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中山道   (下諏訪~奈良井)

下諏訪から奈良井までは、塩尻宿、洗馬宿、本山宿、贄川宿、奈良井宿の5宿であり、いよいよ木曽路へ突入することとなり約36kmの道程である。

平成26年9月14日(日) ☀  下諏訪~塩尻  14.4㎞
前回の和田峠越えは雨模様の天気で歩くのにも苦労したが、今日は朝から晴れ上がって期待できる街道歩きになりそうだ。前回同様、友人と二人で歩くことにした。午前7時のあずさ1号に乗り、下諏訪に9時24分に到着し駅前から前回の続きを始める。

下諏訪駅前 魁塚 大燈籠 道祖神
良く晴れあがった駅前から下諏訪宿方面を望むと正面の左右に御柱のモニュメントが立っている。 駅前から北上して突き当りの国道20号線を左折し、直ぐ先のY字路を左に進むと、左手に魁塚がある。魁塚は、相楽総三以下赤報隊8名の墓であり、彼らは慶応4年(1868)官軍に味方し信州の十藩を説いて帰属させようとしが、官軍は 「年貢半減」 を建白した相楽に全ての責任を負わせ偽官軍として処刑してしまった。やがて時が経て偽官軍の汚名は晴らされた。 県道185号線を横断した右手に諏訪宮一之宮の石燈籠が建っている。
石燈籠の台座には沢山の人名が刻まれており、傍らには石燈籠整備の石碑が建っている。ここから右方向の交叉点を見ると諏訪大社下社春宮の大鳥居が建っている。
石燈籠から少し進んだ三叉路の角に御柱に囲まれた道祖神がある。
この先、旧道は民家の間を通って砥川に突き当たる。この先は土手道を進んで富士見橋で迂回して行く。富士見橋からは、富士山の頂が少し見え、和田峠の山並みも見える。

旧道 木橋 平福寺 東堀正八幡宮
富士見橋を渡って対岸の旧道の延長線上に当たる辺りに出ると、民家の間を抜ける旧道がある。ここには垣根に中山道道標が架けられており、砥川を渡る迂回路も示されている。 民家の間を抜けて、やや広い道路を横断すると下諏訪町消防団第七分団があり、傍らに道標が建っている。道標は「左右中山道」と彫られている。
ここから道なりに進むと小川に架かる木橋を渡ることになり、ここにも中山道道標が建っている。
木橋を渡って道なりに進んでいくと右手に真言宗智山派の彌林山平福寺がある。平福寺は、弘法大師空海(774-835)の密教を擁護する道場として開創された寺院である。
境内には、日限地蔵堂があり、日を限って願掛けすると願いが叶うと言われている。
平福寺の先で長地中町交差点に出るが、ここを左に行ったところに東堀正八幡宮がある。北側の鳥居をくぐると右手に御柱に囲まれた石碑、道祖神などがあり、中央に緑屋根の舞屋、その右手に弊拝殿があり、境内には沢山の境内社が建っている。

尼堂墓地 武井家長屋門 道標 雀踊りの屋根
街道からは外れるが、東堀正八幡宮の少し先に尼堂墓地がある。
ここには、寛文4年(1664)の神宮寺石で造られた岡谷市指定の石幢が一基と永田徳本の藍塔が建っている。
永田徳本は、三河国生まれで貧しい庶民の救済に心を砕き、医聖と仰がれた江戸初期の医師である。
街道を外れたついでに更に足を延ばして広円寺まで行くと近くに童画家の武井武雄の生家が建っていた。武井家は元禄(1688)の頃一部を焼失しているが、武家住宅の造りを残しており、この長屋門は塩尻市で残存する唯一のものである。
近くには八幡宮があり、境内には庚申塔、二十三夜塔ほか、たくさんの境内社の石塔が建っている。
街道に戻ると長地中町交差点の角に道標が建っている。
道標には、「右中山道 左いなミち」 と刻まれている。
街道を進むと右手に立派な家が建ち、大屋根の正面屋根構えの頂点に、雀踊りの棟飾りが据えられている
これから先の街道沿いには、こうした雀踊りの棟飾りを据えた立派な家が見られる。

一里塚碑 道祖神 天満宮・蠶玉神社 男女双体道祖神
国道20号線を横断して直ぐ右手の広場の前に東堀の一里塚碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて56里目の一里塚跡である。
一里塚碑の先の交差点角に道祖神が建っており、道祖神の後ろには、常夜燈が一基建っている。
向かい側には、飲食店のほうろくやがあり、店の前には馬頭観音がある。この先の田んぼでは稲刈りが終わり、稲架かけの作業中であった。
道祖神の先で横河川に架かる大橋を渡ると、左手の木の下に天満宮と蠶玉(こだま)神社の石碑がある。
傍らには、道祖神が建っている。
岡谷市消防団第一分団の火の見櫓の下に御柱に囲まれた双体道祖神が建っている。
この先の民家の軒下には、風見鶏と思われる色とりどりの小鳥の彫り物が干されていた。

