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日光御成道   (本郷追分~川口元郷


令和4年7月10日(日)   ☀|☁    本郷追分~川口元郷    11.0㎞
先月27日に関東甲信と東海・九州南部が梅雨明けしたとのことだが、その後、7月に入ってから戻り梅雨のような安定しない天気が続いている。そんな中、今日は何とか日差しがあるようなので、日光御成道を始めることとした。南北線の東大前駅を降りると、東京大学農学部正門前が日光御成道のスタート地点である。

追分一里塚跡 岩槻街道説明 追分尋常小学校跡 根津神社
東京大学農学部正門前の国道17号と県道455号が分岐する中央の高嶋屋酒店のところに追分一里塚跡がある。ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道最初の一里塚があった。18世紀中頃まで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影を留めるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。 追分から10m程先の左側歩道上に岩槻街道の説明板が建っている。この街道は、江戸の頃、将軍が日光東照宮にお参りする時に通る身であることから、「将軍御成道」 といわれ、重要な道路の一つであった。人形の町・岩槻に通じている道で 「岩槻街道」 という。 岩槻街道説明の直ぐ先左手の文京区立第六中学校に、追分尋常小学校跡、東京学芸大学附属追分小学校・中学校発祥の地、旧駒込追分町のそれぞれの説明が掲示されている。 文京区立第六中学校前から県道455号を横断して、東京大学農学部グラウンド前を通り、東へ向かう新坂を下ると、左手に根津神社がある。根津神社は、日本武尊が千駄木の地に創建したと伝えられている。当地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重の山手屋敷跡であり、後に六代将軍となる徳川家宣の誕生の地であった。鳥居の先には神橋があり、その先に国宝の楼門、唐門、拝殿、本殿がある。境内には、乙女稲荷、駒込稲荷のほか、つつじ苑がある。

正行寺 浩妙寺 浄心寺 天栄寺
街道に戻って先に進むと、左手に浄土宗の親縁山龍池院正行寺がある。正行寺は、慶長10年(1605)僧達道によって湯島に創建され、元和3年(1617)に当地に移転したと伝えられている。本尊は木造阿弥陀如来像で、境内には咳の病に霊験あらたかな 「とうがらし地蔵」 と呼ばれる座禅姿の石像がある。 正行寺の街道を挟んだ向かい側に、日蓮宗の覚性山浩妙寺がある。浩妙寺は、伊豆玉澤妙法華寺18世覚音院日遷上人を開山とし、浩妙院(下総高岡藩藩主井上政重の正室)が開基となり寛永5年(1628)に創建したと言われている。境内には、法華経を守護するという七面大明神を祀る七面堂がある。 浩妙寺を出て直ぐ先の向丘一丁目交差点を渡ると、右手に浄土宗の湯嶹山(とうとうざん)常光院浄心寺がある。浄心寺は、還蓮社到誉文喬和尚を開山とし、元和2年(1612)に湯島妻恋坂付近に創建され、その後、明暦の大火(振袖火事)により現在地に移転したという。本尊は阿弥陀如来像で、山門脇には大きな布袋尊が建ち、傍らには春日局ご愛祈の地蔵菩薩立像がある。 浄心寺の先にも多くの寺院があるが、先に進むと本駒込歩道橋の左手に浄土宗の地久山仙壽院天栄寺がある。天栄寺は、僧天輪が開山となり、元和3年(1617)に本郷菊坂に創建され、万治3年(1660)に当地へ移転したと言われている。門前には駒込土物店(つちものだな)跡があり、境内には駒込土物店縁起碑が建っている。

