早春賦の作詞家吉丸一昌
 明治6年(1873)~大正5年(1916)の国文学者・作詞家。現大分県臼杵市で生まれ、苦学して東京帝国大学国文科を卒業した。上京時の一時期、この龍光寺に身を寄せた。
 明治42年(1909)東京音楽学校の教授として招かれ、唱歌の編集に携わったが、徳育的な文部省唱歌に飽き足らず、言文一致の子供の目線に立った 「新作唱歌」 全10集を明治45年から大正3年にわたり発表した。
 作曲は、東京音楽学校を卒業した若い作曲家を起用し、「おたまじゃくし」「蛍狩」「早春賦」 などを作った。これらは、後の童謡運動のさきがけとなるものであった。
 その代表作 「早春賦」 は、「新作唱歌」 第3集に収録され、中田章作曲による美しいメロディーにのり、大正2年に発表された当時から女学生を中心に歓迎され、今も広く親しまれている。
 大正5年(1916)3月7日、心臓発作のため、駒込動坂町(現千駄木4丁目)の自宅に於いて、43歳の若さで急逝した。今は、縁のあった龍光寺に眠っている。
(文京区教育委員会)


栗山潜鋒
 寛文11年(1671)~宝永3年(1706)。江戸中期の儒学者。山城国淀の人。潜鋒は号。桑名松雲に学び、徳川光圀に招かれ 「大日本史」 の編集に従事する。のち、彰考館総裁に抜擢された。著書に 「保建大記」「倭史後編」 などがある。

三宅観瀾
 延宝2年(1674)~享保3年(1718)。江戸中期の朱子学派の儒学者。京都の人。はじめ浅見絅斎(けいさい)、のちに木下順庵に学び木門十哲の一人といわれた。元禄12年(1699)徳川光圀に仕えて彰考館に入り 「大日本史」 の編集に従事する。のち彰考館総裁となり、さらに新井白石の推薦を受けて幕府の儒官となる。著書に 「中興鑑見」「烈士報讐録」 などがある。
(文京区教育委員会)

深見十左衛門
 近世初期の侠客、始め藤堂家に仕えたが、浪人して男伊逹の群に入り江戸市中を横行した。金の義歯、ひろく抜き上げた額際、異様な鬚髯、朱鞘の大脇差などの異装で世人の目を集めた。晩年、庵を駒込龍光寺に結び自休と号した。享保15年3月18日没す。行年90歳。
(文京区教育委員会)

庫裡

本堂に掛かる龍光禅寺の扁額

龍光寺本堂

侠客深見十左衛門の墓
(一應院心渓自休庵主)

観瀾先生三宅君墓(左)、栗山源八之墓(右)

中央に初代高和正室市姫の墓碑
(養性院殿寶山壽心大姉)

左側に京極家墓碑6基が並ぶ

右側に京極家墓碑5基と観音像が並ぶ

黒田長興娘おさんの墓
(真流院殿華雲宗香大姉廟所)

小笠原長祐正室黒田長興娘おさん碑

丸亀京極家廟所門

唐津小笠原家廟所碑

小笠原家墓碑が9基建っている

小笠原家廟所門

早春賦碑

金毘羅堂

六地蔵尊

金毘羅大権現(御前立が祀られている)