮(16歳)が第14代将軍徳川家茂に嫁ぐために中山道を通った行列がレリーフで描かれている。 領界石には、「従是東小諸領」 と刻まれており、小諸藩が文久3年(1806)に領分境の東西に建立したうち西側のもの(複製)である。これを境に西側は幕府領である。
領界石の向かい側には、常夜燈と馬頭観音が建っている。この先で国道142号線を横切る。

松並木出口 一里塚碑 笠取峠 峠乃茶屋
常夜燈から暫く進むと国道142号線に合流する。合流地点には、笠戸峠のマツ並木碑が建っている。 松並木を過ぎて1Kmほど進んだ右側の林の中に隠れるように小さな一里塚碑が建っている。笠取峠一里塚であり、江戸日本橋から数えて47番目の一里塚である。
近くには男女双体道祖神が建っている。
一里塚碑から程なく笠取峠に到着する。峠には、大きな笠取峠竣工記念碑が建っている。
ちょっと先には、笠取峠と書かれた丸太の標柱が段上に立っている。
峠の右手にはラーメンと書かれた赤い幟と信州そばの幟をたてた峠乃茶屋がある。

常夜燈 笠取峠立場図版木 原道入口 原道入口
峠乃茶屋の向かい側には、「学者村」 と刻まれた石碑があり、その先の街道両側に木製の常夜燈のモニュメントが建っている。常夜燈には、「これより長久保宿」 と書かれている。 常夜燈の先の右側擁壁には、立場茶屋レリーフが組み込まれている。
往時はここに笠取峠名物三国一の力餅を商う小松屋があった。

長門町堅町の釜鳴屋に版木が保存されており、峠の斜面に建てられた江戸期の立場茶屋の様子が写実的に描かれている。
擁壁の向かい側に 「中山道原道」 の道標が立っており、ここから100mほど林の中の草道を歩き、すぐに国道142号線に出る。 国道142号線に出ると、右手に舗装路(旧国道)があるが、その分岐の真ん中に原道入口がある。この先は、曲がりくねった旧国道を直線的に横断する林の中の原道が続く。

原道 馬頭観音 原道入口 原道入口
林の中の原道を下って行く。
この先で旧国道に突き当たり、目の前に大きな枝垂桜の木があり、推定樹齢150年で長和町指定の保存樹木になっている。
枝垂桜の先から旧国道を下って行くと左側の斜面に馬頭観音と石仏が建っている。 旧国道を下っていくと、右手のガードレールの切れ目に中山道原道の道標が建っており、ここから再び原道に入って行く。原道を下ると所々に中山道原道の道標があり、道は整備されている。原道を進み旧国道に突当ったっところで右折して行く。ここには中山道笠取峠原道と書かれた標柱が建っている。 旧国道は国道142号線に合流するが、程なく右側に旧国道分岐があるので、再び旧国道を下って行くとガードレールの切れ目に笠取峠原道道標がある。ここを下って行くと畑の脇を通って旧国道をショートカットするように進むこととなる。旧国道に出たところで右手のガードレールの切れ目から松尾神社への下り口がある。

松尾神社 鳥居 長久保宿 吾一庵
松尾神社の拝殿脇には、推定樹齢200年の椹(さわら)の木があり、長和町指定の保存樹木になっている。
本殿は諏訪の宮大工、三代立川和四郎富重による建築で、万延元年(1860)に再々建したものであり、総欅(ケヤキ)による三社の高床造りで長和町(旧長門町)指定の文化財となっている。境内には、山神社や八幡社、白山社、金毘羅社などの境内社がある。
境内を抜けて五十鈴川を松尾橋で渡ると対の石灯籠が建つ鳥居をくぐり、旧国道に出る。 鳥居をくぐって旧国道に出ると緩やかな下り坂となり、長久保宿の家並みが続く。 中山道長久保宿吾一庵と書かれた木の看板が目立つ旧家の前には、大八車が置かれている。吾一庵は、江戸末期から明治初期の農家建築を残している。

一福処濱屋 長久保宿本陣跡 高札場 脇本陣跡
この建物は、明治初期に旅籠として建てられたものの、中山道の交通量が減った為に開業には至らなかったとのことである。建物は、山間部の旅籠に多く見られる 「出梁造り」 で、現在は宿場関連の歴史民俗資料館となっており、長久保宿の面影を後世に伝えている。 旧本陣石合家は、長久保宿創設当初から江戸時代を通じて本陣と問屋を務めた。四代目当主のもとには真田信繁(幸村)の娘が嫁いでいる。
また石合家には、江戸初期よりの古文書、高札など貴重な文書、史料が数多く残されており、町の文化財に指定されている。
旧本陣の隣には、高札場が復元されている。 高札場の斜向かい脇本陣跡の標柱が立っている。

釜鳴屋 旅館濱田屋 旧旅籠辰野屋 枡形道路
脇本陣の先、街道右手に釜鳴屋(竹内家)が建っている。釜鳴屋(竹内家)は、江戸時代初期から酒造業と醤油の醸造を手掛け、宿場の役職も兼ねていた。
この家の屋根の両脇に見える 「本うだつ」 が特徴的であり、家には笠取峠立場図版木と、宿場札の版木が保存されており、長和町文化財として指定されている。
旧道を下るとT字路に突当るが、その左手前に問屋跡の小林家、左角に旅館濱田屋があり、右手角には、中山道長久保宿碑があり 「左ぜんこうじ」 と刻まれている 旅館濱田屋を左折して行くと往時は、旅籠が軒を連ねていたという横町に入る。少し進むと左側に江戸時代の町屋建築に見られる出桁造りの旧旅籠辰野屋が建っている。
軒下に下がる看板は、京方面からは 「たつのや」 と平仮名で書かれている。
辰野屋から80m程先の右手に長和町消防団第3分団横町防災備蓄庫があり、この手前で枡形道路となるので、ここを右折して突当りを左折して旧国道に出る。消火栓脇の電柱根元に小さな中山道道標が建っている。