龍光寺 仙龍寺 定泉寺 南谷寺
天栄寺を出て次の左手筋を入って行くと、臨済宗東福寺派の天澤山龍光寺がある。龍光寺は、肥前唐津藩小笠原壱岐守忠知公、讃岐丸亀城主京極刑部少輔高和公ら幕閣の重臣が開基となり、寛永9年(1632)に創建され、明暦2年(1656)に当地へ移転したと伝えられている。墓所には、小笠原家、丸亀京極家の廟所のほか、侠客深見十左衛門、儒学者三宅観瀾、儒学者栗山潜鋒などの墓がある。 龍光寺山門の右手筋に仙龍寺寺標が建っており、この筋を50m程入ると臨済宗妙心寺派の瑞祥山仙龍寺がある。仙龍寺は、大雲禅師が開山で、台東区上野辺りに創建されていたという。江戸時代の住職智郷和尚は大石内蔵助の伯父であったことから、赤穂浪士の出入があったと言われている。本尊は阿弥陀如来坐像で、文京区指定有形文化財に指定されえている。 街道に戻って50m程進むと左手に浄土宗の東光山見性院定泉寺がある。定泉寺は、本郷弓町にあった太田道灌の矢場跡に蜂屋九郎次郎善遠が堂宇を建て、増上寺定誉隋波上人を開山として創建したと言われている。境内には、宝篋印塔の六阿弥陀仏、五重の層塔、夢現地蔵菩薩等がある。 続いて定泉寺から50m程先左手に天台宗の大聖山東朝院南谷寺がある。南谷寺は、比叡山南谷の万行律師が開山で、元和2年(1616)に創建したと言われている。境内には、江戸五色不動の一つである目赤不動尊があり、関東三十六不動第13番不動となっている。墓地に入れないが、墓地入口には如意輪観音や地蔵菩薩などの石造物がたくさんある。

養昌寺 吉祥寺 圓通寺 天祖神社
南谷寺の北側に隣接して曹洞宗の繁栄山福寿院養昌寺がある。養昌寺は、当初池之端に創建され、その後、寛永8年(1631)に本郷湯島天神台に移転し、天和3年(1683)に当地へ移転したという。境内には、樋口一葉の師として知られる半井桃水(なからいとうすい)の墓がある。 街道に戻って進むと、60m程先の右手に曹洞宗の諏訪山吉祥寺がある。吉祥寺は、太田道灌が江戸城築城の際、井戸を掘ったところ、「吉祥」 の金印が出てきたため、現在の和田倉門ところに一宇を設け 「吉祥寺」 と称したのが始まりという。境内には、経蔵、稲荷神社のほか、大仏、お七・吉三郎比翼塚、花供養塔、二宮尊徳の墓などがある。 街道に戻って100m程進むと、左手に臨済宗妙心寺派の金剛山圓通寺がある。圓通寺は、寛永7年(1630)海洲和尚に依ってお茶の水に創建され、明暦の大火により現在地へ移転したという。境内には、地蔵尊などの石仏で出来た供養塔があり、植栽は文京区の保護樹林に指定されている。 圓通寺を出ると街道右手筋に駒込総社天祖神社入口標柱があり、この筋を200m程進んだ突き当りに天祖神社がある。当社は、文治5年(1189)源頼朝が奥州藤原泰衡追討の途次、霊夢に感じ家臣藤九郎盛長に仰せ其所を探させたところ、老松に大麻がかかっており、その松の辺りに神明宮を建立したのが始まりと云われている。境内には、三社合祭社、稲荷神社の境内社のほか、鶴岡八幡宮碑、亀石などがある。

駒込名主屋敷 富士神社 六義園 駒込橋
天祖神社鳥居から北に向かう筋を20m程進むと、右手に駒込名主屋敷がある。ここ高木家は、慶長の頃、当時伝通院領であった駒込一帯の開拓を許可され、そのまま土着したという。薬医門形式の表門は宝永年間(1704-11)のものと伝えられ、家屋も宝永年間の創建と言われているが、火災に遭って享保2年(1717)に再建されたと伝えられている。 街道に戻って100m程先の富士神社入口交差点を右折すると、左手に富士神社がある。当社は、天平元年(1573)本郷村の名主が、現在の東京大学の地に駿河の富士浅間社を勧請したことに始まるという。寛永5年(1628)加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、現在地に移したという。拝殿は富士山に見立てた山の頂にあり、傍らに朱字で刻まれた石碑がたくさんある。 富士神社を出て不忍通り(都道437号)を渡ると、左手に六義園がある。六義園は、5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保の下屋敷で、そこに造成した庭園である。休園日は12月29日から1月1日までの年末年始のみで、午前9時から午後5時まで開園している。回遊式の築山泉水庭園は見ごたえがあるが、特に春の枝垂れ桜、秋の紅葉はライトアップされるなどで人気がある。 街道に戻り六義園の脇を通って進むと山手線に架かる駒込橋がある。駒込橋の西側からは山手線が見えるが、東側はJR駒込駅である。

