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中山道   (中軽井沢~立科)

中軽井沢から立科までは、沓掛宿、追分宿、小田井宿、岩村田宿、塩名田宿、八幡宿、望月宿、芦田宿とあり、約32kmの道程である。

平成26年7月21日(月) ☁/☀  中軽井沢~岩村田  14.6㎞
昨日碓氷峠で痛めた左足 (弁慶の泣き所) が腫れて内出血しているが、痛みがそれほど強くもなく岩村田までは平坦な道が続くので、昨日の続きを決行することとした。朝食を済ませて午前7時15分に宿を後にして、昨日終了した場所まで歩き、7時45分に街道歩きをスタートした。

ロッジ有明 脇本陣蔦屋跡 道祖神 石碑群
宿泊した宿から窓の外を見ると高山に来たかのような林の風景が望める。 中軽井沢交差点脇にある八十二銀行の駐車場に脇本陣蔦屋跡の石柱が建っている。 上田信金の先で旧道は左に入って行く。旧道に入って直ぐ右手の草むらに道祖神と刻まれた石碑と双体道祖神が安置されている。
旧道は林に囲まれてやや下りになる。下って行くと右手の林の前に判読できない石碑が建っている。
先に進むと右手の土手に二十三夜塔と数基の馬頭観音が建っている。この先緩やかな上り坂となり、民家の裏手に石祠が3基鎮座した神社がある。旧道脇には細い用水路があり、清らかな水が流れている。

秋葉神社 廃屋 馬頭観音 石塔群
緩やかな上り坂の右手に秋葉神社がある。
鳥居の先には小さな拝殿があり、社の脇には「阿夫梨大神 奥之社 前之社」 と刻まれた石碑と石祠がある。
秋葉神社の先、旧道左側に玄関だけが残っている廃屋がある。
玄関の手前の林の中には倒れかけた石碑があり、「百八十八番供養塔」 と刻まれている。近くには判読できない石碑や石仏が立っている。
国道18号線に合流する手前の林の土手に馬頭観音が3基建っており、その先林の中にも馬頭観音が建っている。
国道18号線との合流地点には、百八十八番供養塔の碑と庚申塔・馬頭観音が建っている。
この先、旧道は国道18号線の歩道を通って軽井沢バイパスの下をくぐって行く。

馬頭観音 女街道入口 遠近宮 家並み
軽井沢バイパスの下をくぐって直ぐ、国道18号線から左に入る道が旧道である。少し進むと左側に注連縄の巻かれた馬頭観音が建っている。 馬頭観音の向かい側には女街道入口の看板が立っている。
看板には、「江戸時代は入鉄砲に出女といって女人の出入りは厳重に取り締ったため、女人は関所を避けて裏街道を通るようになり、その道を女街道または姫街道と云った」 などと記されている。
遠近宮は伊勢物語の主人公として登場する在原業平が詠んだ和歌から、明和8年(1771)に建立した借宿村の神社に 「遠近宮」 と名付けたと言い伝えられている。
鳥居の前には文政7年(1824)の常夜燈が2基、境内には、御嶽山神社、三笠山大神、八海山大神の石碑、いくつかの石祠が建ち、中央に橋の架かった池がある。
遠近宮から先の借宿の家並みは、旧借宿村の面影を残している。

馬頭観音 追分そば茶屋 道標 一里塚
村はずれには、高さ4mの巨大な馬頭観音が建っている。
周囲には、明治、大正の馬頭観音、支柱に馬が彫られた石灯籠が建っている。
国道18号線に合流するところに追分そば茶屋が建っている。 追分そば茶屋の向かい側の木の下に 「従是左上州」 と刻まれた道標がある。
この少し先に溶岩で造った石垣の上に溶岩を重ねて石仏に見立てた面白い家がある。
国道18号線の追分交差点を過ぎたところに、江戸日本橋から数えて39番目の追分の一里塚が左右に残っている。

常夜燈 浅間神社(本殿) 芭蕉句碑 昇進橋
追分一里塚から右の旧道に入って右側に寛政2年(1790)の大きな常夜燈が建っている。
また、その先には文政元年(1818)の常夜燈が建っている。
常夜燈の脇から御影用水を渡って行くと浅間神社がある。
本殿は室町時代のもので、町内の木造建築としては最古のものである。
浅間大神遥拝の里宮で大山祇神と磐長姫神の二神が祀られている。境内には、追分節発祥の地碑、御嶽山座王大権現碑などがある。
浅間神社境内に芭蕉句碑があり、更科紀行中の句が刻まれ、芭蕉の100年忌にあたる寛政5年(1793)に佐久の春秋庵の俳人たちにより建立されたものである。
句碑には、「吹き飛ばす 石も浅間の 野分哉」 と刻まれている。
昇進川に架かる昇進橋を渡って行く。
この先には追分茶屋生成があり、街道脇には追分宿、馬子唄道中と書かれた提灯が延々と続いている。