標柱 ゴミ無し地蔵 一里塚跡 道祖神
旧国道と国道142号線が合流する左側角地に 「是より長久保宿」 と書かれた大きな標柱が立っている。 国道142号線と国道152号線の合流する中央分離帯部分にゴミ無し地蔵が立っている。
道路脇を良く見ると空き缶やビニール袋が投げ捨てられている。
合流地点の手前の水路脇には、文化11年(1814)の馬頭観音が立ち、右手には水田が広がっている。少し先には、「中山道」 というドライブインがある。
中山道ドライブインを過ぎると右手に旧道がある。旧道の入口に説明板が国道を向いて建っているが、一里塚跡の説明板である。
江戸日本橋より数えて48番目の一里塚である。200mほど砂利道を進むとセブンイレブンの前に出る。
セブンイレブンから50mほど先の右手民家の前に注連縄を巻いた明和11年(1774)の道祖神が建っている。

和田橋 水明の里 庚申塔・道祖神 バス停
国道142号線を進み大和橋交差点で左折して大門街道に入り、100mほど先で大門川に架かる落合橋を渡り、続いて依田川に架かる和田橋を渡って、出光石油の脇で国道142号線に出る。
依田川は雨のため増水して濁っていた。
国道142号線を進んで青原橋の手前の青原交差点を右折して旧国道に入る。
この分岐には、「水明の里」 と刻まれた大きな石碑がある。
ここには、中山道の地図、和田宿と和田峠に関する解説があり、傍らには6基の馬頭観音が建っている。
旧道を進んで集落に入ると、直ぐ右側の畑の脇に青面金剛像が陽刻された庚申塔と道祖神がそれぞれ注連縄が巻かれて建っている。 庚申塔の直ぐ先の橋の手前に茅葺の上深山口バス停が建っている。
茅葺屋根にはコケが生えて旧街道に見事に溶け込んでいる。

天王夜燈 小社 馬頭観音 地蔵尊
上深山バス停から300m程先の中組公民館の手前に寛政12年(1800)の天王夜燈が建ち、傍らには宝暦2年(1752)の西国三十三所巡礼供養塔、青面金剛像の庚申塔、石祠、小社がいずれも注連縄を巻かれて建っている。 斎藤木材工業㈱の敷地内には、安全操業を祈るための神社と思われる社が建っている。その奥には、小さな道祖神が建っている。 斎藤木材工業㈱の向かい側に下和田中組バス停があり、バス停の裏には、比較的大きな馬頭観音が建っている。
大きな馬頭観音の前には、小さな馬頭観音が3基並んでいる。
斎藤木材工業㈱の脇の小路の先には地蔵尊が街道方向を向いて鎮座している。
手前の石塔群は、石祠もあるが良く見てみると墓石のようである。

ミミズの碑 水場 大日堂 三千僧接待碑
街道では目立つ赤いホース格納箱の先にミミズの碑が建っている。
どう見てもミミズの男女双体道祖神といったところである。
説明板では、このミミズの碑は、この地蚯蚓(みみず)に住む人々の希望で建てられたもので、蚯蚓地区では、ミミズの干物を作り、解熱剤として煎じて使ったとのことである。
先に進むと、右手の長屋門の向かいにある長和町消防団第六分団の火の見ヤグラの所に水場がある。
のみ水と刻まれた石柱があり、竹の管から流れ出る水は冷たくて美味しい。
水場から程なく右手の田んぼの奥の畑の中に大日堂が建っている。
細いあぜ道を通って行くと正面に石灯籠、脇に6体の石仏が建ち、奥に小さな大日堂がある。お堂の中には、5体の大日如来が安置されている。
街道から大日堂へ入る小路には、半分にひび割れた道祖神が横たわっている。
街道に戻ると、直ぐ左手に三千僧接待碑などの石造物群がある。一番大きな石碑が三千僧接待碑であるが、当初、諸国遍歴の僧侶一千人への供養接待を発願して見事結願し、一躍二千を増やして三千僧接待に改め、碑の一の字を三に改刻したものである。
周りには馬頭観音、大乗妙典供養塔、南無阿弥陀仏碑、大乗妙典供養塔、庚申塔、石祠と並んでいる。

招き猫 石碑群 馬頭観音 石碑群
上立場のバス停を過ぎると民家のシャッターの前に福寿と刻まれた石柱と福と刻まれた招き猫が並んでいるが、何時のものかは不明である。この先右手には、線刻の男女双体道祖神、地蔵尊が建っている。 街道右手の赤いホース格納箱の隣に青面金剛の庚申塔があり、隣には良くわからない石塔、その隣には平成8年の獅子舞と子供たちの姿のレリーフ碑が建っている。
この先の民家の庭先には、羽田左右平翁の頌徳碑が建っている。
緩やかな上り坂の途中左側の段上に阿亀馬頭観世音と福大大士碑が建っている。
雑草が伸び放題になっているため、下の方は確認できない。
馬頭観音の直ぐ先には、注連縄が巻かれた石碑が複数建っている。
道祖神、馬頭観音、西国秩父坂東百番観世音巡礼碑、水道の碑などである。奥の土手には、ポツンと一基の馬頭観音が建っている。