今井番所跡 茶屋本陣跡 道標 高尾神社
緩やかな上り坂を進むと左手に冠木門があり、門の脇には今井番所跡の石碑が建っている。
ここは高島藩が設けた口留番所跡で此処を通過するには前もって許可の手形が必要であった。
今井番所跡の向かい側には、茶屋本陣の今井家が建っている。
文久元年(1861)11月5日には、皇女和宮がここで休息し、明治13年6月24日には、明治天皇が山梨、三重、京都方面御巡行の際に、ここで休息されている。
茶屋本陣の先には道標があり、「右しもすは 左しほじり峠」 と刻まれている。
直ぐ先の土手には、明治に建てられた馬頭観音、不動尊碑が建っている。この辺りから振り向くと諏訪湖の湖面が少し見える。
国道20号線の下諏訪岡谷バイパスを越えると右手の山の斜面に鳥居が見えるので行ってみると整備された囲いの中に石祠があり、囲いの標柱に高尾神社と刻まれていた。
境内には、御嶽大権現、摩利支天、正照霊神、庚申塔などたくさんの石碑が建っている。

石船観音 諏訪湖 大石 塩尻峠道
岡谷ICを過ぎて坂道を上って行くと右手の石段の上に石船観音がある。
本尊馬頭観音が、船の形をした台石の上に祀られているところから石船観音と呼ばれ、とくに足腰の弱い人に対して霊験あらたかであるといわれている。境内には鳴沢清水といって、豊富な清らかな水が流れており、街道沿いの木造りの龍の口からこんこんと流れている。
石船観音から街道を振り返ると眼下に諏訪湖を見ることができる。
街道には、大きな看板があり、「クマ出没注意」 と書かれている。
坂道を少し先に行くと左側に大きな石がある。昔、山賊がこの石の裏に隠れて旅人を襲ったと言われている石である。 大石を過ぎると急坂になり峠道は林に囲まれて涼しくなる。
途中、馬頭観音が建っており、やや開けた山間に養蜂の箱が並んでいた。

富士浅間社 塩尻峠頂上 茶屋本陣跡 夜通道の親子地蔵
塩尻峠頂上には、富士浅間社の石祠が建っている。この石祠は、江戸時代に松本領、諏訪領の郡境の宮として奉祀したものである。
近くには、明治天皇御野立所碑が建っており、明治13年に明治天皇が山梨、三重、京都方面御巡行の際に、ここで野立てを行ったところである。
富士浅間社の奥には展望台が設置されており、ここから諏訪湖を一望することができる。丁度昼頃だったので、ここで昼食を採ることにした。 峠を下って間もなく左手に雀踊りの棟飾りをつけた茶屋本陣跡が建っている。建物の向かい側には、明治天皇塩尻嶺御膳水の石碑が建っており、石碑の裏手には今も水を湛えた井戸がある。 峠道を下って行くと右手に親子地蔵が鎮座している。天明の大飢饉で行き倒れになった親子を供養したものであるという。
また、ここには夜通道の標柱が建っており、「いつの頃か片丘辺のある美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり男に会うため毎夜この道を通ったという」 と記されている。

東山の一里塚 タヌキ 高ボッチファーム 蕎麦の花
峠道を更に下ると左手に東山の一里塚が残っている。
残存するのは南塚であり、江戸日本橋から数えて57里目の一里塚跡である。
峠道を下って高ボッチスカイラインに合流した先でY字路を右に上がってしまい道を間違えたことに気づいて戻る途中でタヌキに出会った。このタヌキは暫く前方を歩いていたが、やがて近づいた我々に気付いて一目散に藪の中に逃げ込んで行った。 道を引き返して旧道に戻ると左手に高ボッチファームがあり、休憩所が建っている。ここで中山道を走って進む女性数人と出会った。彼女達もまたY字路で迷っていたが、教えてあげると御礼を言いながら勢いよく下って行った。この先左側に半僧坊大権現、馬頭観音が建っており、裏手に東明神社がある。 街道を進むと左側は蕎麦畑が続いており、小さな白い花が咲き乱れていた。
右側には栗の木もあり熟れた栗が毬(いが)の間からのぞいていた。、

雀踊りの屋根 牛馬守護神 馬頭観世音 首塚・胴塚
更に下ると街道の左側に雀踊りの棟飾りをつけた立派な家が建っている。
ここの雀踊りは鱗のようでもあり、羽のようでもあり見事である。この先で国道20号線に接近し、直ぐ右手に進むと犬飼の清水跡標柱が木の脇に建っており、傍らの半鐘梯子の先で国道20号線に合流する。
国道20号線に吸収されて間もなく、国道が左にカーブする手前で右手の旧道に入って、坂道を上って行くとカラマツ林が続き、この右手段上に牛馬守護神の石碑が建っている。かつてこの辺りに立場茶屋があったと云われている。この先は木々に囲まれた永井坂の下り坂となる。 牛馬守護神から先に進むと街道は下り坂となり、国道20号線を地下道でくぐると更に下り坂が続き、中央自動車道の跨道橋を渡る。跨道橋の先の畑の角に嘉永六年(1853)の馬頭観世音が建っている。
この先の右手の木々の間にも弘化3年(1846)の馬頭観音をはじめとした数基の馬頭観音が建っている。
街道を進むと左手に首塚・胴塚の案内板があり、案内に沿って進むと畑の中に首塚・胴塚がある。天文17年(1548)7月、甲斐の武田信玄軍と松本城主の小笠原長時軍が永井坂において交戦し、その結果、小笠原軍は大敗し多くの戦死者を残して退却してしまった。武田軍は首実検をしたのち、遺体を放置して引き上げたため、哀れに思った柿沢の村人が埋葬したものである。