追分本陣門 旅籠油屋 土屋本陣跡 高札場
堀辰雄文学記念館の門は、明治の末期ごろ追分本陣裏門を移築したものである。
堀辰雄は労咳(結核)を患い、ここを安住の地と定めたという。
掘辰雄文学記念館の先、右側に旅籠油屋(現旅館)がある。
かつての脇本陣跡である。
堀辰雄は、旅籠である油屋の 「つげの間」 で「風立ちぬ」 を執筆した。
石垣に旧本陣と標札がある。
ここは問屋を兼ねた土屋本陣跡である。
林の中には明治天皇追分行在所碑がある
昭和58年、当時の古文書等から、高札場を復元した。ここに掲示してある高札は、複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている。
追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあり法度、掟書きなどを記した。また、さらし首、重罪人の罪状を記し、高く掲げた版札を高札という。

諏訪神社 泉洞禅寺 茶屋つがるや 分去れの碑
高札場の先に諏訪神社があり、入り口に狛犬が鎮座し、拝殿の両脇には本殿と並んで左右に2つずつの社が並んでいる。
境内には、小林一茶の句碑があり、「有明や 浅間の霧が 膳をはふ」 と刻まれている。
このほか、石祠や石碑がたくさん並んでいる。
諏訪神社の先には、今から約410年前、慶長3年(1598)に上州常林寺第5世・心庵宗祥禅師によって開創された泉洞寺がある。
山門前には庚申塔、六地蔵尊など石碑石仏があり、境内には牡丹地蔵、ユニークな六地蔵、カーリングを模した地蔵などがある。
国道18号線と合流するとlころに 「つがるや」 が建っている。
寛永12年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿場内には問屋、本陣、脇本陣を設置し、宿の西入口、この辺に枡形の道と土手(高さ約2.5m)を築いて宿内の警備取締りをした。当時枡形の地域内にあって茶屋つがるや (枡形の茶屋) の建築にその昔を偲ぶことができる。
国道18号線沿いに常夜燈が建ち、分去れの碑が建っている。碑には 「右、従是北国街道 左、従是中山道」 と刻まれている。
中山道と北国街道分岐点に位置する 「分去れ」 は、今も賑わったありし日の面影をとどめている。
また森羅亭万象歌碑には、「世の中は ありのままにぞ 霰ふる かしましとだに 心とめねば」 という歌と、「是より左伊勢」 が刻まれている。

中山道69次資料館 千ヶ滝湯川用水温水路 交通安全観音 大山神社
分去れの碑の先で国道18号線から左に入る旧道がある。旧道に入って直ぐ右側に中山道69次資料館が建っている。
資料館の敷地内にミニ中山道が再現されており、日本橋から京都までの街道が坪庭のようになっていて歩くことができる。
資料館前の道路脇には、御影用水が流れている。近くの畑にはレタスの芽が出ていた。
旧道を少し進むと左側に池が見える。
ここは、冷たい雪解け水を稲作に適した水温に上げる為の人工池である。池の横の旧道脇には、水利改良事業の竣工記念碑と水神祠が建っている。
ここから御代田に入る。

御代田に入って右からの道路と合流する角地に交通安全の御代田観音が建っている。ここは薬師堂の跡地だという。
街道脇には畑が多く、葉野菜が青々としている。
車の往来のない旧道を進むと右側の林に大山神社の鳥居が見える。
旧道から石段を上がって鳥居をくぐると右側に注連縄が巻かれた馬頭観音、道祖神など石碑石仏が並んでいる。

御代田の一里塚 馬頭観音 石碑群 小田井宿入口
街道右側の畑の中に大きな枝垂桜の木が見えるが、これが御代田の一里塚で日本橋から41番目の一里塚である。
写真は西塚で、東塚は旧道に近い畑の中にあり、旧街道は両塚の間を通っていたことが分かる。
一里塚の直ぐ先、街道脇に馬頭観音などの石碑が6基建っている。
緩やかな下り坂となった街道には、立派な黒塀の家があったり、お花畑になっているところもある。
しなの鉄道にぶつかる手前の街道右側に御岳山座王大権現などの石碑群がある。
この先旧街道は、しなの鉄道を越えるため地下道をくぐって栄町交差点に出る。
お腹も空いたので栄町交差点の 「そば処なかや」 でざる蕎麦を食べ暫し休憩した。
旧街道を暫く進み、県道37号線を越えたところに小田井宿入口の標柱が建っている。
標柱には、「江戸から数えて22次、江戸から40里14丁の距離にあり、追分宿、岩村田宿の間の比較的こじんまりとした宿場で、婦女子が多く泊まったことから別名を 「姫の宿」 ともいう」 と書かれている。
ここには道祖神、筆塚がある。

