稲付村
江戸時代、現在の赤羽西・赤羽南・西が丘地域は稲付村と呼ばれ
安政2年(1855)の記録では高451石7斗6合の、江戸近郊農村でした。村内社寺には、香取神社、静勝寺、凰生寺、普門院、法真寺がありました。村内を日光御成道が通り、東側の低地部には水田が、西側の台地は畑で大根、瓜、茄子などが作られました。数軒が共同で農作業を行なう
「もやい」 という仕組みがあり、餅搗(もちつ)きなども、もやいで手伝いながら行なわれていました。餅搗きの際の作業唄 「稲付の餅搗唄」 は北区指定無形民俗文化財に指定されています。
稲付一里塚
慶長9年(1604)、江戸幕府は日本橋を基点として全国の主要街道の一里毎に榎等を植えた塚を築かせ、街道の道程の目安としました。一里塚は、旅人にとっては歩いた距離や乗物賃の支払いの目安となり、木陰が休息所としての役割も果たしました。
稲付一里塚は日光御成道の沿道にあり、ここから200m程北の赤羽西2-8付近に築かれていました。日光御成道は、江戸幕府の将軍が、家康を祀る日光東照宮に参詣するために通る街道でした。また、江戸北郊の城下町である岩槻と江戸とを結ぶ街道でもあったため岩槻街道とも呼ばれました。
日光御成道は、本郷追分の一里塚で中山道と分岐し、西ヶ原村の一里塚を経て稲付村の一里塚に至ります。日本橋を起点とすると本郷追分が一里目、西ヶ原が二里目、稲付の塚が三里目(約12㎞)にあたり、この塚を過ぎると御成道の最初の宿場である岩淵宿に向かいます。稲付村内の御成道は距離約6丁半(約709m)で、幅は2間半(約4.5m)から4間(約7m)位と記録されています。
稲付一里塚のあった付近には、御成道を横切る用水を渡る幅2間半・長さ4尺(約1・2m)の石橋があり、高札も立てられていました。
(東京都北区教育委員会)
稲付村一里塚説明