八幡神社 高札場 本棟民家 道祖神
首塚・胴塚の案内板の向かい側の脇道の角に双体道祖神があり、その脇道を入って行くと丸山の斜面に八幡神社がある。
境内には、庚申塔、御嶽山大権現碑、二十三夜塔、南無阿弥陀仏名号碑などが建っている
旧道に戻って緩やかな下り坂を進むと左手に高札場がある。
高札場の向かい側には、雀踊りの棟飾りをつけた旧家が建っており、家の前の生垣のところに比較的大きな道祖神が建っている。
先に進むと雀踊りの棟飾りの旧家があり、塀のところに説明板が立っている。説明板には、 「本棟民家 松本平に数多く見られる切妻造りの民家。雀踊りと呼ばれる棟飾り意匠は 風格と威厳がある」 と記載されている。
この家から少し先の土蔵の前には、七観世音と刻まれた石碑が塀の間に隠れるように建っている。
旧道を進むと街道にまたがる大きな鳥居をくぐり下柿沢交差点に出る。
この交差点の右側角に道祖神が建っている。旧道は直進して直ぐのY字路を左に進んでいく。

男女双体道祖神 道祖神・題目碑 塩尻口留番所跡 十王堂跡
柿沢交叉点の先で左に進むと四沢川に架かる緑並橋で国道153号線に合流する。緑並橋を渡った右手の畑の一角に男女双体道祖神が建っており、この道祖神は板碑に彫られた抱擁像であり、お女郎道祖神とも呼ばれている。 仲町交差点の左手に道祖神と南無妙法連華経題目碑が建っている。
この向かい側には、「是より西 中山道 塩尻宿」 と刻まれた石柱が建っている。また直ぐ先の左側には、式内阿禮神社の御旅所があり、その先左入る道の角には、三州街道と刻まれた石柱が建っている。三州街道は、信濃と三州(三河)を結ぶ街道で、伊那街道ともよばれる。
三州街道の石柱の斜め向かい側に塩尻口留番所跡の石柱が建っている。
ここは米・塩・材木・女人などの取り締まりを行っていた。
続いて十王堂跡碑が建っている。「十王」 とは、冥土で亡者の罪を裁く十人の判官のことで、この十王様をお祀りしているのが十王堂である。堂の中には、真中に「閻魔王」をはじめ、十人の王と、その本地である「地蔵様」、それに十人の判官を支える 「奪衣婆」 「倶生神」 などが祀られていた。この十王堂の石柱の奥には、庚申塔、南無阿弥陀仏名号碑、男女双体道祖神などが建っている。

五千石街道 祭用具か? 小野家住宅 飛脚問屋跡
十王堂跡の直ぐ先に五千石街道碑がある。松本藩は、小笠原秀政を領主としていたが、大阪夏の陣で戦死したため、その後の八万石を忠政が継いだが、播州明石に移封されてしまい、高崎藩から戸田康長七万石が領地替で、松本藩にやってきた。そのため石高の差が一万石できたので、これを諏訪藩と高遠藩に五千石づつ分け与えられることとなり、諏訪藩は飛び地となったこの五千石の領地巡見ため、この街道を作ったと言われている。 五千石街道の少し先の総合金物店の隣の民家の二階壁面に大きな木製の矢、太刀などが掲げられている。 小野家は国の重要文化財となっている建物で、屋号を 「いてうや(銀杏屋)」 と称し、中山道塩尻宿の中心部であるこの場所において旅籠を経営していた。
天保7年(1836)に建てられた木造2階建ての主屋と、土蔵造りの文庫、隠居屋の計3棟などが国重文に指定されている。
小野家住宅向かい側の民家脇に飛脚問屋跡の石柱が建っている。飛脚問屋は、「町飛脚」 とも呼称される。

上問屋跡 高札場跡 本陣跡 脇本陣跡
塩尻町交差点の左が上問屋跡で石柱が建っている。
その隣が明治天皇塩尻行在所跡で火の見櫓の下に石碑が建っている。
上問屋跡の向かい側に高札場跡があり、下問屋跡の石柱も建っている。
この高札場には、塩尻四宿400年の案内があり、「2014年に塩尻四宿は開宿400年の節目を迎える」 と記載されていた。
高札場の先左手に広場があり、塩尻宿本陣跡の碑が建っている。
川上家は中山道最大の本陣であった。
塩尻宿本陣碑の隣の屋根付きの掲示台は、平成24年に改修されている。
本陣碑の後ろには、明治天皇塩尻御膳水碑が建っている。
本陣跡の隣に脇本陣跡がある。
ここには、中山道碑と塩尻宿碑があり、脇本陣跡碑は、これらモニュメントの脇に横倒しになっていた。また中山道碑の脇には、諏訪湖のレリーフがあり、「木曽街道塩尻嶺諏訪湖水眺望」 と刻まれている。

笑亀酒造 中山道鉤の手跡 阿礼神社 男女双体道祖神
脇本陣のすぐ先に明治16年(1883)創業の造り酒屋 「笑亀酒造」 が建っている。酒造の入り口には、大きな杉玉が下がっており、その下に塩尻陣屋跡碑が建っている。 笑亀酒造の先で十字路となり、横断歩道橋の脇に中山道鉤の手跡碑が建っている。
いわゆる枡形道路で街道は、ここを右に折れていく。
鉤の手跡碑から右に折れて進んでいくと突当りに塩尻東小学校があり、その手前に阿礼神社がある。
下乗の立札の隣に龍の湧水があり、その奥にいぼ神様の石灯籠が建っている。坂上田村麻呂が、蝦夷征伐のため東北遠征の際、戦勝を祈願したとか、木曽義仲も尊崇したとかいう話もある。拝殿の前には、ちょっと変わった狛犬が立っている。
塩尻東小学校の校門の脇に 「是より中山道塩尻宿」 の石柱が建っており、校門前の枡形が塩尻宿の京口(西口)である。その先の黒塀の間に男女双体道祖神が安置されている。