長倉諏訪神社 案内板 宝珠院 寺用水の升石
小田井宿に入って直ぐ、右側に長倉諏訪神社がある。
赤い鳥居をくぐって階段を上ると二の鳥居があり、正面に拝殿がある。
境内には、石の祠がたくさんあり、庚申塔や道祖神も建っている。
また車馬舎があり、中にわらで作った馬が二頭安置されている。
街道に戻ると案内板が設置されていて、小田井宿の歴史や地図が記されている。
直ぐ近くには東屋が建っていて休憩することができる。
案内板から程なく街道を横切る細い道があるので、左に入っていくと宝珠院がある。
入口には馬頭観音などの石碑が並んでおり、境内には町指定天然記念物のアカマツがあり、その奥には推定樹齢300年の枝垂れ桜があり、枝の下には大般若供養塔などの石碑が並んでいる。
宝珠院の境内にある寺用水の升石である。
水分量を一定に規制するために取り入れ口に布設したもので、石に開けられた穴の大きさは一合升の大きさである。

安川本陣跡 上問屋跡 脇本陣跡 下問屋跡
宝珠院から街道に戻ると直ぐ右手に安川家本陣跡がある。
安川家文書では、宝暦6年(1756)に大規模改修が行われたと記されており、その際の建築のまま残された客室部を良好に残している。
また厠と湯殿は文久元年(1861)の和宮降嫁の際に修築されたものである。
安川本陣跡の先に上問屋跡がある。
安川家が務めたもので標柱には、天保2年(1831)道中奉行に差し出した図面とほぼ変わらない旧状を呈し、荷置場、帳場、客室部、厠、土間などがよく保存されていると記されている。
上問屋跡の先の左側には、脇本陣跡の標柱が建っている。
標柱には、脇本陣は、すはま屋又左衛門宅が承っていたが、建物は現存していない。しかし、文久元年(1861)の屋敷図は現存しており、その間取りを窺い知ることができると記されている。
街道脇には、旅籠風の旧家が並びバス停も瓦葺で回りの建物に溶け込んでいる。
小田井郵便局の先が下問屋場跡で、尾台家が勤めた。
標柱には、明和9年(1772)の大火以降のもので、切妻造り、屋根は元板葺石置、三室続きの客室を備えた良質の建物である。荷置場と問屋場には門の左右の建物を使用したと記されている。下問屋の先の右手に中山道小田井宿跡の道標があり、右に入ると馬頭観音、二十三夜塔などの石碑群がある。

白山比咩神社 皎月原 鵜縄沢端一里塚 石碑群
小田井下宿バス停を過ぎると、街道右側に白山比咩(しらやまひめ)神社がある。
鳥居には、国威宣揚、武運長久の文字が刻まれ、境内には道祖神や石祠などがある。
神社から少し進むと信号のある十字路があり、その先の左側土手に道祖神などの石碑群があるが、ちょうど土手の修理をしており土手奥に退避していた。
旧道が右からの県道9号線と合流して間もなく右手に松が2本あり、その奥が皎月原である。
用明天皇時代(586)に皎月という官女がおり、自らを白山大権現というようになり、時々小田井の原へ来て馬の輪乗りをし、その跡には草が生えなかったので、その所を皎月の輪と呼ぶようになったと伝えられている。
敷地内には、石の祠、皎月歌碑がある。
リフォームナカヤマの向かい側に一里塚跡がある。
この一里塚は、江戸日本橋から数えて42番目の一里塚であり、慶長年間(1596~1614)中山道開通当初に設置されたものである。
食肉センター交差点を過ぎ、上信越自動車道を岩村田橋で渡って行くと左側の林の角に千手観音、馬頭観音などの石碑がある。

住吉神社 善光寺街道道標 龍雲寺 霊廟
街道が緩く左にカーブする左側に住吉神社がある。
境内には、御嶽山座王大権現、清瀧不動明王、二十三夜塔、摩利支天尊、庚申塔、道祖神などの石碑、享和2年(1802)の石灯籠がある。また推定樹齢400年のケヤキがあり、裏に回ると中は空洞になっている。
住吉神社境内に上がる階段の右側には、交通事故で折れた享保20年(1735)の善光寺道道標が移設されている。
平成8年5月12日に交通事故で破損したため、街道の元の位置にはレプリカが建てられている。
住吉町交差点を過ぎると左側に曹洞宗大田山龍雲寺がある
鎌倉時代の初め、地頭大井氏(甲斐源氏)の菩提寺として創建された。しかし、その後戦火のため荒れ果て、位置も現在へ移った。
武田信玄が信濃の経略が一段落した永禄3年(1560)中興開基となり、北高全祝禅師を迎えて興隆をはかった。
龍雲寺にある霊廟で、昭和6年に境内から信玄の遺骨と副葬品とみられる品々が発見され、この霊廟に安置されている。
また、霊廟の近くの信玄の遺骨が発見された場所には塔が建てられている。惣門には正親町天皇の勅額 「東山法窟」 が掛かっている。