若宮八幡神社 一里塚跡碑 和田宿入口 和田神社
石碑群の直ぐ先に若宮八幡神社がある。鳥居の後ろに舞台があり、その直ぐ後ろに拝殿・本殿が一体となっている。本殿は享保6年(1721)の建立である。
境内には、天文23年(1555年)和田城主大井信定と武田信玄が矢ケ崎で合戦した際、信定父子を始め、一族郎党ことごとく戦死したため信定父子の首級がここに埋葬されており、墓碑が建っている。また推定樹齢300年の杉の木があり、保存樹木に指定されている。
若宮八幡神社の先に上組の一里塚跡碑が建っている。塚は昭和35年(1960)の道路改修で取壊された。
ここは江戸日本橋から数えて49里目の一里塚跡である。
暫く道なりに進み国道142号線が左に見えるあたりから緩やかな上り坂となり、右の土手上にスギやマツの林が見えると、その先でY字路となる。このY字路の左側に 「是より和田宿」 と刻まれた大きな和田宿碑が建っている。
傍らには、中山道道標と中山道案内板が建っている。
和田宿に入って直ぐ右手の赤いホース格納箱の隣に道祖神があり、その先に神社をかたどったバス停がある。その隣が和田小学校と和田中学校で、中学校の前に和田神社の鳥居が建っている。和田神社は鳥居の後方の山の手にある。
鳥居の脇には、石灯籠と水飲み場がある。

八幡神社 菩薩寺 水飲み場 かわち屋
街道を道なりに進むとY字路となり、その右手段上に八幡神社がある。祭神は応神天皇で、かつて和田城主大井氏の鬼門除けに作られたとの伝承がある。
拝殿と覆屋を併合した入母屋造りの建物となっており、両脇には文化9年(1812)と文化14年(1817)の常夜燈が建っている。
また境内のケヤキは推定樹齢350年で長和町指定の保存樹木となっている。
八幡神社を過ぎると右手に火の見櫓があり、その手前の小路を右手に入ると真言宗智山派の菩薩寺がある。
菩薩時は、安和元年(968)、空也上人が和田の地を訪れ、衆生利益のため説法をした時、建てたお堂が菩薩寺の始まりと言われている。境内には、南無阿弥陀仏名号碑、庚申塔、六地蔵尊、宝篋印塔などの石造物のほか、推定樹齢300年の高野槇の木が立っている。
菩薩寺から街道に出るとコンクリート造りのバス停の脇に水飲み場がある。
傍らには、男女双体道祖神が建っている。
街道を進んで追川橋を渡ると、右手に旧旅籠のかわち屋が建っている。文久元年(1861)3月10日の大火で焼失したが、その年の10月、本陣、脇本陣等と同じく再建されたものである。現在は、歴史の道資料館として公開されている。
和田宿の旅籠のうちでは規模が大きい方である。出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的な遺構であり、江戸末期の建築様式をよく伝えている。

問屋跡 旧旅籠大黒屋跡 信定寺 和田宿本陣跡
かわち屋の向かい側には、出桁造りの山木屋問屋跡が建っている。 問屋跡の隣には、旧旅籠の大黒屋が建っている。
大国屋の斜向かいには、出桁造りの旧旅籠「たかき」 が建っている。その向かい側にも立派な土蔵と門を構えた旧家がある。
街道の右手を少し入ったところに鐘楼門を構えた信定寺がある。
信定寺は大井信定の「信定」をとって命名されたもので、信定の菩提を弔うため天文22年(1553)に建立された。
鐘楼門は、二階建てになっており、門の右脇には、念ずれば記憶がよくなり学力が向上するといわれる虚空菩薩像が安置されている。
街道に戻ると左手に和田宿本陣跡がある。和田宿本陣は、文久元年(1862)3月の大火で焼失したが、同年11月の皇女和宮隆嫁にそなえてただちに再建された。
当時の本陣は大名が泊まる 「座敷棟」 と本陣の所有者が寝泊まりしていた生活棟のいわゆる 「主屋(居室棟)」 に分かれていたが、現存しているのは主屋(居室棟)の方である。建物の右手には、御入門が復元されている。

名主羽田家 旧米屋鐵五郎 旧本亭旅館 よろずや
本陣の斜向かいに名主羽田家が建っている。羽田家は明和2年(1765)以降名主を勤めていた。建物は文久の大火で焼失したが、その後平入出桁造りの建物として再建築された。最近まで 「かあちゃん家」 として地元の料理を食べさせる食堂となっていたが、現在は休業している。 本陣の先に米屋跡を改築したお休み処 「米屋鐵五郎」 が建っている。
看板には、文政年間創業米屋鐵五郎と書かれている。
米屋鐵五郎の隣に旧本亭旅館がある。
何軒も残っている出桁造りの旧家の中でも目立つ建物で、中山道を旅する人に大変人気のあった宿だったが、2012年に営業を停止した。
旧本亭旅館の先に見事なうだつの立つ 「よろずや」 商店がある。
脇には土蔵があり、江戸方向からは 「よろずや」、京方向からは 「萬屋」 と書かれた屋号が下がっている。