大国神社 妙義坂 子育地蔵尊 妙義神社
駒込橋の渡詰め左手に大国神社がある。当社の祭神は大己貴尊で、天明3年(1783)に大島吉国が下野国からこの地に邸宅とともに遷座・創建されたという。11代将軍徳川家斉が将軍職を継ぐ前から参詣し、後に将軍職を継いだため出世大黒とも呼ばれていたという。 大国神社前から緩やかに下って行く坂を妙義坂という。坂の西方駒込三丁目にある妙義神社が坂名の由来であり、「大日本名所図絵」 に、「これよりみょうぎみち、やしろまで半丁」 と記せし石標を建つ。(中略)当社の祭神は日本武尊にして、左に高産霊神、右に神功皇后、応神天皇を奉祀す。社伝に 「日本武尊東征の祭此地その陣営となりたれば後に一社を建て白鳥社と号す」 と記されている。 妙義坂を200m程下って行くと、右手に駒込妙義坂子育地蔵尊がある。この子育地蔵尊は、寛文8年(1668)この地に土着した今井家が、子孫繁栄を祈願して建立されたものである。堂内には子育地蔵尊のほかに、如意輪観音、セーラー服を着た双体の童女像が祀られている。 子育地蔵尊の街道を挟んだ向かいの細い筋を入って行くと、令和2年(2020)に改修された妙義神社がある。当社は、1300年の歴史を持つ豊島区最古の神社である。伝承によれば、日本武尊が東征の折、この地に陣営を構えたことから、人々が威徳を尊び社を建てたのが始まりと云う。文明3年(1471)太田道灌は、古河公方足利成氏との戦いの折、戦勝祈願し、戦に勝って凱旋している。境内には、道灌霊社のほか、寛永19年(1642)の庚申塔などがある。

ことぶき地蔵堂跡 大炊介坂 旧古河庭園 平塚神社
街道に戻って350m程進むと、左側歩道上に 「ことぶき地蔵堂跡」 がある。この付近で交通事故が多発していたことから、無量寺に安置されていた子育て地蔵尊を遷座して祀っていたというが、本郷通りの改修工事などにより、御堂は解体され、地蔵尊は無量寺の門前に再び遷座されたという。 ことぶき地蔵堂跡から左手の旧古河庭園に沿って登って行く坂が 「大炊介坂」 である。坂の途中に大炊介坂説明碑が建っており、坂の名は、この辺りに住んでいた中世の武将保坂大炊介に因んで大炊介坂と呼ばれているという。 大炊介坂を上り詰めた左手に旧古河庭園の入口がある。この庭園は、もと明治の元勲陸宗光の邸宅であったが、次男が古河家の養子になったのち、古河家の所有となったという。現在の建物は、英国人建築家ジョサイア・コンドル氏の設計という。建物の前にはバラ園があり、その下方に回遊式の日本庭園があり、各所に雪見灯籠などが配されている。 旧古河庭園を出て150m程進んだ平塚神社前交差点の右手に平塚神社がある。平塚神社は、八幡太郎源義家が奥州征伐の凱旋途中、この地を訪れ、領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜、近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め、塚を築いて城の鎮守として祀り、元永年間(1118-20)に創立したと言われている。境内には、菅原神社、稲荷神社、石室神社などの境内社がある。

滝野川公園 西ヶ原一里塚跡 七社神社 六石坂
街道に戻ると直ぐ右手に北区立滝野川公園がある。この公園は、水と緑が多く、多くの人々に利用され、防災公園としての性格も有している。水はろ過装置で循環しており、高さ5mの白御影石から流れ落ちる水と池は、夏には子供達に大変人気のある場所となっているようである。 滝野川公園を出て350m程先に進むと、右手に西ヶ原一里塚跡がある。街道(都道455号)の中央分離帯には、西ヶ原一里塚碑と二本榎保存之碑が建っているが、目の前に滝野川警察署もあり、車の往来がある道の中央に出ていくことは出来ない。右手の一里塚跡には、西ヶ原一里塚跡説明と二本榎保存之碑説明が建っている。 西ヶ原一里塚跡の右手筋に七社神社の一の鳥居が建っている。この筋を80m程入ると正面に七社神社がある。七社神社の創建代等は不詳であるが、かつては無量寺の境内に祀られていたが、神仏分離令により現在地である一本杉神明宮社地に移され、現在に至っているという。境内には、一本杉神明宮、稲荷神社、熊野神社、菅原神社、三峯神社、疱瘡社の末社などがある。 街道に戻って西ヶ原一里塚跡の先を進むと、下り坂の道となり、歩道脇に東京都の六石(ろっこく)坂碑が建っている。坂の名は、租6石を納める水田が坂上にあったことに由来するという。

