大正8年(1919)の善光寺参拝記念碑

大正9年(1920)の四国西国秩父坂東百八十八ヶ所参拝碑

明治41年(1908)の南無馬頭観世音碑

本堂修築記念碑

弘法大師一千一百年忌供養塔

寛永16年(1639)の阿弥陀如来線刻庚申塔

地蔵菩薩立像

文政11年(1828)の出羽三山供養塔

九重塔

不動堂

不動明王像

元文5~寛保元年造立の六地蔵尊

 宝幢院は医王山東光寺と号し、真言宗智山派のに属する寺院で、本尊は薬師如来像です。寛正2年(1461)宥鎮和尚によって開山され、約150年後に深承阿闍梨及び宥意和尚が中興しました。「新編武蔵風土記稿」 には、慶安2年(1649)に3代将軍家光から赤羽根村内に10石余の年貢・課役免除の朱印を付されたことが記されています。寺伝や浮間の古老の言い伝えによれば、かつてこの寺は、浮間村西野(現在の浮間4丁目にほぼ相当)にありましたが、荒川の氾濫による洪水を避けて赤羽に移転し、跡地は宝幢院屋敷と呼ばれたそうです。
 境内には、区内最古の寛永16年(1639)霜月18日銘の阿弥陀如来線刻庚申塔があります。板碑型の石塔本体正面には、阿弥陀如来立像とニ猿が線刻され、「山王廿一社」 の文字を見ることができます。「庚申」 という文字が無く、本来は三猿のところがニ猿であるために、この塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には、庚申信仰と山王信仰の結びつきを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者の信仰が結びついて造立されたようです。
 その他に馬持講中(当時馬を飼っていた資力のある村民)の人名を刻んだ馬頭観音塔や、出羽三山供養塔などがあり、この地の歴史を知る上で貴重なものとなっています。
(東京都北区教育委員会)

宝幢院由緒

弘法大師像

宝幢院本堂

本堂に掛かる宝幢院の扁額

山門脇の地蔵堂

地蔵菩薩立像

宝幢院山門

 宝幢院門前の道標は、江戸時代の中期、元文5年(1740)12月に了運という僧によって造立されたものです。
 道標は、それぞれの方向からきた人々が、まず、自分の歩いてきた道を確認し、次に、これから訪ねようとする土地への道がどの道なのかということを確認できるように造られたものです。
 宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻街道と合流する位置でしたので、道標には 「東川口善光寺道日光岩槻道」 「西西国富士道板橋道」 「南江戸道」 と刻まれています。日光・岩槻道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷、大門、岩槻の宿場を経て幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光の廟所のある日光に社参するための街道としたので、日光御成道とも呼ばれました。板橋道は、西国へと向かう中山道や、八王子から富士山北麓の登山口へと向かう富士道へ通じていました。
(東京都北区教育委員会)

三猿が刻まれた庚申塔

宝幢院前の道標説明

山門前の道標