樋橋村は、江戸時代(寛永11年)に誕生しました。中山道和田峠の登り口に立場茶屋として栄え、茶屋本陣があり大名、公家、幕府役人や一般の旅人が休んでいきました。
 文久元年(1861)11月6日、皇女和宮様がご降嫁の時、茶屋本陣でお休みになられました。茶屋本陣の 「御殿」 を改築し、お休みいただきましたが、その折、ご心境を詠まれた和歌を本陣に残されたと伝えられています。この時のお通りは4万人とも言われます。茶屋本陣跡は、昭和45年に下諏訪町文化財に指定されました。
 元治元年(1864)11月20日、水戸藩の尊攘派で天狗党と呼ばれた1000余人の一行が上京の途次通行し、幕命でこれを阻止するために高島藩・松本藩連合軍とが戦った 「和田嶺合戦」、樋橋戦争とも呼ばれた戦いがありました。
 明治15年(1882)から組長記録が残っていて、明治15年の樋橋は下諏訪村21番組と称し、戸数14戸でした。明治22年までは組長は伍長総代と呼ばれていました。明治18年、待ちに待った下諏訪学校樋橋派出所が新築されました。建築費は当時のお金で23円55銭、生徒は14人でした。
 明治37年樋橋から立った小松源太郎氏が初めて町議会議員に当選。
 大正2年9月24日、大火が発生し9戸が全焼してしまいました。このとき当時13歳だった小松良人氏は萩倉に知らせに走り、萩倉消防組が消火に駆けつけてくれました。大正12年には電灯線が配線され、ようやく電燈が灯りました。
 昭和14年に萩倉、樋橋、東俣が第6区となり、昭和16年の人口は89人でした。昭和26年に小松茂平氏空き家を買収して樋橋公会所とし、29年には公衆電話が開通しました。32年に上水道が完成。
 昭和30年代半ばから児童数が減少し、昭和37年3月樋橋分教場は77年の歴史に幕を下ろしました。
 その昔、樋橋の人々は養蚕・炭焼き・稲作で生計を立てていましたが、時代も変わり現在では農業人口も減り、国道や周辺も大きく変わっています。
 歴史ある公会所も老朽化が進みましたので、地元企業の皆さんの協力をいただき下諏訪町からの建設事業補助金を受ける中で、村の皆さんの協力のもと昔の姿を残しつつ、憩いの場として立派に改修ができました。
 樋橋は現在9戸25人が暮らしています。長い歴史が残るこの村をこれからも皆で力を合わせて守って行きたいと思います。 

 江戸時代のはじめ中山道は五街道の一つに指定されて幹道になり、宿駅の整備が行われ、その時、下諏訪・和田両宿間、5里18丁(約22㎞)の峠路に立場茶屋として造られた一つが、この樋橋で茶屋本陣小松嘉兵衛を中心に何軒かの茶屋が出来た。
 本陣には御殿とよぶ小建築があって、文久元年(1861)11月6日には、和宮様のお小休みがあった。
 元治元年11月には和田嶺合戦の戦場になるなど交通の要地なるがゆえの事件はたくさんあった。
 (下諏訪町教育委員会)

樋橋茶屋本陣跡説明

樋橋村の今昔

大正2年大火災前の樋橋村絵図

樋橋茶屋本陣跡碑

火の見櫓の左に旧道が残る

樋橋(とよはし)茶屋跡モニュメント