ここにある7つの石は、その一つに 「さし石」 と刻まれている力石です。江戸時代後期から明治時代にかけて、稲付村では、春の彼岸が過ぎるころ、少しの間、農作業に暇ができましたので、村の鎮守である香取神社の境内に、村内の力自慢の若者たちが集まって、石の 「サシアゲ」 などして、力比べをしたと云います。
 7つある力石のうち、5つの石に重さが刻まれています。軽いものでも19貫目(約71㎏)、重いものでは55貫目(約206㎏)もあります。また、6つの石には、「小川留五郎」 と名前が刻まれています。留五郎さんは、稲付村一里塚跡付近にある根古屋の小川家の人で、力が強く、村相撲の大関を勤めたといいます。石鳥居の脇にある明治39年(1906)建立 「日露戦役記念碑」 の有志者連名中にもその名が見られます。明治40年(1907)6月13日に51歳で亡くなりました。
 力石は小川家に保管されていましたが、昭和40年(1965)頃に香取神社へ奉納され、現在に至っています。
 力石は、鎮守の祭礼などで、これを持ち上げて、神意をはかるための石占いに用いられ、後には、若者たちの力比べをするための用具ともなっていきました。この力石は往時の稲付村の風俗・習慣を示す貴重な文化財です。
(東京都北区教育委員会)

社務所

神楽殿

稲付村の力石

四社合祀社前の嘉永3年(1850)の手水石

四社合祀の境内社
(左から榛名神社・古峰神社・御嶽神社・大山阿夫利神社)

境内社の稲荷神社

稲荷神社拝殿

香取神社本殿覆屋

 香取神社本殿は、境内東側に位置する拝殿の後ろに設けられた本殿覆屋の中に安置されています。朱塗りの三間社流造で、屋根は柿葺き(こけらぶき)です。石の亀腹の上に土台が据えられ、その上に高さ約10尺、奥行約8.3尺の社殿が建てられています。
 香取神社は、経津主神(ふつぬしのかみ)・大山咋神(おおやまくいのかみ)・建御名方神(たけみなかたのかみ)を祭神としています。「新編武蔵風土記稿」 には 「村の鎮守とす、長2尺6寸許の石を神体とおなせり」 と記述され、旧稲付村の鎮守でした。稲付村は17世紀半ばの郷帳(「武蔵田園簿」)に 「御神領」 と記され、東叡山寛永寺領に属していました。また、当社とも関係の深い法真寺(赤羽西二丁目)の開山證道院日寿は、東照宮の造営にも深く関与した南光坊天海の弟だったとも言われています。このため、香取神社の本殿は、この付近に暮らす人々に、上野東照宮の本殿(内陣)を移築したものだと古くから信じられています。上野東照宮の本殿とは、徳川将軍家康が東叡山寛永寺を造営した際に藤堂高虎(津藩初代藩主)が建てたもので、その事業には徳川御三家が協力し、寛永4年(1627)に落成したことが知られています。
(東京都北区教育委員会)

拝殿に掛かる香取神社の扁額

天保15年(1845)の手水石

香取神社拝殿

手水舎

石段の登り詰めに建つ嘉永3年(1850)の狛犬

鳥居の奥に建つ嘉永5年(1852)の狛犬

昭和28年(1953)の石鳥居

拝殿に掛かる正一位伏見稲荷大明神の扁額