旧渋沢庭園 飛鳥山公園 飛鳥大坂 音無親水公園
六石坂の右手段上に飛鳥山公園があり、かつて渋沢栄一の自邸があった庭園のところは、 「旧渋沢庭園」 として公開されている。園内には、大正6年竣工の 「晩香盧」 と大正14年竣工の 「青淵文庫」 が現存している。 飛鳥山公園は、明治6年(1873)に定められた日本最初の公園の一つである。江戸時代の中頃、元文2年(1737)、徳川8代将軍吉宗が、この地を王子権現に寄進し、荒地を整備して、桜や松、楓などを植えて桜の名所とし、江戸っ子たちの行楽の地としたのである。園内には、水辺や都電・SLなど子供の遊び場となる場所のほか、飛鳥山の歴史を刻んだ石碑などがある。 街道に戻って六石坂を下り、その先の飛鳥大坂を右にカーブしながら下って行く。歩道脇にある飛鳥大坂碑には、「いまはきわめてゆるやかな勾配だが 「東京府村誌」 には 「飛鳥山坂、本村(滝野川村)にあり、飛鳥橋の方に下る。長さ1町12間3尺、広さ3間、坂勢急なり」 と記されているように都内でも難所であり、荷車の後押して手間賃をかせぐ人もいた。昔は将軍家の日光社参の行列もここを通った。」 と記されている。 飛鳥大坂を下って行くと、左手の石神井川の旧流路に整備された音無親水公園がある。石神井川は、飛鳥山公園の下に2本のトンネルによってショートカットされ、残された旧流路はかつての渓流の面影を残す公園として整備され、「日本の都市公園100選」 に選ばれている。

王子神社 子育地蔵尊 王子稲荷神社 金輪寺
街道に戻りJR王子駅の手前をJR高架に沿って進み、王子大坂の手前の権現坂を上ると左手に王子神社がある。王子神社の創建は不詳であるが、源義家が奥州征伐の途次、戦勝祈願をし、甲冑を納めたという伝承がある。その後、元享2年(1322)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を勧請し、若一王子宮と奉斎し、熊野にならって景観を整えたという。境内には、髪の毛に御利益のある関神社の末社がある。 権現坂を下って街道に復帰すると、王子大坂の入口左手に子育地蔵尊がある。標柱があるから足を止めて探したが、標柱がなければ通り過ぎるところである。ここは私有地であり、駐車している車の奥に地蔵堂があり、中に3体の地蔵菩薩立像が祀られている。 子育地蔵尊の先は急勾配な王子大坂となるが、ここで一本右手(東側)の平らな道を北に進むと、左手段上に王子稲荷神社がある。当社は、関東稲荷社の総社として狐にまつわる言伝えが多く残る神社で、大晦日には地元の人々による 「狐の行列」 が行なわれ、北区の冬の風物詩となっている。境内には、市杵島神社、稲荷三社などの境内社のほか、願掛け石、狐が住んでいたという 「御穴様」 などがあある。 王子稲荷神社の北側に真言宗の王子山金輪寺がある。かつて金輪寺は王子稲荷神社の別当寺であり、禅夷山東光院金輪寺と称していた。万延元年(1860)の火災により焼失し、一時廃寺になったというが、明治時代に金輪寺の支坊であった藤本坊が、名跡を継いで再興したという。境内には、5基の宝篋印塔が並んでいるほか、正徳2年(1712)の青面金剛の庚申塔などの石造物がある。