不動明王 高札場跡 馬頭観音 道祖神
よろずやの先の上町公民館の中に不動明王が安置されている。
中を覗いてみたが、胴体までは見えるが、顔は拝むことができなかった。
上町公民館から程なく宿はずれに近づき、上町中バス停のところに高札場跡がある。幕府の高札を掲示した場所である。記録によればここに正面3間(約5.5m)、奥行7尺(約2.1m)の一段高い敷地に、正面2間(約3.6m)の屋根付きの高札場があった。 高札場から緩やかな坂道を上って行くと民家の間の奥まった段上に大きな馬頭観音が建っている。
脇には、一対の常夜燈と庚申塔などの石碑が建っている。
更に街道を進むと右手の民家の脇に注連縄を巻いた道祖神が建っている。
脇には、水場がある。
この先、左側に菅沼曲水句碑、右手に男女双体道祖神がある。

鍛冶足一里塚 大出バス停 双体道祖神 一之橋
街道を進むと和田鍛冶足信号交差点で、国道142号線に出る。交差点を渡ったところに一里塚跡がある。江戸日本橋から数えて50里目の一里塚跡である。
一里塚跡碑の脇には、道標 「右諏訪街道、左松澤歩道」 がある。
一里塚跡から国道142号線の左手を通る旧道に入ると右手に茅葺の大出バス停があり、その前がY字分岐となり、この分岐地点に中山道道標がある。
この先は、左に大出橋があり、橋の袂に道祖神が2基建っている。

依田川は雨のため水量が多く勢いよく流れていた。旧道は直ぐ先で国道142号線に合流する。
国道142号線を進むと左手にそば処黒曜があり、その先にあるドライブイン杉の屋の前に男女双体道祖神が建っている。
ここで雨は強くなり、先に進むかどうか迷ったが、引き返すことも難しいので先に進むこととした。国道142号線はトラックが多いので、通るたびに雨水を除けるのに苦労した。この先のドライブイン和田宿の前の扉峠口バス停で昼食休憩をとることとなった。ここにもゴミ無し地蔵が立っている。
茅葺屋根の扉峠口バス停を過ぎると国道142号線に架かる一之橋がある。
旧道は、この右手を入って旧一之橋で依田川を渡るのだが、旧道が雨で冠水していたため国道142号線で依田川を渡った。旧道は、一之橋を渡った先で合流する。

馬頭観音 本陣跡 唐沢の一里塚 和田峠入口
一之橋から200mほど進んだ左側に馬頭観音と道標が建っている。
道標は、左の細い坂道を指しているが、これは古中山道であるため、先に進んで唐沢入口の標識がある右手の道に入って行く。道標の国道を挟んだ向かいには大きな石燈籠が建ってる。
国道142号線から右に入って坂道を進み、茅葺と赤いトタン屋根の旧家を過ぎると、唐沢バス停の隣の家の門柱に 「本陣」 と表札が掲げられている。ここは羽田茶屋本陣跡で、唐沢には5軒の茶屋があった。この先旧道は、石垣のある二階建ての家の横を通って国道142号線に出る。合流地点の先には、大きな岩の上に道祖神が建っている。 国道142号線が左に大きくカーブした先の左側擁壁に大きな標柱があり、「中山道唐沢一里塚」 と書かれている。その脇に階段があり、上ったところに江戸日本橋から数えて52里目の一里塚跡が両塚ともに残っている。
傍らには、不動明王、御嶽山座王大権現、山之大神、石祠が建っている。
一里塚から暫く進むと和田川に架かる二之橋があり、渡ると右手の土手に観音澤分教場跡碑がある。
更に進むと左側に男女倉(おめぐら)口バス停があり、その先でY字路となり、右手の美ヶ原・霧ヶ峰の標識の方に入って行くと突当りが和田峠の上り口である。
今日は、ここが終点で、民宿みやのご主人の送迎車で長和町まで戻ることになる。

平成26年8月17日(日) ☁  和田峠~下諏訪   14.0㎞
民宿みやでは、濡れた衣服を洗い、乾燥機で乾かして気分も一新出来て非常に助かりました。今日は、午前7時に和田峠口まで送っていただき、大きなおにぎりを2つ持っていざ和田峠越えです。雨は上がっているものの垂れ込めた雲がかかり、快適とは言えないが気温の面では歩きやすい。

民宿みや 熊出没注意喚起 休み茶屋跡 三十三体観音
国道152号線(大門街道)沿いに民宿みやがある。宿の前の街道土手には、馬頭観音などの石塔が建っている。 和田峠口にクマ出没の注意喚起看板が立てられていた。6月28日に和田峠の接待付近でクマの出没が確認されているため、鈴やラジオを携帯して歩くようにとのことである。この先、2か所ほどお目にかかる嫌な看板である。峠道の左には、水嵩を増した和田川が勢いよく流れている。 峠道に入って直ぐ目の前に休み茶屋跡の小屋が現れる。小屋の先には、鉄柵で囲まれた三十三体観音が安置されている。 説明板には、「かつて、この山の中腹にあった熊野権現社の前に並んでいた石像である。旧道の退廃とともに荒れるにまかせていたが、昭和48年の調査発掘により、29体が確認されここ旧道沿いに安置された。内訳は、千手観音13体、如意輪観音4体、馬頭観音10体、不明2体で4体は未発見である。現在安置されているのは29体で、4体は不明である。」 と記されている。

