昭和13年(1938)、六義園は当時の所有者であった三菱財閥3代目の岩崎久彌によって東京市(現東京都)に寄附されました。この石碑はその時の記念として東京市が建てたもので、六義園の成り立ちも記されています。
 岩崎家が六義園を所有したのは、明治維新によって政府に上地された六義園を、明治11年(1878)に三菱財閥創業者の岩崎彌太郎が手に入れ、別邸としたのが始まりです。その後、岩崎久彌の本邸・別邸となり、後に総理大臣に就任した政治家幣原喜重郎(彌太郎の女婿)が一時仮住まいとしていたこともありました。
 右手の大きな門は 「内庭大門」 と呼ばれ、岩崎家所有当時の様子を残していますが、現在の門は東京市によって再建されたものです。かつては門をくぐった先の枝垂れ桜付近に、岩崎家の 「御殿」 と呼ばれる邸がありました。

枝垂れ桜
(2011年4月撮影)

渡月橋
(2011年11月撮影)

 六義園は5代将軍徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳沢吉保が元禄15年(1702)に築園した和歌の趣味を基調とする 「回遊式築山泉水」 の大名庭園です。当園は江戸時代の大名庭園の中でも代表的なもので、池をめぐる園路を歩きながら移り変わる景色を楽しめる繊細で温和な日本庭園です。園内には和歌の浦の景観や和歌に詠まれた名勝、中国古典の景観が八十八境として映し出されています。
 明治11年(1878)に三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸となりました。昭和13年(1938)に岩崎家より東京市(都)に寄附され、昭和28年(1953)に国の特別名勝に指定された貴重な文化財です。
 六義園の名は、中国の詩の分類法(詩の六義=風・賦・比・興・雅・頌)にならった古今集の序にある和歌の分類の六体(そえ歌・かぞえ歌・なずらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・いわい歌)に由来したものです。柳沢吉保の 「六義園記」 では、日本風に 「むくさのその」 と呼んでいましたが、現在では漢音読みで 「六義」 を 「りくぎ」 と読む習わしから 「りくぎえん」 と読みます。

六義園案内

枝垂れ桜

枝垂れ桜付近の紅葉
(2021年12月撮影)

中の島(背山・妹山)

渡月橋

吹上松

内庭大門

東京市石碑