神明神社 西念寺 内藤正国の墓 道標
龍雲寺を過ぎると街道の右側に民家の脇を通る細い参道があり、奥に神明神社がある。
境内には、天保14年(1843)の石灯籠、道祖神、三宝荒神社がある。
岩村田交差点を越えると街道の右側に西念寺がある。
弘治元年(1555年)に閻魔大王などを奉る十王堂で岌往上人は浄土宗の布教をはじめ西念寺を開山した。
境内には江戸中期の国学者、吉沢好謙の墓と句碑がある。楼門は12本の柱の上に建っており、鐘楼も変わった作りである。
本尊の阿弥陀如来座像は、県宝に指定されている。
西念寺の山門向かい側に岩村田五代藩主内藤正国の墓がある。
仙石家の領地岩村田も元禄16年(1703)には内藤公が岩村田藩主として着かれ、西念寺を菩提寺に定めている。
相生町交差点に道標が立っており、この先佐久甲州街道とある。
中山道は、ここを右折して直進するが、佐久甲州街道は西宮神社の少し先を左折して行くことなる。

西宮神社 曲口神社 御嶽神社 相生の松
街道は相生町交差点を右折することになるが、右折した右手に西宮神社がある。
居の前に文政12年(1829)の御神燈が建ち、右の御神燈の前には、双体道祖神と男性の象徴をかたどった金精様、左の御神燈の前には道祖神の石碑がある。
西宮神社の先、街道右側の民家の塀の前に道祖神が3基並んでいる。
街道を進んで前方に小海線の踏切が見えるところで、街道左側に石碑があり、曲口(しゃぐち)神社と刻まれている。
正式には下曲口(しもしゃぐち)神社と言うそうである。江戸側の岩村田宿の前に上曲口神社があるというが、いずれも神社といっても、石碑のみとのことである。
小海線を渡るとY字路になり、右側を進むと左手に御嶽神社がある。
境内には、妙見尊碑、庚申塔、月神尊碑、保食神社などの石碑と石祠がある。
浅間総合病院を左に見て、旧道が右にカーブする突当りに相生の松がある。
文久元年(1861)の皇女和宮降嫁のおり、ここで休憩し野点を行ったという。和宮の休んだ松は枯れ、現在の松は三代目で手前に和宮の休んだ二代目の松の切り株が残されている。
今日はここまでとし、浅間病院西交差点から800mほど歩いてJR佐久平駅へと向かった。

平成26年7月23日(水) ☀  岩村田~立科   17.1㎞
7月20日に碓氷峠で打撲した足を近くの病院で診てもらったところ骨に異常はないが、腫れが引いて内出血が消えるまで2~3週間掛かるとのことであったが、さほど痛みがないので一昨日の続きを歩くこととした。

石碑 荘山稲荷神社 斎燈 林稲荷神社
浅間病院西交差点から県道154号線を進むと右手に半鐘櫓があり、その根元に石碑が2つ建っている。
一つは水神大神と刻まれ、もう一つは砂田用水改修記念碑である。
中部横断自動車道に突き当たる手前右側の水田の奥に荘山(かがりやま)稲荷神社がある。境内には、赤一色の拝殿があり、中を覗いてみると社が中央にあり、両脇に狐が鎮座し、拝殿の奥に保食神と書かれている。
また芭蕉句碑があり、「野を横に 馬引きむけよ 郭公(ホトトギス)」 と刻まれている。
中部横断自動車道の下ををくぐって程なく右手に水路に沿った細い道があり、石灯篭が見える。
近くで見ると文化9年(1812)の斎燈である。斎燈とは、神仏の灯明としてたく柴(しば)のかがり火をいう。
一帯には、石仏、石塔、廿三塔が建っている。
半鐘櫓の少し手前の民家の間を入ると赤い鳥居の林稲荷神社がある。
境内には、大石の上に社があり、枯れた欅の大木の脇に石祠が一つある。ほとんど民家の庭先といったところである。

百万遍供養塔 諏訪神社 石碑 妙楽寺
旧街道の正面に大きな木が見えてくと左手土手の上に百万遍供養塔が建っており、その先の木の下には墓石と思われる石塔が立っている。 旧街道の左右には田畑が広がり、やがてY字路に突当るので右側を進むと程なく右手に諏訪神社がある。
鳥居をくぐると正面に拝殿があり、奥に本殿がある。
拝殿の左側には、境内社の御嶽山の鳥居が立ち、鳥居をくぐると御嶽山座王大権現をはじめ天照皇大神、保食大神などたくさんの石碑がある。
諏訪神社の先は街道に沿って用水路が続き、家並みが途切れて水田が広がると左手に大きな石碑が立っている。
大きな石碑は判読できないが記念碑であり、小さなものは庚申塔である。
暫く田園地帯を進むと前方に3階建て一部4階建ての塚原クリニックの建物が見えてくる。
その手前左側に妙楽寺の参道があり、入って行くと右手に本堂がある。妙楽寺は、貞観8年(866)官寺として建立され、若い修行僧の学問寺であったという。
境内には、六地蔵、聖徳太子像、観音菩薩像が建ち、鐘楼がある