峠道 接待茶屋 殉職慰霊碑 峠口
曇り空のため鬱蒼とした森の中は暗くて不気味な感じもするが、道は整備されていて舗装道路から比べると歩きやすい。
昨日の雨のため脇を流れる和田川の音がやけにうるさく感じる。
丸太橋を2つ渡って坂道を上って行く
と、やがて目の前が急に明るくなって、国道142号線に合流する。
国道142号線との合流地点に建っている永代人馬施行所跡であり、江戸呉服町の豪商加勢屋与兵衛(有隣)が、中山道の旅の難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に献金し、その利子百両を二分して、碓氷峠とこの和田峠に50両づつ下付して、文政11年(1828)に設置された施行所の一つである。11月から3月まで峠越えの旅人に粥と焚火を、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。 接待茶屋の隣の高台に殉職警察官近藤谷一郎巡査之碑が建っている。
明治22年(1889)窃盗犯人を下諏訪へ護送する途中、この地において、やにわに逃走した犯人を捕えようとして谷川で格闘中、犯人の投げつけた石を顔面に受けて倒れ、更に、近藤巡査の所持する剣で腹部を切られて殉職した。犯人は頭部に傷を負って接待茶屋に逃げ込んできたが、茶屋の主人が護送中の犯人であることに気付き、通りかかった住民2人と取り押さえて事件が判明した。
接待茶屋の先で再び峠道に入って行く。入口には、青い中山道の道標が建っていおり、踏み込むと目の前に常夜燈が建っている。
この先の峠道は平らで柔らかくて歩きやすい。途中の丸太橋を渡ると
近藤谷一郎巡査が殉職した場所に出る。

近藤谷一郎巡査殉職地 避難小屋 石畳 丸太橋
近藤谷一郎巡査が殉職した場所には、「近藤谷一郎巡査殉職の地」 と刻まれた小さな碑が建っている。
碑の前には和田川が流れているが、この川の中で発見されたという。
中山道道標の立つ峠道を進んで行くと丸太橋があり、渡ってからやや上り坂になるところに避難小屋が建っている。 避難小屋から先の数十メートルは、大きめの苔むした石が並ぶ道で、慎重に進まないと滑るので注意が必要である。 石畳の道を抜けると、これまでの丸太橋よりは比較的大きな苔むした丸太橋が現れる。この先、更に2つ丸太橋を渡って、石が混ざった登り坂に来ると坂の上にこんもりした塚が見えてくる。

広原の一里塚 合流地点 東餅屋の茶屋跡 旧道入口
坂を登り詰めると大きな塚が1基ある。江戸日本橋から数えて52里目の一里塚である。説明板には、「この辺りを広原といった。その名のとおり昔は笹と萱の生い茂った原であった。冬の降雪期には山頂より吹き降ろす吹雪で一面の雪の原と化して道も埋もれた時、五間(約9m)四方のこの一里塚は旅人の道しるべとなった。」 と記されている。
この先にはキャンプ場があり、旧道の脇に炊事場がある。
キャンプ場の先からは石畳風舗装路となり、国道142号線に合流する。
国道を進んでいくと正面に黒曜石と書かれた看板のドライブインが見えてくる。
ドライブインの向かい側に東餅屋の茶屋跡の石垣が残っている。
説明板には、「この東餅屋には五軒の茶屋が名物の餅を売っていた。寛永年間(1624~1643)より、一軒に一人扶持(一日玄米五合)を幕府から与えられ、難渋する旅人の救助にもあたっていた。幕末には大名休息のための茶屋本陣が置かれ、土屋氏が勤めていた。」 と記されている。
茶屋跡の先で左手にある長さ40m程の石畳風舗装路を上って、右から回り込んだ国道142号線に出ると、向かい側に旧道入口がある。

和田嶺神社碑 パイプトンネル ビーナスライン横断 ビーナスライン横断
旧道に入ると右手の石垣の上に大きな石碑があり、石碑上部に和田嶺神社と刻まれている。石碑の中央には、三峯神社、山之神社、諏訪神社、建部神社の四社が刻まれている。 峠道を進むと中山道道標の先にパイプトンネル があり、中から水が流れて出ている。このトンネルの中は川になっており、歩道は右側の一段高くなった部分を通っている。 パイプトンネルを抜けて峠道を進むとビーナスラインに突き当たるので、向かい側に見える中山道道標のある峠道を上って行く。入口の先に和田峠周辺案内図が板に彫られている。峠道は、周辺から染み出た水でぬかるんでおり、道の中央は歩けない状態だった。 ぬかるんだ峠道を進むと再びビーナスラインに突当り、向かい側の中山道道標から峠道に入ると石畳風舗装路が少しあり、その先で直ぐにビーナスラインに突き当たる。

ビーナスライン横断 峠道 和田峠 下り道
パイプトンネルを含めて4回目にビーナスラインを横断すると、向い側に十数段の階段があり、ここを上って峠道に入っていく。階段を上ると和田峠入口にあったクマに対する注意喚起の看板があり、「五月上旬に、中山道西餅屋下の垂木坂付近(53里目の一里塚付近)でクマの出没が確認された」 と記されていた。 峠道に入ると辺りは霧で霞んでおり、杉林と笹の生い茂ったところは、クマが出ても不思議はないと思えるような景色であった。 峠道を上り詰めると和田峠である。
この日は、霧のため数十メートル先は見えない状況であり、1531mからの眺望は望めなかった。
峠には、賽の河原地蔵、御嶽山坐王大権現碑、本尊大日大聖不動明王碑が建っている
峠を下ると草道は直ぐに砂利道に変わり、道幅もかなり狭くなってきた。

