境内社の御料稲荷神社
境内社の大門先・元稲荷神社
境内社の菅原神社
御祭神
八幡太郎 源義家命
平安後期の武将で、源頼朝・義経や足利将軍家の先祖。石清水八幡宮で元服したので、八幡太郎と号された。前9年の役(安倍貞任・宗任退治)、後3年の役をはじめ数々の戦を征された。「天下第一武勇之士」
と称えられ、全国の武士達が臣従した。その武威は物の怪ですら退散させたといわれ、義家公の弓矢は魔除け・病除けとして白河上皇に献上された。
加茂次郎 源義綱命
義家公の次弟。加茂神社で元服したので加茂次郎と号された。
新羅三郎 源義光命
義家公の三弟で武田氏、佐竹氏、小笠原氏の先祖。新羅明神で元服したので新羅三郎と号された。笙の名手としても有名。
略縁起
平塚神社の創立は、平安後期、元永年中といわれている。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中に、この地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は、拝領した鎧を清浄な地に埋め、塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。
さらに近義は、社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り、一族の繁栄を願った。徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は、平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ、検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり、立身出世を果たした。その後、家光が病に倒れた祭も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光も50石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らも度々参詣に訪れた。
平塚神社由緒
自然石の平塚神社社標
文政2年(1819)の平塚大明神碑
郷社平塚神社社標
境内社の石室神社
拝殿に掛かる平塚神社の扁額
平塚神社拝殿
舞殿
文化10年(1813)の石鳥居
手水舎
平塚神社参道