駒形神社 塩名田宿江戸口 屋号 本陣跡
妙楽寺を過ぎるとY字路になるので左側に入って行く。下り坂の右手に駒形神社がある。
神社への参道は橋になっていて、小さな川を渡り階段を上ると左側に拝殿がある。
本殿は、文明18年(1486)に再建されており、国指定の重要文化財となっている。本殿には騎乗の男女二神像が祭神として祀られており、牧に関連した神社と推定されている。
境内には、道祖神、猿田彦大神、元禄9年(1696)の石灯籠がある。
駒形神社からは緑の木々に囲まれた下り坂が続き、程なく住宅地となり五叉路の塩名田交差点に出る。
交差点脇には、中山道塩名田宿の標柱が建っており、ここが塩名田宿の江戸口である。
宿内に入ると各家には、屋号が掲げられている。塩名田宿は、江戸から43里13丁、23番目の宿場である。千曲川を前に望月の前に一宿必要として慶長7年(1602)に開設した。
街道を進むと右手に問屋を兼ねた丸山新左衛門本陣跡がある。
問屋新左衛門・文左衛門、名主彦兵衛、本陣新左衛門・善平衛、脇本陣文左衛門で丸山氏の同族が主に務めた。寛政12年(1800)の宿内総家数は126軒である。問屋・本陣新左衛門家は宿のほぼ中央にあり、宝暦6年(1756)に再建されたが、現在は御殿部分が改装した住宅になった。

高札場跡 佐藤家 中津小学校跡 旧道入口
本陣跡の隣に高札場跡がある。江戸時代は、宿の街道筋の真中を塩名田用水が西から東へ流れていて、高札場が用水路を跨いで設けられていた。ここには五枚の高札があり内容的には、宿継ぎの人馬賃銭、親子兄弟間の道徳、毒薬偽薬などが掲げられていた。 佐藤家(半左衛門)は、塩名田宿で最も古式の町屋の様式を伝えている。
天保2年(1831)正月 「家別間数改帳」 によると、間口七間半、入側四畳、上段の間八畳、中の間十畳、下の間十畳、小座敷九畳、茶の間十七畳、見世九畳、料理の間四畳半、土間二十一坪という。
佐藤家の先、左側の奥まったところに中津小学校跡が保存されている。
校門柱の奥に二宮尊徳の像と中津小学校跡の石碑がある。
千曲川に近づくと旧道は右の坂を下って行き、枡形道路になっている。
河原の方に下りたところは、「河原宿」 と呼ばれていた。

瀧大明神社跡 角屋 千曲川岸 舟つなぎ石
坂を下った左手に東屋があり、土手沿いの朽ちたケヤキの大木の根元から水が流れ出ている。
江戸時代中山道を往来する旅人の喉を潤したものである。
脇には天保10年(1839)の十九夜塔と明治40年頃の道祖神が建っている。
東屋の先に三階建ての角屋がある。
ここ河原宿には、所々に情緒豊かな三階建て住居がある。
角屋から先、通称 「お滝通り」 を進むと川魚料理竹廻家の先で千曲川に突き当たるので、ここを左折して行く。 明治6年(1873)に千曲川に船橋 (九艘の舟をつないで、その上に板を架け渡して橋としたもの)が架けられて渡川を確保したのである。
舟つなぎ石は、その船橋の舟をつなぎとめたもので、上部に穴があけられている。

千曲川 御馬寄 大圓寺 大日如来像
中津橋歩道橋を通って千曲川を渡る。
写真は千曲川の上流を望んだものである。
中津橋を渡ると 「御馬寄と呼ばれる集落である。御馬寄の名は古代に馬を集める牧場があったからだという。
ここからは緩い上り坂となる。
中津橋を越え御馬寄の緩い坂道を上って行くと右側の半鐘櫓の奥に浄土宗大圓寺がある。
境内左手に社があり、首のない地蔵尊が立っている。社の周りには、南無阿弥陀仏と刻まれた石碑、石仏、天明3年(1783)の庚申塔などがある。本堂の前には改修前の鬼瓦が保存されている。
道は更に上り坂となる。
坂を上ると左手に林が見え、前方に歩道橋がある。歩道橋の右手に旧道が残っている。
この旧道を進むと右手の丘の上に一対の石灯籠の奥に明和8年(1771)の大日如来像がある。
左隣には、芭蕉句碑が建っており、「涼しさや 直ぐに野松の 枝の形」 と刻まれている。