名主の滝公園 王子大坂 分岐 地福寺
金輪寺の北側に隣接して名主の滝公園がある。名主の滝は、王子村の名主畑野孫八が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことに始まるもので、名称もそれに由来している。園内には、落差8mの男滝(おだき)を中心に、女滝(めだき)、独鈷の滝(どっこのたき)、湧玉の滝(ゆうぎょくのたき)があるが、流れがあるのは男滝だけである。 街道に戻って子育地蔵尊の前から王子大坂を登って行く。登り口に子育地蔵尊があったので、地蔵坂とも呼ばれ、また、坂の地形が海鳥の善知鳥(うとう)の嘴のようなので、「うとう坂」 とも呼ばれたという。 王子大坂を登って都道455号に合流し、その先で都道455号から分岐して都道460号に入って行く。 都道460号に入って拡幅工事が行なわれている道を400m程進むと、左手に真言宗智山派の十条山東光院地福寺がある。地福寺は、康平年間(1058-65)、仁和寺の僧経邦によって開山といわれ、豊島八十八ヶ所霊場28番札所、北豊島三十三ヶ所霊場3番札所となっており、境内には、慰音堂(貞明皇后像)、水琴仏、お砂踏み場のほか、青面金剛の庚申塔、出羽三山碑などの石造物がある。、

十条富士塚 中十条公園 真光寺 西音寺
街道に戻って200m程進むと、左手にフェンスで囲われた石祠がある。この石祠の北側に地元の人々の信仰の場となっていた富士塚があったが、現在、道路の拡張工事により再整備が行なわれている。 十条富士塚の街道を挟んだ向かい側に中十条公園がある。公園の入口には門があり、園内の一角に 「歴史と文化の散歩道」 説明碑が設置されて、「富士講と富士塚」 「日光御成道」 の説明が刻まれている。 中十条公園の左奥に真言宗智山派の隆照山桂徳院真光寺がある。真光寺は、明治33年の火災により資料が焼失し、創建代は不詳であるが、新編武蔵風土記稿に 「同宗(新義真言宗)稲付村普門院末、隆照山桂徳院と号す。本尊勢至」 と記載され、江戸時代中期に建立されていたことがわかる。境内には地蔵堂、勢至菩薩を祀る六角堂、撫仏と呼ばれる「おびんずる様」、弘法大師像などがある。 真光寺を出て300m程先に進むと、右手に真言宗智山派の無量山龍谷院西音寺がある。西音寺は、文明2年(1470)、僧玄仲によって創建されたと伝えられている。新編武蔵風土記稿によると、武蔵野台地の端に位置し、遠く日光の山並みが見える景色の良い所だったという。西音寺はこの先の八雲神社の別当寺でもあった。山門前には、如来像が配された六地蔵石幢、地蔵菩薩立像、宝篋印塔などの石造物がある。

八雲神社 清水坂 若宮八幡神社 JR埼京線高架
西音寺の先で都道318号(環七通り)に突き当たるが、この左手に段上に八雲神社がある。江戸時代は先に訪れた西音寺持ちで、牛頭天王社と称していたが、その後、王子神社の末社として旧宿町の村持ちの神社となった。現在は八雲講組織の管理運営となっている。境内には、無造作に置かれた手水石と天明4年(1784)の文字庚申塔がある。 八雲神社の前の馬坂歩道橋で都道318号(環七通り)を渡ると、その先は下り坂の清水坂が続いている。途中、歩道脇に清水坂碑が建っており、八幡山児童遊園の前には 「歴史と文化の散歩道」 説明碑が設置されている。ちなみに馬坂は、八雲神社前の都道318号(環七通り)の坂である。 八幡山児童遊園の奥(丘上)に若宮八幡神社がある。御祭神は誉田別命(ほむたわけのみこと)(応神天皇)で、享保年間(1716-36)に鎌倉の鶴岡八幡宮から分祀して創建されたと伝えられている。丘上に当たる所に社殿があり、境内には布袋尊、大黒天が祀られ、イチョウのご神木が立っている。 街道に戻って、右手に高崎線・北陸新幹線の高架を見て、左手の北区特別養護老人ホーム清水坂あじさい荘の前を過ぎると、その先にJR埼京線の高架が街道を横切っている。

