中山道和田宿本陣は、文久元年(1861)3月の大火で焼失したが、同年11月の皇女和宮降嫁にそなえてただちに再建された。その後明治期に座敷棟は、丸子町龍願寺へ、また座敷棟の正面にあった御入門は丸子町向陽院へとそれぞれ移築された。ここに復元した御入門は、移築されている門の実測調査により作成した復元図に基づき、平成元年度、「潤いのあるまちづくり」 優良地方公共団体自治大臣表彰記念・村制施行100年記念事業の一環として、日本宝くじ協会の助成を受けて再建した。
 居室棟、冠木門は旧位置に復元したが、御入門は既に整備された道路の関係から、旧位置とは異なるこの場所に再建した。
 また、座敷棟については同じく敷地棟の関係から復元することはできなかった。
 (長和町教育委員会)

 和田宿本陣は和宮降嫁の年である文久元年(1861)の3月10日に、宿内の出火により他の多数の旅籠と共に焼失した。しかし、11月の和宮の宿泊のために、幕府よりの拝借金を得て、急ぎ再建された。
 本陣建物は大名などの宿泊に当てられる 「座敷棟」 と、本陣の所有者などが使用する 「主屋」 にわかれており、この建物は 「主屋」 当たる。明治維新まで本陣長井家が居住していた。明治12年(1879)に戸長役場にあてられ、その後和田村役場となり、昭和59年(1984)4月まで使用された。
 建物の規模は、間口12間(約21.6m)、奥行9間(約16.2m)の切妻平入り板葺きの建物で、正面外観は中二階を幅一間(約1.8m)出桁によって持ち出した出桁造りで、中山道本陣としての特徴をよく示している。
 和宮の宿泊に使用された 「座敷棟」 と、入口にあった 「御入門」 は明治年間に丸子町の龍願寺、向陽院にそれぞれ移築された。
 (和田村・長野県・文化庁)

本陣説明

本陣跡前の中山道和田宿碑

和田宿本陣御入門説明

主屋(居室棟)

御入門

主屋(居室棟)入口

庭内の歴史の道中山道標柱