一里塚跡 御井大神 伊勢宮 観世音菩薩碑
旧道から国道に合流して佐久川西自動車学校の向かいに一里塚の標柱が立っている。
ここは御馬寄の一里塚で江戸日本橋より数えて44番目の一里塚である。
真っ直ぐの道を進むと左手浅科商工会館の入口に御井大神と刻まれた碑が建っている。
脇には道祖神が2基建っている。
御井大神は、水霊水神、井戸水の神であり、安産と育児、生命の守護として古来多くの人々から深く信仰されている。
山本商店の手前のバス停の脇に鳥居があり、正面に伊勢宮の拝殿が見える。
鳥居の手前には、安政5年(1858)の石灯籠が建ち、鳥居の下には境界石がある。
拝殿の奥の本殿に当たるところは石祠が鎮座し、その後ろには御嶽山座王大権現の石碑と沢山の石祠が並んでいる。
拝殿脇には、英霊碑が建っている。
伊勢宮を過ぎてやや下り坂になるところの左手に文化5年(1808)の観世音菩薩の石碑が建っている。

生井大神 常泉寺 八幡神社 八幡神社随神門
観世音菩薩碑の先、左に水田が開けるところに生井大神が建っている。
脇には、文政11年(1828)の馬頭観音が建っている。
生井大神は、御井大神と同様、水霊水神で井戸水の神である。
左手に水田を見ながら下って行くと右側に常泉寺の標柱があり、参道の脇には一家三兵士の碑が建ち、父母と子供三名の名が刻まれている。
常泉寺は、明応2年(1493)の創立である。
山門左手には、三界萬霊塔などの石塔が建ち、境内には六地蔵、変わった石仏、篭柱に仏像が刻まれた石灯籠、寛永9年(1632)の大きな石灯籠がある。
常泉寺を過ぎて坂を下り、水路越えたところに八幡神社がある。.鳥居手前には、宝暦6年(1756)の御神燈が一対建ち、鳥居をくぐるとケヤキの大木が3本立っている。
天保14年(1843)に小諸藩主牧野遠江守康哉が大願主となり数百本の材木を寄進し造営された楼門である。
楼門の左右には、衣冠束帯に剣と弓矢を持った武官神像の随神がそれぞれ安置されている。

八幡神社拝殿 八幡神社旧本殿 八幡宿本陣跡 石仏
随神門をくぐり、その奥の瑞垣門をくぐると右手に拝殿と本殿がある。
本殿は囲いもなく彫刻を見ることができる。
拝殿に向かい合って厳島神社が浮島の上に鎮座している。瑞垣門の正面には、旧本殿があり、その裏手に諏訪神社がある。
本殿の裏手には、沢山の石祠、珍しい蛇の碑、御嶽山座王大権現などがある。
瑞垣門の正面の旧本殿は、延徳3年(1491)に建立されたもので、国指定の重要文化財となっている。
また、安永9年(1780)に奉納された県下最古といわれる算額を奉納した額殿がある。算額とは、和算家たちが問題とその解法を示した額である。
八幡中町交差点の手前に八幡宿本陣跡があり、本陣は小松家が勤めた。
この先、旧街道(国道142号線)は緩やかな上り坂となる。
上町公会場から右に旧道が残っており、入って行くと民家の庭先に石仏があり、お供え物があげられていた。
直ぐ先で旧街道(国道42号線)に合流する。

百沢の家並み 祝言道祖神 元禄の道標 村おこし道祖神
百沢東交差点の右手に旧道が残っており、右手には、のどかな山村風景が広がり、百沢集落の細い旧道には往時を偲ばせる家並みが並んでいる。 百沢集落の先の火の見櫓の下に道祖神が建っている。
長野県安曇地方で発生した道祖神で、宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像である。
発祥地安曇地方にも類例のない精緻な宮廷貴族風の造像である。
百沢集落を抜けて布施温泉入口交差点で国道142号線を渡り、県道150号線を進むと右手に道標があり、石柱の判読は難しいが、傍にある消えかけた看板をみると、「元禄11丑三月吉日 右仲仙道 左布施谷」 と刻まれているようである。 旧道を抜けると国道42号線に突当り、左折していくと右手に大きな道祖神がある。
村おこし道祖神で日本一と説明がある。
近くには、馬頭観音が2基建っている。