水場 石小屋跡 峠道 国道横断
砂利道を下ると途中に水場がある。
竹筒からは、勢いよく水が出ており、傍らにはコケで覆われた地蔵尊、石の水鉢がある
峠から400mほど下ったところに石小屋跡がある。説明板には、「中山道の古峠は、悪路で知られており、下諏訪側の峠近くは急坂で風雪の時は旅人も人馬も難渋した。下原村の名主勝五郎は安政2年(1855)に避難場所と荷置場を造ろうと郡御奉行所に口上書を差出し、馬士の出金、旅人等の援助を乞うて、50両ほどで石小屋を築いた。」 と記されている。 石小屋の先の峠道は、雨水が流れて小川状態になっており、水を避けて跨いで歩くことになり大変な下り道となった。 水の流れる峠道を下ると国道142号線に突き当たるので、横断して向かい側のガードレールの切れ目から峠道に入って行く。

倒木 国道横断 道祖神・牛頭天王 西餅屋茶屋跡
峠道は、右斜面から落ちてきた石で歩きづらくなっており、道を塞ぐ倒木が2か所あった。 峠道は依然として小川状態が続いたが、目の前に国道142号線が見えてきた。再び国道142号線を横断してガードレールの切れ目から峠道に入って行く。 ガードレールの切れ目から峠道を下って行くと右手に墓石などの石塔が沢山あり、その先に道祖神と牛頭大王と刻まれた石碑が倒れかかった状態で建っている。この墓石があるところは、旧西餅屋村の墓所である。 道祖神の先には広場があり、西餅屋茶屋跡碑が建っており、広場の一角には石垣が残っている。案内板には、「西餅屋は中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の和田峠路に設けられた立場であった。ここには茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家、小松家の四軒があり、藩界にあったので、ときには穀留番所が置かれた。」 と記されている。

国道横断 西餅屋の一里塚跡 倒木 崖道
西餅屋茶屋跡を下ると国道142号線に突き当たるので、三たび国道を横断して向かい側のガードレールの切れ目から峠道に入って行く。 峠道を少し下ると右側の斜面に一里塚碑が建っている。ここは西餅屋の一里塚跡で、江戸日本橋から数えて53里目の一里塚跡である。 一里塚跡の前の峠道には、大きな倒木が道を塞いでいる。
倒木の下をくぐって行くとその先にも倒木があり、倒木の先で道は狭くなって崖道となる。
狭い崖道の左側には砥川の谷底が見えており足がすくむ場所だが、右手の斜面には細いロープがあるので、これを持って下って行く。この先は、右斜面から崩れた石がガレ場を作っている。ガレ場を抜けると平坦な道になり、傍らには馬頭観音が立っている。

林道口門扉 浪人塚 ペット霊園 山の神
峠道を下りて国道142号線に合流したとこに林道口の門扉がある。
実質的な峠越えは終了である。
是よりさきは国道142号線に沿って歩くことになる。途中にあるホテルラミューは廃墟となっていて、敷地内はゴミ置き場と化している。
国道142号線を下っていくと左側に降りていく道があり、道なりに行くと国道142号線の下をくぐって浪人塚の前に出る。ここは元治元年(1864)11月20日に水戸浪士浪人の武田耕雲斎たち千余名と松本、諏訪の連合軍千余人が戦った古戦場であり、水戸浪士6名が埋葬されており、中央の碑に名前が刻まれている。周辺には、水戸浪士殉職碑、和田嶺合戦碑、観世音碑、南無阿弥陀仏名号碑と水戸の梅が植えられている。 浪人塚から再び国道142号線の下をくぐり、砥川を渡って先に進むと右手にペット霊園がある。段上に東屋が建てられていたので、ここで暫し休憩させていただいた。 ペット霊園の先の左手林の中に鳥居があり、入って行くと山の神と養蚕の神である蠶玉神社がある。

樋橋茶屋本陣跡 石仏群 深沢旧道口 一里塚跡
国道142号線に出て先に進むと火の見櫓があり、左手に入る旧道がある。火の見櫓の裏手に樋橋茶屋本陣跡碑が建っている。樋橋村は寛永11年(1634)に開村し、立場茶屋として栄え、茶屋本陣は小松嘉兵衛が勤め、他に何軒かの茶屋があった。
文久元年(1861)11月6日には、皇女和宮が茶屋本陣で休息している。
茶屋本陣跡から国道142号線を横断して旧道に入ると小さな石仏群があり、手前の石に 「村のはずれのお地蔵さんはいつもにこにこ見てござる」 と刻まれている。
近くには、南無阿弥陀仏名号碑などの石碑が建っている。
国道142号線を進むと右側に石材置場があり、手前に斜め右に降りる土道ある。
ここから先が深沢旧道で、草道を進むと溝を跨ぐ小橋がいくつかあり、右手に畑を見て旧道は坂を上がって国道142号線に合流する。
国道142号線の右手にある焼却炉に降りる道路脇に 「一里塚碑 私有地を通るため特に大型車にご注意ください」 と書かれた看板があり、敷地内を進んで行くと焼却炉の裏手辺りに一里塚碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて54里目の一里塚跡である。

