日光御成道は中世の鎌倉街道中道をもとにして整備されました。鎌倉街道中道が通っていた頃より、この地は奥州への要所でした。「義経記」 には、源義経が奥州から鎌倉に向かう際に小川口(現在の川口市)で兵をあらためたと記されています。御成道が将軍社参にふさわしい道として整備されたのは寛永年間(1624-44)といわれています。
荒川北側の小川に架かっていた土橋は鎌倉橋と呼ばれ、江戸時代においても重要な橋の一つで、たびたび修築を加えられ昭和初期まで残されていました。しかし、荒川の河川改修などにより消滅し、現在はこの緑地内にかつての橋の存在を記念して、石碑が建てられています。
鎌倉橋説明
空からの火
川口の母は2度、荒川の土手に上って震えながら、真赤に燃え上がる東京の空を見つめたことがあります。
大正12年の関東大震災と、昭和20年の東京大空襲です。
ことに後者の3月10日の下町の大空爆の時には、B29一機が今のオートレース場に墜落、また4月、5月には川口のところどころに焼夷弾の雨が降り、王子方面から被爆した一機が爆弾を垂れこぼしながら、火だるまになってこの上空を覆いかぶさり、原町に墜落炎上しました。
夫や我が子を兵隊にとられ、母は必死で幼な子を守りました。その母たちの思いを忘れぬよう、再びあの業火を見ることがないようにと祈りを込めて、この像を建てました。
鎌倉橋はかつて荒川のかたわら舟戸が原を流れていた小川に架けられた橋で、この碑の南方約120mの地点、現在川口市立南中学校の校庭にその礎石を残しています。鎌倉橋と呼ぶその名は、これが奥州へ通う枢要な鎌倉街道に架設されていた橋であることを示しています。義経記にも治承4年(1180)源義経が兄頼朝の挙兵に応じて平泉を発し、武蔵国足立郡こかわぐちを過ぎる時、従う軍勢は85騎と記して、当時すでにこの地が奥州への街道の要所であったことを伝えています。わが川口はこの街道の道筋として発展し、今日のこの繁栄の基を築いたもので、鋳物業がこの地に興ったのも実にこのためであります。鎌倉橋の史蹟はこの次第を語り、わが市の遠い起源をここに伝えています。郷土川口の限りない進展を願うわれらは、この史蹟の語る声なき声に、本市創始のいにしえをしのび雄大なる未来創造の英気をここにくみとりましょう。
母子像
鎌倉橋の碑
母子像土台の説明プレート
日光御成道と鎌倉街道説明
当時の鎌倉橋位置図
(右側の太い川筋が荒川)