文久元年(1861)仁孝天皇の皇女和宮は第14代将軍徳川家茂へ嫁すため、中山道を通って江戸へ下った。
 京都発文久元年10月20日、江戸着同年11月15日。婚儀は翌文久2年2月11日であった。
 これはペリー来航以後、日々失墜していく幕府の権威回復と、反幕運動(尊王攘夷)に対するけん制、いわゆる公武合体運動の犠牲であったといわれる。
 京都から江戸へは、京都方1万人、江戸方1万5千人、計2万5千人の大行列であった。この他警備の諸藩士、馬士等数万人にのぼった。このため多数の人馬が信州一円から徴発され、大きな負担がかかった。
 和宮が輿の中からこの松並木を見て通ったのは文久元年11月8日であった。
 (立科町教育委員会)

皇女和宮東下の行列