一里塚 百万遍念仏塔 旧道瓜生坂 長坂の石碑石仏群
国道142号線から山道を抜けると舗装道に出て左手に一里塚碑が建っている。
中山道爪生坂の南方の一里塚で、北方の一里塚は道路で削られているが、日本橋から数えて45番目の一里塚である。。
一里塚を過ぎると左手に瓜生坂の百万遍念仏塔と中山道瓜生坂碑が建っている。
百万遍念仏塔には、仏が2体浮き彫りされ、普門品一万巻 念仏百万遍塔と刻まれている。脇には顔の欠けた石像の彫られた大乗妙典供養塔も建っている。
百万遍念仏塔の裏から下って行く旧道があり、下りて行くと舗装道に出るところに上り用の標識が立っている。
舗装道を下るとY字分岐があり、旧道は右手の急坂(長坂)を下って行くと目の前に望月の街並みが見える。
長坂の旧道は狭く曲がりくねった急坂で、途中には、石尊大権現、大聖不動、普寛霊神、木食一心霊神、御岳山座王大権現、百万遍供養塔、馬頭観音、道祖神など多くの石碑群がまとめられている。

信永院 長坂橋 旅籠山城屋喜左衛門 井出野屋旅館
長坂を下って鹿曲川に突き当たると右手に曹洞宗の金峰山信永院がある。
信永院は、天文元年(1532)望月左衛門尉信永の開祖であり、荘源和尚の開山と言われている。
本堂前の根元から十数本の幹を出す珍しいカヤの大木は樹齢500年といわている。
鹿曲川を長坂橋で渡り、曲がりくねった坂道を上って行くと江戸から数えて25番目の望月宿に出る。
坂の途中には、寛政4年(1792)の頭上に馬頭のある馬頭観音が安置されている。
長坂橋から細く曲がりくねった坂道を上りきると島田屋旅館があり、ここを右折して望月宿に入る。
この先、しちや清水屋、大和屋呉服店の古い家並みがあり、T字路左に土蔵造りの佐久市消防団第20分団の建物を見て、その先、右手に江戸末期創業の旅籠山城屋喜左衛門があり、今でも旅館を開いている。
山城屋の向かい側には、大正時代建築の木造3階建ての洋館風で 「犬神家の一族」 の撮影に使われた井出野旅館がある。
ここの女中として登場していたのが坂口良子で、石坂浩二扮する金田一耕介が滞在する古びた旅館 「那須ホテル」 として登場している。

本陣跡 脇本陣跡 大和屋 大伴神社
望月宿の中間あたりに本陣跡があり、現在は歴史民俗資料館が建っている。
敷地内には、道祖神、馬つなぎ石、水割り場石、木樋などが展示されている。
民俗資料館の隣の大森小児科医院には、御本陣の看板が掛けられており、本陣を務めた大森家である。
本陣跡から直ぐ、斜め右手に鷹野家脇本陣跡がある。
江戸時代は問屋も兼ねており、2階がせり出した出桁造りで、出梁に木鼻彫刻が施されている。
脇本陣の直ぐ先、右手に望月宿最古の建物である大和屋の真山家住宅が建っている。
問屋と旅籠を兼ねていたという建物は、明和3年(1766)に建てられたもので、国の重要文化財となっている。
大和屋のやや先、街道の左側に大伴神社の鳥居が建っている。
鳥居の前には寛延元年(1748)の石灯籠、階段手前には寛延3年(1750)の石灯籠が建ち、現在の本殿は延宝5年(1677)の建築である。境内には、道祖神、庚申塔がたくさん安置されている

旧道 国道142号線ガード 道標 本牧小学校跡地
真っ直ぐの宿道を進んで行くと今井新聞店の先に右に上る旧道が残っている。
旧道に入ると写真の木の下に馬頭観音が3基建っている。
旧道はすぐに街道と合流し、用水路を越えて御桐谷西交差点の先で、再び左の急坂から旧道を上って行き、国道142号線ガードを越えて右折する。
坂の途中には、風化した石仏、延享2年(1745)の寒念仏供養塔がある。
旧道から県道148号線に合流すると間もなくY字路の角地の大きな石の中に道標が建っている。
道標には、「右御巡見道」 と刻まれている。「巡見道」とは、江戸幕府が諸藩を査察する目的で派遣した巡見使が歩いた道のことである。
御巡見道道標の先の左土手上には本牧小学校の跡地があり、校門柱、記念樹、校歌碑、卒業生が贈った日時計が残されていた。

道祖神・石仏 にごり池 茂田井宿入口
神明社
本牧小学校跡を過ぎると登り坂が続き、前方のこんもりした林の前に道祖神、合掌した石仏が建っている。この先は、切通の坂道である。 切通を抜けると右手に木々の間からにごり池が見えてくる。
農業用水の溜池である。
にごり池の先で県道148号線の右手に旧道があり、道標、説明書き、散策マップが建っている。
茂田井宿は、望月宿と芦田宿の間に位置し、間の宿 (あいのじゅく) と呼ばれている。坂を下って行くと江戸時代の面影を残す民家や造り酒屋が軒を連ねている。
旧道を下って行くと右側の斜面に神明宮の鳥居がある。
鳥居をくぐると正面に小さな拝殿があり、中に小さな社が安置されている。祭神は天照大神で、嘉永6年(1709)茂田井村初代名となった大澤茂右衛門が願主となり建立した。
境内には、宝暦2年(1752)の石灯籠が建っている。