香取神社 法真寺 稲付一里塚跡 真正寺坂
JR埼京線の高架を潜って間もなく、信号交差点を左折すると、右手の段上に香取神社がある。当社の創建代は不詳であるが、「新編武蔵風土記稿」 には、「村の鎮守とす、長2尺6寸許の石を神体となせり」 と記され、稲付村の鎮守であったという。本殿は、上野東照宮の内陣を移築したものと言われている。境内には、稲荷神社、榛名神社、古峰神社、御嶽神社などの境内社などがある。 香取神社の西側に隣接して日蓮宗の稲付山法真寺がある。法真寺は、天正元年(1573)東叡山慈眼大師(天海僧正)の弟證導院日寿上人の開山と伝えられている。境内には、三蛇弁財天、三十番神堂、稲荷社などのほか、句碑、地蔵菩薩立像などの石造物がある。 街道に戻って80m程進むと、歩道脇に稲付村の一里塚跡がある。現在、一里塚の痕跡もなく説明板が建っているのみであるが、往時はこの場所から200m程北の赤羽西2-8付近に築かれていたといい、日本橋を起点とすると本郷追分、西ヶ原に次いで3里目の一里塚跡である 稲付一里塚跡説明の直ぐ先、左手筋の坂道は 「真正寺坂」 である。坂名の由来となった真正寺は廃寺となり、坂名だけが残ったものである。坂の入口には、明和6年(1769)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。

普門院 静勝寺 JR赤羽駅 宝幢院
真正寺坂の次の左手筋奥に真言宗智山派の妙覚山蓮華寺普門院がある。創建年代は不明であるが、鎌倉時代末期から室町時代にかけて中興されたと言われる古刹である。山門は鉄筋コンクリート造の龍宮門で、山門脇に道灌稲荷社があり、本堂は植栽に隠れて全体が見えず、納骨堂はインド風の塔が建ち、全体的にユニークな寺院である。なお、参道口には餅搗唄説明板が建っている。 街道に戻って300m程進むと、左手筋の奥の丘上に曹洞宗の自得山静勝寺がある。静勝寺は、埼玉県越生の龍穏寺の末寺で、同寺5世雲綱俊徳による開山で、太田道灌が開基と言われている。この地は太田道灌が砦として使用した稲付城跡で、街道側(東側)山門の正面に道灌堂があり、木造太田道灌坐像が安置されている。境内には樹木が多く、道灌堂のほか弁天堂、普門閣などの堂宇がある。 街道に戻ると直ぐ先のJR赤羽駅などで分断されており、赤羽駅の東口に出て街道に復帰する。 街道に復帰して進んでいくと、突き当りに真言宗智山派の医王山東光寺宝幢院がある。宝幢院は、寛正2年(1461)宥鎮和尚によって開山され、約150年後に深承阿闍梨および宥意和尚が中興したという。門前には、元文5年(1740)の道標があり、境内には区内最古の寛永16年(1639)の庚申塔、馬頭観音、出羽三山碑などがある。


仙甚橋跡 大満寺 正光寺 岩淵宿問屋場址
宝幢院の先を進んで環状8号と国道122号が交わる赤羽交差点を渡った左側に 「仙甚橋」 と刻まれた親柱がある。川の痕跡はなく、暗渠化されて親柱だけが残ったものだろう。 赤羽交差点を渡った右手に真言宗智山派の薬王山瑠璃光院大満寺がある。大満寺は、明暦元年(1655)に開山したと伝えられている。ご本尊は行基作と伝えられる薬師如来で、不動堂には鎌倉時代初期の不動明王像が祀られている。境内には、岩淵天神、幸福地蔵尊、青面金剛の庚申塔のほか、東久世道禧(みちとみ)の歌碑などがある。 大満寺の北東に隣接して浄土宗の天王山淵富院正光寺がある。正光寺は、良忠上人を開山として鎌倉時代に創建された寺院である。その後、衰退していたが、慶長7年(1602)に小田切将監重好氏によって再建され、重好氏の法号から正光寺と改められたという。境内には、観音堂、岩淵世継大観音(安産子育観音)、日清戦争戦没者慰霊地蔵尊、水子地蔵尊、弁才天像などがある。 街道に戻って150m程進んだ右手の小山酒店の隣のマンションの植え込みに、岩淵宿問屋場址がある。建物などの遺構は残っていないが、「史蹟岩槻街道岩淵宿問屋場址之碑」 が建っている。