町屋敷旧道 道祖神 木落し坂 落合発電所
一里塚碑を過ぎて国道142号線を進むと右手に六峰温泉があるが、閉まっている様子である。その先の町屋敷バス停のところから左に入る旧道が町屋敷旧道である。
道路の真中に鉄塔が建っており、回り込んで先に進んでいく。
旧道を進んで2本目の鉄塔を越えた右手に、4本の御柱に囲まれた道祖神が安置されている。 道祖神から坂道を上って行くと木落し坂の上に出る。
ここには、「天下の木落し坂」 と刻まれた石碑、模擬御柱、島木赤彦の歌碑、推定樹齢200年の赤松がある。
木落し坂から右手のくねった坂道を下って行くと落合発電所の送水管の脇を通り、更に階段を下って国道142号線に合流する。合流地点の左側に落合発電所がある。この発電所は諏訪地方の電気発祥の地である。
合流地点には、馬頭観音、道祖神、芭蕉句碑などが建っている。

落合旧道口 馬頭観音 山之神 道祖神
落合発電所の直ぐ先で左に入る落合旧道口がある。
落合旧道は、砥川に沿って進み、程なく国道142号線に合流する。
国道142号線に合流すると、右手に宮の湯に向かう注連掛橋がある。注連掛は、木落しをした御柱を一旦この地で注連縄を掛けて休ませることからこの名がある。国道142号線を先に進むと、左側段上に6基の馬頭観音が建っている。 更に進んで諏訪湖がちらほら見えるようになると左手の林の中に 「山之神」 の鳥居がある。ここは白鷺山といい正平年間(1350年代)この山中の岩が燦然と光るので苔を払ったところ 「不動」 の二文字が現れ人々は不動明王の影向と崇めたという。宝暦(1750年代)の頃、白鷺が巣をかける瑞兆があったので白鷺山と呼ぶようになったという。山頂の石尊大権現と白鷺稲荷大明神をはじめとして山中には30体に及ぶ神仏碑が祀られている。 山之神を過ぎると右側に下る砥川旧道がある。降りていくと左側に御柱に囲まれた道祖神が建っている。
旧道は直ぐ上り坂になって、国道142号線に合流する。

慈雲寺楼門 慈雲寺本堂 天桂松 五輪塔
国道142号線に合流すると直ぐ先で旧道は右手に分岐して行くが、左手には慈雲寺がある。慈雲寺は、正安2年(1300)一山禅師の開山で信州触頭(ふれがしら)として重きをなした名刹である。楼門は、安永8年(1779)大隈流の名匠村田長左エ門矩重の手によるものである。楼門の前には、三十三観音と思われる沢山の観音菩薩像が安置されている。 慈雲寺は創建以来3回大火に遭っているが、文化5年(1808)に本堂、玄関、庫裏を再建している。
本堂は入母屋造りで周囲に板縁を回し、内陣には臨済宗特色の通し須弥壇が付けられている。屋根には梶の葉と武田菱が付けられている。
本堂に向かって右手にある地を這うような松は、天桂松といい戦国時代慈雲寺の住持天桂玄長禅師の植えたものと言われている。本堂の周囲は、小砂利が敷き詰められ石庭となっている。 楼門の建つ参道の左手には、日根野高吉の供養塔が建っている。日根野高吉は、豊臣秀吉の武将で天正18年(1590)諏訪の領主になり、高島城を築いた築城の名手である。この五輪塔は慶安2年(1649)に高吉の子吉明が50回忌に当たって建てたもので、諏訪地方で最も大きいものである。
この脇には 「海印寺高麗形創作灯篭」 が建っている。

諏訪湖 道標 諏訪大社春宮弊拝殿 万治の石仏
慈雲寺を出て旧道に戻り、坂道を下ると目の前に諏訪湖が見えてくる。
右手の林には、大社諏訪神社の標柱と宮坂道路改修記念碑が建っている。
更に坂道を下り、道が三叉路で旧カーブするところに道標が建っている。
道標には、「右中山道 左諏訪宮」 と刻まれている。
旧道は、下りてきた坂道を真っ直ぐ進むが、諏訪大社へ寄って行くことにする。
国の重要文化財となっている弊拝殿である。この建物、御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったもので、二重楼門造りで全体に彫刻が施されている。左右には、片拝殿が建っている。境内には、神楽殿、筒粥殿、御柱、若宮社、子安社、上諏訪社(末社)、上部が二つに分かれた結び杉などがある。 諏訪大社境内のすぐ傍を流れる砥川の真中には浮島神社があり、そこから真っ赤な浮島橋を渡ると万治の石仏が田んぼの中にある。明暦3年(1657)、諏訪高島三代藩主忠晴が諏訪大社下社春宮に遺石の大鳥居を奉納しようとし、命を受けた石工が大きな石にノミを打ちいれたとき、その石から血が流れ出たため、この石に阿弥陀様を刻み霊を納めながら建立したと言われている。

慈雲寺参道 矢除石 一里塚跡碑 伏見屋邸
街道に戻り、道標の建つ三叉路を先に進むと左側に慈雲寺に続く参道の石段がある。石段入口には、庚申塔、三界萬霊塔などの石碑と龍の口と呼ばれる水場があり、今でも水が流れている。階段の途中には、動力霊神、驗徳霊神、玉光霊神、秋葉大権現など沢山の石碑が建っている。 慈雲寺参道の石段を少し上った右手のところに寶光院、その脇に白鷺三社稲荷大明神、その上に不動明王があり、更に一段高いところに矢除石がある。武田信玄が慈雲寺の天桂和尚に戦勝の教えを請いに立ち寄ったとき、天桂和尚がこの石の上に立ち、矢を射させたところ全てこの石が跳ね返したという霊力のある石で、信玄は念力のこもった矢除札を受けて戦場に向かったと言われている。 少し先に進むと右手の土蔵の前に一里塚跡碑がある。ここは下諏訪の一里塚で、江戸日本橋から数えて55里目の一里塚跡である。 一里塚碑の先には、伏見屋邸と看板のある趣のある家が建っている。この家は、中村家が明治時代に商いを営んだ家で、屋号を 「伏見屋」 といった。
建物内は、無料で見学が出来るが靴を脱ぐのが面倒なので、土間だけを見せていただいた。中には 「御茶所」 の看板と 「稚児印」 の絵が立てかけられていた。