堀内家住宅 石碑群 塩尻橋 大門神社
黒塀に沿って進むと堀内家住宅の門があり、庭先に入ることができる
堀内家住宅は、国重要文化財となっており、旧掘ノ内村の名主を勤めた豪農である。雀踊りの棟飾りをあげた本棟造の中では、大型上質の家であり、この系統民家の一頂点を示すものとして価値が高いとのことである。
先に進むと国道153号線に突き当たる手前の左側角地に、蠶玉大神、秋葉大神、庚申塔、道祖神、南無妙法蓮華経題目碑の5基の石碑が建っている。 国道153号線を横断して飯田犬猫病院の看板の左脇を通って進むと、田川の土手に突当るので、右折して国道153号線の田川に架かる塩尻橋を渡っていく。 国道153号線を進み下大門交差点で左手の県道305号線を入って行くと、ほどなく右手に大門神社がある。境内からは、銅鐸が発掘され、「柴宮銅鐸出土の地」 と刻まれた石碑が建っている。また樹齢300年を越えた3本の大ケヤキが立っている。

耳塚神社 カネホン酒店 JRガード 平出一里塚
大門神社の先、街道右側に耳塚神社があり、武田信玄と小笠原長時との戦い(桔梗ケ原の戦い)の戦死者を弔ったと言われている。祠の中を覗くとたくさんの皿が奉納されており、耳の形の皿や椀を奉納すると耳の聞こえが良くなると言われている
少し進むと街道右手に双体道祖神が建っている。
街道を進むと左側に曲尺の中に本と書いた屋号を掲げたカネホン酒店がある。扱っているのは、笑亀純米吟醸、笑亀手造り純米酒、笑亀酒粕、 笑亀仕込み水とのことである。 更に進むと街道はJR中央線のガード下をくぐって行く。ガードの先で歩道は道路より一段高い所を通り、直ぐ先で下に降りる。 県道305号線を進むと右手に昭和電工の事業所があり、道路に沿ってメタセコイヤの並木が続き、その先の平出遺跡交差点に平出一里塚の松が立っている。南側はレタス畑が広がっている。ここは江戸日本橋から数えて59里目の一里塚跡であり、両塚とも残っている。写真は南側の塚である。

平出遺跡 第一中山道踏切 真田園
一里塚の先、街道左側に平出遺跡があり、古墳時代(約1300年前)の竪穴式住居が復元されている。
高床式住宅もあり、子供たちが中に入って遊んでいた。
第一中山道踏切の手前で後ろを振り返ってみるとブドウ畑とたレタス畑が広がっている。 キドワイナリーを過ぎて中山道一里塚交差点にあるブドウの真田園で本日は終了である。ここから本日宿泊する塩尻駅のあさひ館まではタクシーで戻ることになった。

平成26年9月15日(月) ☀  塩尻~奈良井   23.3㎞
昨夜の宿は塩尻駅近くのあさひ館という宿で、ここはTVTOKYOの土曜スペシャル 「街道歩き旅中山道110キロ下諏訪~馬籠」 の際に金山一彦氏が宿泊した宿であった。昨日、塩尻峠で出会ったご夫婦も宿泊されており偶然とはいえお互いに驚きであった。
本日は、薄曇りの天気で歩くにはちょうどいい感じである。

あさひ館 国道19号線 旧道 雀踊りの棟飾りの旧家
大きな宿ではないが、部屋はかなり広く快適な一夜を過ごすことができた。
今朝は涼しい風も吹いており、歩くには絶好の天気である。
昨日の続きで真田園前の中山道一里塚交差点で国道19号線を横切り、僅かに残る旧道を通って国道19号線を進んでいく。国道沿いのレタス畑では、既に収穫作業が行われていた。 食事厨房弁慶の先で左に旧道があり、コスモ石油の裏を通って行くと平出歴史公園交差点で右手から回り込んで来た国道19号線を渡り、県道304号線に入って行く 県道304号線を進むと畑の奥に雀踊りの棟飾りを付けた本棟造りの旧家が建っている。後ろの山と調和の取れた実に趣のある建物である。

肘掛松 分去れの常夜燈 追分道標 あふた(邂逅)の清水
旧家を過ぎると下り坂(相生坂)となり、右手前方に松の木が見えてくる。この松は、「洗馬の肱松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」 と唄われた赤松の名木があったところであり、標柱が立っている。
細川幽斎が 「肱懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う河風」 と詠んだと伝えられており、松の根元に細川幽斎肘掛松と刻まれた石碑が建っている。また、二代将軍秀忠が上洛の際、肘をかけて休んだという説もある。
肘掛松跡の標柱の先、ガードレールの手前を右に下りる旧道がある。
ここを下りて行くと右手に天照皇大神宮と刻まれた常夜燈が建っている。この常夜燈は、安政4年(1857)の建立で洗馬宿を行き交う旅人の目印になっていた。
この道標は、昭和7年(1932)4月6日の 「洗馬の大火」 以後右側の新道が開通した際に常夜燈付近にあったものを移設したものである。
道標には、「右中山道、左北国往還 善光寺道」 と刻まれている。
道標の後ろには、道祖神、南無阿弥陀仏碑、庚申塔が数基建っている。
追分道標の先右手に 「あふたの清水」 の標柱が立っており、民家の脇を通って行くと下に降りる階段があり、斜面の中ほどに清水が湧きだしている。
この邂逅の清水は、木曽義仲が挙兵の際、今井から出迎えた今井兼平と邂逅した(出会った)所と言われ、ここで兼平が義仲の馬を洗うと、馬はたちまち元気を回復したので洗馬というようになったと伝えられている。