新荒川大橋 善光寺 川口宿 古民家
岩淵宿問屋場址之碑の先は新河岸川と荒川に架かる新荒川大橋があり、新河岸川を渡ったあたりで東京都から埼玉県へ入って行く。新河岸川を渡った左手の堤防上に 「岩淵の渡船場跡」 説明が建っている。 新荒川大橋の渡詰めを上流側に400m程行ったところに、真言宗智山派の平等山阿弥陀院善光寺がある。善光寺は、建久8年(1197)定尊上人が、信濃の善光寺の阿弥陀三尊像を模造して安置し、開創されたという。江戸時代は、信濃の善光寺と同じ御利益があるとされ、江戸市民の信仰を集めて賑わったといわれている。かつての堂宇は、昭和43年(1968)の災禍によって焼失してしまった。 善光寺前から300m程川下に戻ったところから、北に向かって川口宿並みが見える。川口宿の入口左手にポケットパークがあり、鎌倉橋の碑、母子の像、日光御成道と鎌倉街道の説明板などが建っている。 川口宿の入口から100m程進むと、右手に二階建ての古民家がある。以前は浜田接骨院だったというが、それらしき看板は出ていない。この建物は明治40年(1907)の建築といわれている。

川口宿本陣門 古民家 ポケットパーク 旧芝崎平七邸
古民家の街道を挟んだ斜向かいの細い筋を入って行くと、須田牛乳店の向いに川口宿本陣門が建っている。かつては街道に面して建っていたが、宅地等の整理で街道から奥まった所に移設されたようである。 街道に戻ると右手に古民家があり、中西日進道薬局の看板が一階の軒下に出ている。この建物は大正時代の建築とのことである。 先に進むと街道は県道89号の交差点に突き当り、この交差点(ロータリ―)の中央にポケットパークがある、ここには 「日光御成道と川口宿」 説明板と川口宿絵図碑が建っている。 街道の突き当りポケットパーク前を左折すると、右手に旧芝崎平七邸がある。現在の本町小学校の前身である川口小学校は、芝崎平七の自宅離れを利用して開校され、平七は私財を投じて小学校の運営に磁力したと云う。門前に 「旧白門通りと旧芝崎平七邸」 説明板が建っている。

川口神社 凱旋橋 錫杖寺 上之橋
旧芝崎平七邸から西に150m行った右手に、川口神社がある。川口神社は、もと氷川社と称し、天慶年間(938-47)の創始といわれ、古くから川口町の鎮守氏神として人々の崇敬を集めていたという。明治6年(1873)に村社に指定された後、町内の天神社、稲荷社、金山社を合祀して、社名を川口神社に改めたという。境内には、金山神社、梅ノ木天神社、杉山稲荷神社、八雲社などの境内社がある。 県道89号のポケットパークに戻り、北に延びる錫杖寺へ向かう筋を入っていくと、道路の右脇に凱旋橋親柱が建っている。凱旋橋の由来碑は、先に寄った川口神社に移設されていたが、ここは日露戦争集結の翌年の明治39年5月13日に挙行された川口町出身兵士の凱旋祝賀に際し、当時ここを流れていた錫杖寺杁(いり)用水に架設された凱旋橋の遺跡である。 凱旋橋跡の奥に真言宗智山派の宝珠山地蔵院錫杖寺がある。錫杖寺は、養老元年(717)僧行基が本堂を建立し、自ら地蔵菩薩を刻み本尊とし開基したと伝えられている。その後、願行上人が再興、室町時代に足利義政により七堂伽藍が整備され、江戸時代には徳川将軍の日光社参の際の休憩所となった。境内には、延命地蔵尊を祀る地蔵堂、天満大神を祀る天満宮、福禄寿堂などのほか、墓所には大奥御年寄滝山の墓がある。 街道に戻って先に進むと芝川に架かる上之橋がある。芝川は埼玉県上尾市に源を発し、川口市に入って芝川と新芝川に分かれ、下流で再び新芝川に合流し、荒川に注いでいる。

川口元郷駅
上之橋を渡ると直ぐ埼玉高速鉄道の川口元郷駅がある。今回は街道距離としては10㎞程の短い距離であったが、寄り道をしたところが多すぎて、歩数はこれまでの街道歩きでも多い方であった。

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