武重酒造 若山牧水歌碑 古峰神社
大澤酒造
中山道宿場乃地酒造處の看板を掲げた武重本家酒造である。
武重酒造は、明治元年(1868)創業で酒造施設三十棟が国の登録有形文化財に指定されている。
施設を見学できるようになっている。
武重酒造の向かい側の川べりに若山牧水の歌碑が3首ある。

ちょっと宿から外れて県道148号線から延びる車道沿いの古峰神社へ寄ってみた。
明治20年代の茂田井を襲った大火を契機に建立された神社である。参道の鳥居は、住民が奉納したものである。
武重酒造の先に元禄2年(1689)創業の大澤酒造が軒を連ねている。大澤家は名主を務めており、ここも資料館、美術館がある。

高札場跡 馬頭観音 無量寺 高札場跡
大澤酒造の先の坂を上って行くと右手に茂田井宿の下組高札場跡がある。
家並みは、往時の姿を偲ばせるもので、街道脇に用水路があるのもいい。
無量寺の参道口には、大きな馬頭観音が前傾して建っている。 馬頭観音を左に入って行くと県道148号線から延びる車道を越えたところ天台宗比叡山延暦寺の末寺の来迎山無量寺がある、
階段脇に六地蔵尊が並び、境内には延宝3年(1675)の石灯籠、三界萬霊塔、二十山夜塔、念仏供養塔、沢山の石仏と五輪塔が並んでいる
旧道を上ってくると左手に茂田井宿の上組高札場跡がある。
茂田井宿は戸数が多く、上組、下組と二人の名主がいた時代があり、ここ上組名主宅前に高札場があった。

石割坂 茂田井の一里塚跡 芦田宿江戸口 道祖神
上組の高札場からは勾配がきつくなり、かつてここに大きな石があり交通に不便だったため、その石を割って中山道を開通させたので石割坂と呼ばれている。 石割坂を上り切ったところに茂田井の一里塚跡がある。
江戸日本橋より数えて、46番目の一里塚である。説明板に 「天保年間(1830~1843)の差出帳に、当時この両側に土塚があり、榎の根本が残っていた」 とある。
一里塚を過ぎると車道に合流し、芦田川を芦田川橋で渡り、中居交差点で芦田宿に入る。
交差点を渡ったところに双体道祖神が建っている。また交差点角の薪炭焼販売店には、「中山道股旅休憩所」 が設けられていて、一休みできる場所がある。
仲居宿に入ると古町口バス停に道祖神が建ち、その先塩崎堰を越えて下り坂ににも写真の道祖神が建っている。

蛇石様 本陣跡 本陣御殿(客室) 脇本陣跡
江戸時代末期頃から蛇石神社として、石を覆うような社があったとされ、戦前までは清水家のくるわで4月にお祭りを行っていた。
蛇石様は夜泣きの神様として、米をおひねりにお参りすると、乳呑児の夜泣きが治るとされた。現在は、まわりが2m以上ある大きな石のみが残され、石の真ん中には蛇が通った跡と思われる筋が残っている。
芦田中央交差点の手前に本陣跡の土屋家住宅が建っている。
本陣土屋家は、問屋を兼ね芦田宿の開祖でもあった。
本陣御殿(客室)は寛政12年(1800年)に再建されたもので、イチイの木を使った京風上段の間があり、大名の宿泊を今に伝える 「宿札」も残され、往時をそのまま伝える建物は、中山道唯一と言われている。 本陣の向かい側に脇本陣を務めた山浦家住宅が建っている。
脇本陣山浦家は、始祖が芦田宿開祖者の一人岩間忠助(1597)であり、中山道の宿泊施設及び問屋として役割を担っていた。

脇本陣跡 酢屋茂 金丸土屋旅館
芦田中央交差点の角にもう一軒の脇本陣跡の標柱が立っている。
庄屋跡の山浦家は慶長から明治年間に山浦権助によって建築されたと伝えられている。現在は建物の老朽化により取り壊され、跡地の奥には土蔵のみ残っている。
脇本陣跡の向かい側に酢の醸造から始まり、味噌・醤油を売っている。 芦田中央バス停の先に金丸土屋旅館が建っている。
文化元年(1804)頃より旅籠で、軒の西側に「津ちや」、東側に「土屋」の看板を掲げている。二階の部分が表通りに少し出ている出張造りで、腕木に彫刻、煙出しを持つ大屋根などの特徴がある。現在も旅館を営んでいる。
本日はここまでで、立科町役場前から千曲バスで佐久平に出て、帰宅することとした。

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