洗馬宿本陣跡 荷物貫目改所跡 洗馬宿脇本陣跡 萬福寺
邂逅の清水入口から100mほど先の街道左側に洗馬宿本陣跡がある。
洗馬宿は慶長19年(1614)中山道が牛首峠越えから塩尻峠越えに変更となった時、中山道と北国脇往還(善光寺街道)との分去れの宿場として新設された計画集落である。
洗馬宿本陣の庭園は「善光寺道名所図会」の中で、「中山道に稀な」と評された庭園だったが、
明治42年鉄道の開通によって洗馬駅の敷地となり失われた。
本陣の先には荷物貫目改(かんめあらため)所跡がある。荷物の目方を検査する役所で、問屋場と併設されてた。
中山道では洗馬・板橋・追分の3宿に置かれ、規定の重量を越えた荷物に増賃金を徴収するなど、伝馬役に過重な負担がかからないようにした。この建物は、明治の一時期、洗馬学校に利用された。
荷目貫目改所跡の先には、洗馬宿脇本陣跡がある。この脇本陣跡も鉄道用地となり、失われてしまった。
生垣の中には、明治天皇御駐輦之處碑が建っている。
この場所は朝7時に歩いていたが、近くの民家から男性が出てきて 「洗馬宿ふるさとガイド」 の印刷物を持て来て洗馬宿の解説をしてくれた。有難うございました。
街道右手に朱塗りの山門の真宗大谷派聖徳山萬福寺がある。
小さなお寺で境内には、鐘楼があるのみで石碑石仏などは見当たらなかった。

洗馬神明宮 高札場跡 言成地蔵尊 滝神社入口
街道左手の林の前に鳥居が見えるので行ってみると線路の先に鳥居があった。鳥居の先は急な階段になっており、階段を上がったところに二の鳥居がある。ここで行われる大神楽は市無形文化財になっているそうである。境内には、弘化3年(1846)の石灯籠と宗賀招魂宮、住吉社、天満宮、津島社などの境内社がある。この境内からは洗馬宿が見下ろせる。 洗馬神明宮から街道に戻ると左手に広場があり、街道に面して高札場跡の立札が建っている。
この一角には芭蕉句碑も建っている。句碑には、「入梅はれのわたくし雨や雲ちきれ」 と刻まれている。
街道を枡形に左に曲がると左上段へ上がる道があり、言成地蔵尊入口の標柱がある。坂道を上がり尾沢踏切を渡ると、右手上段に地蔵堂がある。参道石段脇には庚申塔、南無阿弥陀仏名号碑などがある。
地蔵堂には、たくさんの千羽鶴が奉納されており、階段は靴を脱いで上がるようになっているが、靴を脱がなくともいいように長いしゃもじ状の賽銭入れが用意されていた。
言成地蔵尊から街道に戻って中央線のガード下をくぐって進むと、左手林の中に滝神社入口がある。入口から500mほど鬱蒼とした林の道を進むと、左手に流れる尾沢川の清流が小さな滝を作っており、その脇に滝神社がある。社殿の周りには、秋葉大権現、養蚕守護神が祀られている。

牧野一里塚跡 蕎麦畑 本山宿入口 本山そばの里
滝神社から街道に戻ると左側の段上に牧野一里塚跡の標柱が立っている。
ここは江戸日本橋から数えて60里目の一里塚跡である。標柱の上の牧野公民館前には、南無阿弥陀仏名号碑、庚申塔、供養塔などたくさんの石碑石仏が安置されている。
牧野一里塚の坂道を上りきったところが牧野集落である。
集落を抜けると開けた田園地帯となり、右手には蕎麦の白い花が一面に広がっている。
先に進み牧野交差点で国道19号線に合流して、500~600m程進むと、右手の溜池前から分岐する旧道がある。旧道に入って直ぐ左側に 「中山道本山宿」 の標柱があり、隣に秋葉神社の小さな社と道祖神、庚申塔、南無阿弥陀仏碑、地蔵尊などが安置されている。 集落の中央辺りに池生神社社叢入口看板があり、その手前に本山そばの里の看板が立っている。看板を右に入ると蕎麦畑の奥にそば切り発祥と看板のあるお店があったが営業していなかった。ここは地元のお母さん方が経営するそば店でそば打ちや薬味のねぎや大根などもお母さん達の手作りということである。またここは本山宿の下木戸(江戸口)であった。

下社参道跡 俵屋 川口屋・池田屋・若松屋 本陣跡
街道左側の木の間に立札があり、「下社参道跡下社(諏訪社)は昭和26年に上社である八幡宮に合祀され、本山神社となった」 と記されている。
立札の後ろの石碑は、陸軍砲兵何某の供養碑である。
下社参道跡の隣は、俵屋の屋号の掛かる連子格子の旧家が建っている。この先の家には屋号が掛かっている。 街道を先に進むと右手に旧旅籠川口屋が屋号を掲げている。
次いで池田屋・若松屋が道筋に沿って食い違いに建っており、斜交屋敷と呼ばれ、食い違い部分に身を隠して敵を待ち伏せたとも言われている。この3軒は国の登録有形文化財に指定されている。
旧旅籠川口屋の向い側が小林本陣跡である。街道ら少し奥まった所にある雀踊りの棟飾りのある旧家の前には、明治天皇本山行在所跡碑が建っている。
街道沿いには、本山宿の説明板が建っている。