御作田社 番屋跡 旅館「古久家」 旦過の湯
旧道を進むと左側に諏訪大社の末社御作田社がある。下社の御作田祭(御田植神事)は、毎年6月30日にこの境内で行われ、この日に植えられた稲は一ケ月後の8月1日には諏訪大神の神供として捧げられたと伝えられ御作田の早稲として諏訪七不思議の一つにあげられている。
境内には、小さな水田がある。
御作田社から程なく右手の路地の角地に小さな番屋跡碑が建っている。ここは下諏訪宿の江戸口で番所が置かれていた。 番屋の先には旅館 「古久家」 があり、軒先には下諏訪宿の説明が刻まれた石碑が建っている。石碑には、「下諏訪宿は宿としての呼び名で郷村名としては湯之町と呼ばれていた。下諏訪の宿場は綿之湯を中心につくられ、湯田町、横町、立町の四丁五十間(527m)と木の下五十二間(95m)の町が下諏訪宿である。云々。」と刻まれている。隣には鉄鉱泉本館 「つたや」 が建っている。 湯田坂の左側に新しくなった旦過の湯がある。この旦過の湯は、鎌倉時代に慈雲寺に修行に来た僧侶のために建てた旦過寮 (旦に過ぎ夕に宿す) から出た名前で、そこに付属させた浴場が旦過の湯であった。
現在も湯量が豊富で、かけ流しの公衆浴場となっている。

今井邦子文学館 来迎寺 お地蔵さまと「かね」 つる屋跡
旦過の湯の向かい側には、昭和の代表的女流歌人今井邦子の実家の茶屋松屋が建っている。松屋は今井邦子文学館となっており、入館料無料で見学することができる。今井邦子文学館のすぐ先で湯田坂の上に出て、国道142号線に合流するが、この合流地点に和泉式部の大きな説明版が建っている。 坂を上って国道142号線に出ると、交差点左側に浄土宗の引接山来迎寺が建っている。参道入り口には南無阿弥陀仏名号碑、山門手前に六地蔵尊が建っている。
境内には、和泉式部供養塔、銕焼地蔵尊像が安置されたお堂がある。
今から千年余り語り継がれてきた伝説で、下諏訪の湯屋別当方に 「かね」 という娘が奉公しており、日頃道端のお地蔵様に自分の弁当の一部をお供えするやさしい子だったが、ある日別当の妻が火箸でかねの額を打ち据えて傷から血が流れ、痛みに耐えかねたかねが、お地蔵様に祈り仰ぐとお地蔵様の額から血が流れ、かねの傷は無くなったという。かねは後に和泉守橘道貞と結婚し、歌人泉式部となる。 来迎寺の交叉点から程なく左側に 「児湯」 の看板がある 「つる屋」跡がある。
和泉式部伝説の銕焼地蔵尊(来迎寺)の御利益により湧き出したと云われる湯で、子宝の湯として親しまれたことから 「児湯」 と呼ばれている。

本陣跡 甲州道中中山道合流之地碑 脇本陣跡 歴史民俗資料館
児湯の先、左側に岩波本陣跡がある
下諏訪宿の問屋兼本陣の大半がそのまま残っている。維新前は公卿や大名の宿泊所となり、文久元年(1861)11月には和宮が宿泊し、明治13年6月には明治天皇ご巡幸のときの御小休所となった。
本陣跡の直ぐ先が甲州街道と中山道の合流地点であり、合流之地碑が建っている。
昨年(2013)12月に甲州街道を歩いて以来2度目に見る碑である。
合流地点の角地に脇本陣をつとめた御宿まるやが建っている。
出梁格子造りのまるやの創業は、古文書や過去帳等から推定して元禄2年(1689年)と言われ、代々丸屋四朗を名乗った。
まるやの先、街道左側に下諏訪歴史民俗資料館が建っている。
入館は無料で中には、旅館の看板や和宮下向、和田嶺合戦などの記録が残っている。建物の脇には、諏訪明神御神湯がかけ流しになっている。この先、数か所に設置されている。

みなとや 下諏訪宿入口 藥医門
菅野温泉
歴史民俗資料館の隣には、旅館みなとやが建っている。
建物の前には道標が建っており、「右甲州道 左中山道」 と刻まれているが、これは志賀直哉・芥川龍之介の僚友里見惇の筆によるもので文学碑としての意味を持つと説明がある。
緩やかな下り坂から国道142号に出るところに中山道下諏訪宿の提灯が下がっている。 大社通交差点の右手前に藥医門が建っている。弘化4年(1847)六代武井武明が建立し、医師にのみ許可されたという。 藥医門の裏手に菅野温泉がある。
ドーム状の通路の奥にレトロな銭湯があり、ここで汗を流して今回の行程は終了である。

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