七社神社
 七社神社の祭神は、伊邪那岐命・伊邪那美命・天児屋根命・伊斯許理度賣命・市寸島比賣命・夢中日子命(仲哀天皇)・品陀別命(応神天皇)です。由来については、寛政5年(1793)の火災により、社殿古記録一切が焼失したため、よくわかっていません。「新編武蔵風土記稿」 には 「村ノ鎮守トス・・」 と記され、また、「江戸名所図会」 には、無量寺の高台に描かれ、再建後も別当寺であった無量寺の境内に祀られていたことがわかります。明治はじめの神仏分離に際して現在地である一本杉神明宮社地に移され、西ヶ原村の総鎮守として奉祀されるに至りました。
 末社には天祖神社(一本杉神明宮)・稲荷神社・熊野神社・菅原神社・三峯神社・疱瘡社があります。一本杉神明宮は、もともとこの地にあった神社ですが、七社神社の移転により、末社となったものです。現在、切株が残っている杉の古木は、その神木です。
 旧社務所は、村の青年会の発起で、渋沢栄一・古河虎之助を筆頭とする諸氏の寄附により、大正9年(1920)に建てられたもので、公会堂を兼ねたものでした。
 この境内から隣地にかけての一郭は、七社神社裏目塚として知られた遺跡で、縄文式土器・弥生式土器・土師器などが発見されています。
(北区教育委員会)

 渋沢栄一が、「飛鳥山別業南園」 にあった松が枯れたことを深く悲しみ、友人の漢学者・三島中洲に文章の作成を依頼、自ら揮毫して建てた碑です。建立は明治44年、その後、同地を購入して移り住んだ増野家の所有となりました。昭和20年の空襲で大きな傷を受けるも、地域の歴史を伝える遺産として大切に守られ、令和2年に寄贈を受けた七社神社が境内に移設しました。
 明治12年、栄一は飛鳥山の一角に別荘を構え、同34年以降本邸とします。現在の本郷通りを隔てた側の庭には老松があり、栄一は、天に届くかのように真っすぐ伸びたその姿を愛していました。しかし、工場の煙突からの煙によって松は枯れてしまいます。
 のちに栄一は、「愛樹を枯死せしめたるは遺憾至極なれど、其害を与えたる煙は、明治初年より渋沢が振興せしめたる商工業並びに交通機関の発達の結果なれば、渋沢の庭園が此煙の為に害を受け其愛樹を失うも、自ら慰むる所なかるべからず」 と語っています。
 ちなみに、渋沢栄一はここ七社神社を地域の神社として、その鎮守神を崇敬していました。同社には今もなお、栄一揮毫の社額が掲げられています。
(渋沢資料館)

御神木

腹籠の椎

枯松を祭る文の碑

孟子像・孔子像

舞殿

末社の疱瘡社

末社の稲荷神社

末社の菅原神社・三峯神社

末社の天祖神社(一本杉神明宮)

手水舎

昭和6年(1931)の手水石

七社神社二の鳥居

七社神社・武運長久などの扁額が掛かる舞台

茅の輪

七社神社拝殿

阿形の狛犬

吽形の狛犬

拝殿に掛かる七社神社の扁額