脇本陣跡 荒澤不動尊 本山神社 本山宿モニュメント
街道左側の消防団宗賀分団第二部の隣に本山宿碑と中山道石柱があり、脇本陣・上問屋跡の立札が立っている。
ここは問屋を兼ねた花村屋脇本陣跡である。ここでもゴミを出しに出てきた男性が本山宿について色々説明をしてくださった。有難うございました。
宿外れの段上に長久寺・定光寺跡があり敷地内には、荒澤不動尊が建っている。傍らには馬頭観音、庚申塔、念仏供養塔、南無阿弥陀仏碑などが安置されている。敷地の奥には、天満宮、忠魂碑、松田鉄弥先生頌徳碑、本山学校跡碑がある。 荒澤不動尊を出て跨道橋で国道19号線を跨いだ林の中に本山神社がある。本山神社は、下社(諏訪社)が昭和26年(1951)に上社である八幡宮に合祀されて、本山神社となったものである。 本山神社から街道に戻る際に良く見えるが、街道と国道19号線が合流する段上にモニュメントが建っている。

高札場跡 日出塩の青木 一里塚跡 長泉院
街道に戻ると左段上に高札場跡があり、秋葉大権現、秋葉常夜燈が建っている。秋葉大権現は、「火防の神様」 である。 国道19号線を進んで第2中山道踏切を渡り、㈱シンセイの裏をフェンスに沿って進むと日出塩の青木がある。
石柱には、「日出庄開闢祖 青木大神」 と刻まれている。
旧道を進むと左手に一里塚跡の標柱が立っている。
日出塩の一里塚跡で、標柱には 「江戸より六十一里 京へ七十一里 両側に榎を植えた」 と記されている。
街道左側に曹洞宗の長泉院が建っている。山門の手前には、庚申塔、六地蔵が安置されている。
長泉院の先に日出塩駅入口があり、ホームが少し見える。

道祖神 稲荷神社 熊野神社 崖道
日出塩駅を過ぎると街道左側に石碑が3基立っている。
一番大きいのが道祖神、次いで秋葉大権現、小さいのは筆塚である。
宿外れの林の中に赤い社が街道に背を向けて建っている。
回り込んでみると、狐が祀られた稲荷神社である。近くには石灯籠と池がある。
稲荷神社の先で集落が途切れ国道19号線のガードをくぐると左手に御岳公園の標柱があり、標柱から左の中央本線のガードをくぐると右側に熊野神社へ上がる階段が続いている。階段を上がって鳥居を2つくぐった先の段上に拝殿があり、奥に本殿と、その脇に秋葉社、愛宕社、津島社、蚕玉社、水神社などの境内社が建っている。本殿脇には文化7年(1810)の常夜燈が立っている。 街道に戻って進むと、右手の国道19号線の高架下を通る旧道がある。ここには中部北陸自然歩道道標があり、フェンスに沿って国道19号線の下をくぐると、その先で国道19号線に吸収される。国道19号線を進むと右手に中部北陸自然歩道の案内板があり、その脇に2基の石灯籠に挟まれた交通安全の地蔵尊がある。

木曽路の碑 旧道入口 馬頭観音 馬頭観音
「ようこそ木曽へ」 のモニュメントのカーブの先に大きな碑が建っており、県立長野図書館長を務めた乙部泉三郎氏の書で 「是より南 木曽路」 と刻まれている。
ここは木曽路の北の入口であり、碑の裏には 「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」 と刻まれている。
木曽路の碑の向かい側に山道に入る旧道入口がある。
山道に入って木の柵の脇を進み、杉の林を抜けたあたりの左手斜面に馬頭観音が立っている。
その先は落石防止のフェンスが続き、右側には奈良井川の流れが見える。
下り坂になって国道19号線が近づき、前方に民家が見えるあたりに社に入った馬頭観音と南無阿弥陀仏碑が建っている。
近くには廃道となったトンネルが残っており
、この先で国道19号線に合流する。

茶屋本陣跡 白山神社 庚申塔 旧片平村集落
国道19号線に出ると旧桜沢村の集落があり、街道右手に茶屋本陣跡がある。桜沢は立場茶屋であり、本陣は百瀬家が勤めた。ここには、明治天皇桜澤御小休所碑、明治天皇御駐輦跡碑、明治天皇桜澤御膳水碑が建っている。国道が左にカーブする辺りで奈良井川の片平ダムが良く見える。その先で片平橋を渡る。 片平橋を渡って進むと、直ぐ右側の斜面に階段があり、階段の上に赤い鳥居が見える。鳥居の隣には、明治22年建立の白山神社と刻まれた石碑が建っている。拝殿は石垣で組まれた段上に建っており、脇には境内社が4社ある。
白山神社から斜面を横に進んで行くと南側の鳥居があり、その先で国道19号線に下りていく。
白山神社から国道19号線に下りた右手の草地の奥に庚申塔が建っている。 国道19号線から右手に入る旧道を進むと出梁造りの旧家が残っている。

