竹内家は江戸時代初期の17世紀中頃より、酒造業と醤油の醸造を手掛け、長久保宿の役職も兼ねていました。
 明治45年(1912)の屋敷図には、1500坪余りの広大な敷地に、通りに面して母屋があり、その裏側に蔵や納屋が配置され、棟数合わせて14棟、総建坪491坪もあったことが記載されています。
 母屋は間口9間半、奥行き10間半の正方形に近い形となる切妻造りの平入で、屋根の端部には、妻壁を高く突出させ小屋根をつけた 「本うだつ」 がみられます。天井吹き抜けとなる土間や御勝手の規模は壮大で、太い柱や豪快な梁組が露出し、迫力ある大空間を作っています。
 構築年代は詳らかではありませんが、寛延2年(1749)の絵図面に記載されていることや、玄関先の最も古い享保16年(1731)の祈祷札に打ち換えた跡がなかったことから、これ以前に建てられていたものと考えられ、長野県内では最も古い町屋建築であるといわれています。
 また、竹内家には江戸時代初期からの古文書や、笠取峠立場絵図や長久保宿場札の版木も保存されていて、これらも町文化財に指定されています。
 (長和町教育委員会)

釜鳴屋竹内家住宅

竹内家住宅説明

本卯建が目立つ釜鳴屋