鶯着寺 庚申塔・道祖神 若神子一里塚跡 水場
旧片平村集落を抜けた右側高台に民家のような造りの飛梅山鶯着寺が建っている。石垣上には南無阿弥陀仏名号碑などがあり、境内には祠に納まった石仏と庚申塔がある。 鶯着寺の向かい側、国道19号線を渡ったところに貞享2年(1685)の庚申供養塔と男女双体道祖神が建っており、その裏の小高いところには、御嶽神社と摩利支天の石碑が建っている。 先に進むと国道19号線の右手段上に若神子一里塚跡の石碑と標柱が建っている。この一里塚は、江戸日本橋から数えて62里目であり、明治43年の中央本線の鉄道施設時に1基取り壊され、現存する1基も国道19号線の拡幅によって削られ僅かにのみである。 若神子一里塚の先で国道19号線から右に入る坂道があり、旧若神子村に入って行く。集落に入って直ぐ、水場があり、建物の梁には津島牛頭天王が祀られている。
この先にも同様な造りの水場があり、勢いよく水が流れている。

諏訪神社 石塔群 分岐 石塔群
若神子集落の外れに諏訪神社があり、鳥居の手前には常夜燈が建ち、その右手には、四国西国秩父坂東供養塔、光明眞言三百万遍・阿弥陀宝號八百万遍供養塔などが11基建っている。
鳥居をくぐると正面に倉庫があり、左奥に拝殿が建っている。拝殿の脇の手水舎は龍の口となっている。
諏訪神社を出ると街道左手の多目的集会所の前に道祖神・庚申塔・廿三夜待供養塔などの石塔群がある。 石塔群を過ぎて左にカーブした先でY字路となり、左の下の道は国道19号線に合流し、右の坂道が旧道である。
坂道を進んで行くと、再びY字路になるので左の杉木立の間の道を進んで行くと、旧道は国道19号線の段上を平行に走っている。やがて国道19号線への降り口の右手石垣の上に草道の旧道が見えてくる。ここには中部北陸自然歩道道標が建っている。
道標の先の左カーブのところに庚申塔、西国巡礼供養塔、道祖神、馬頭観音などの石碑石塔群がある。

草道 水場 贄川宿 清水稲荷神社
石碑石塔群の先は景色が開け、左側に国道19号線、その下に中央本線が走っている。旧道は、かなりの高所を通っており、石碑石塔群から400m程先で国道19号線に合流する。 しばらく国道19号線を進んでいくと、贄川駅の標識の先の右側に水場がある。二つの口からは勢いよく水が流れ、建物の梁には津島牛頭天王が祀られている。 水場の先の左側に贄川駅があり、贄川宿案内板が建っている。その先の左側に 「贄川宿」 のモニュメントが建っている。 贄川宿のモニュメントの先で右側に旧道があり、進んでいくと左にカーブする手前奥に赤い鳥居の清水稲荷神社がある。小さな神社で拝殿と本殿が一緒になった簡素な社が建っている。拝殿脇には小さな庚申塔がポツンと安置されている。

メロディー橋 贄川宿関所跡 水場 津島神社・秋葉神社
国道19号線から中央本線を跨ぐのがメロディー橋である。
橋の欄干に鉄パイプが下がっており、叩いていくと木曽節を奏でる仕組みとなっている。パイプの下には大名行列の透かし彫りが組み込まれている。
メロディー橋を渡った左側に屋根に石を載せた関所跡が復元されている。
贄川関所は、木曽谷の北関門として軍事的にも重要な役割を果たしていたが、明治2年福島関所と共に廃止され建物も廃止された。ここで木曽観光連盟作製の 「信州木曽路 中山道を歩く」 という小冊子を戴いたが、非常に良くできた案内地図である。
贄川宿に入って直ぐ右手に水場がある。
水源は三角屋根で覆われていて水の出口から先に覆屋が建っている状態である。
小屋の梁には神棚があり、良く見ると先程寄った清水稲荷神社の御札が祀られていた。
街道を進んでいくと右側に小さな鳥居があり、奥に津島神社と秋葉神社の小社がある。
左奥には麻衣廼神社の社標が建っており、国道19号線を渡った先に観音寺があり、麻衣廼神社はその奥にある。何れもちょっと距離があるので寄らずに先を急いだ。
直ぐ先には、老舗のまるはち漆器店が建っている。

津島神社・秋葉神社 深澤家住宅 枡形道路 トチの木
街道の先には再び津島神社・秋葉神社があり、傍らには道祖神、不動明王、水神が祀られている。神社の脇の青いトタン屋根は、水場の水源である。 水場の向かい側は、国重要文化財となっている深澤家住宅が建っている。
深澤家は、屋号を加納屋と称し、行商を中心とする商家を営み、文化年間には京・大阪にも販路を伸ばし、幕末には苗字を許されるなど贄川屈指の商人となったという
街道は緩やかに右にカーブし、漆器店のひのきやの先を右に折れる枡形道路がある。角には、防火水そうの標識が立ち、その脇に緑の 「中山道」 道標と 「中山道・トチの木」 の道標が立っている。
道なりに進むと水神碑があり、先で中央本線跨線橋を渡って、国道19号線に出る。
国道19号線の右手の斜面に樹齢1000年と推定される幹回10メートル以上のトチの木が立っている。
木の下の斜面には、トチの実がいっぱい落ちており、大きいものは果肉の中の固い実が直径4cm以上のものもあり、いくつか拾ってきた。

石碑石塔群 金網の道 庚申塔 津島神社
先に進むと国道19号線沿いのドライブイン食堂SSの先に石碑石塔群がある。
回国接待碑や道祖神、地蔵菩薩などである。石碑石塔群の先には、城取うるし工芸館が建っている。
街道左に大きな木曽路民芸館の看板があり、その先に中村漆器産業㈱がある。ここから国道には歩道が無く、段上の金網の道が国道に沿って通っている。
金網の道は170~180m先で突当り、左の金網階段で上って土道の旧道に合流する。
旧道を進むと右手の斜面に社が建っており、中を覗くと赤い布にくるまれた青面金剛の庚申塔が安置されている。
更に土道を下って行くと馬頭観世音菩薩が草むらに安置されている。その先には中山道碑が建っている。
中山道碑の先で小さな押込沢を越えると鳥居に 「素箋鳴尊 (スサノオノミコト)」 と書かれた津島神社がある。
鳥居の先には、小さな社と亀の甲羅のような石が安置されている。
神社の隣には、南無阿弥陀仏碑、庚申塔、馬頭観世音などの石碑群がある。

押込一里塚跡 旧道口 諏訪神社 二十三夜塔
先に進むと国道19号線に突き当たる手前に押込一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて63里目の一里塚跡である。一里塚碑の向かい側には、目印として植えられた松の木が立っている。この先は国道19号線に出て奈良井川を桃岡橋で渡る。
国道19号線を進んで行くと左側に旧長瀬村に入る旧道がある。
長瀬の集落は小さくて、長瀬集会所、水場を過ぎると再び国道19号線に合流する。
平沢北交差点から県道に入ると、左手に道の駅 「木曽ならかわ」 があり、その先で旧道は緩やかな上り坂となる。
趣のある漆器店吉久屋の前が塩尻市楢川支所で、その敷地内に芭蕉句碑があり、「送られつ をくりつ果ては 木曽の秋」 がある。その句碑の奥の砂利道を上って行くのが旧道で、上がり切ったところに諏訪神社があり、境内には庚申塔、御柱などがある。
諏訪神社から階段を下って県道に出ると斜面に二十三夜塔が建っている。
二十三夜塔の脇の案内板には、「”神に願かけ叶わぬならば二十三夜さまお立ち待ち”という民謡があるように下弦の遅い月の出を待ってこれを拝む風習があり宿(当番の家)に参集して飲酒談笑して月の出るまで待つのである云々」 と二十三夜の説明が記されている。

道標 漆器店 津島神社 橋戸の一里塚跡
諏訪神社から県道に合流する角地に道標が建っている。
苔が付いていて辛うじて中山道の文字が見える程度である。
木曽平沢の街道沿いは、重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、趣のある漆器店がたくさん並んでいる。 木曽平沢の外れに津島神社がある。
境内には道祖神、御嶽山三社大神、蠶魂神社が祀られており、角地には道標があり 「中山道 右漆器の町平沢 左奈良井宿」 と刻まれている。
旧道を進んで中央本線のガードをくぐり奈良川沿いの道を行くと、途中で対岸のゲートボール場へ渡る橋がある。
橋を渡ってゲートボール場の中を進んでいくと斜面に一里塚跡碑と一里塚の標柱が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて64里目の一里塚跡である。

奈良井川橋 奈良井宿 うなり石 専念寺
奈良井川を奈良井橋で渡り、その先で奈良井道踏切を越えて行くと奈良井宿へ入る。奈良井橋の袂には道標があり、「右奈良井宿 左国道」 と刻まれている。奈良井橋を渡った右側には、馬頭観音が建っている。 奈良井駅を過ぎると奈良井宿の家並みの始まりである。奈良井駅前には、大きな奈良井宿碑と案内板が建っている。 奈良井駅近くから右に上って行くと専念寺があり、寺に行く途中の上り坂に大きな 「うなり石」 がある。
その昔、この石が夜になるとうなりだすので、釘を打ち付けたがうなりが止まらないので、今度は酒をかけたらうならなくなったという伝説がある。石を見ると割れ目に釘を打ち付けた跡がある。
専念寺は、天文元年(1532)領主であった木曽義在により創建された浄土真宗の寺院である。本堂裏手には、本願寺の門跡の方などが休まれた部屋である 「御殿」 が復元されている。

八幡宮 二百観音 木曽の大橋 蕎麦屋
専念寺の裏手に八幡宮がある。
拝殿の中に本殿が納められており、拝殿に向かい合って舞屋が建てられている。八幡宮は、天正年間(1573-92)に奈良井地域の領主であった奈良井義高が、鬼門除けのため創建したと云われている。
八幡宮の参道石段の脇に江戸初期の中山道の杉並木が残っている。
八幡宮の奥に進むと小さな祠と沢山の石仏が安置されている。鉄道施設工事の際に周辺の石仏を集めたものである。
中央の祠の中には、地蔵尊が納められており、沢山の石仏の手前には、二十三夜塔、庚申塔、南無阿弥陀仏名号碑などが建っている。
奈良井駅の先で中央本線をくぐると奈良井川に架かる木曽の大橋がある。
この橋は、平成3年に奈良井川に架けられた総檜造りの橋であり、夜間はライトアップされる。
帰りの電車まで時間があったので、駅前の蕎麦屋で美味しい蕎麦をつまみに冷たい生ビールで喉を潤した。
店内は囲炉裏が中央にあって趣ある佇まいである。

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