静勝寺山門(南側)

弁天堂

普門閣

蓮の花

手入れの見事な五葉松

本堂前のソテツと蓮

阿形の狛犬

本堂に掛かる静勝寺の扁額

静勝寺本堂

吽形の狛犬

 右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である7月26日にちなんで毎月26日には開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌にあたる享保20年(1735)7月に建立され、厨子は350回忌にあたる天保6年(1835)7月に制作されました。
 太田道灌(1432-86)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて30余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(1457)4月には江戸城を築いたことで知られています。
 像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明10年(1478)2月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44.5㎝、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後2材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄8年(1695)静勝寺第6世の風全恵薫によって造立され、以後、6回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和62年(1987)4月に行なわれた修復によるものです。
 像は、道灌が没してから200年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(1989)1月に北区の指定有形文化財に指定されました。
(東京都北区教育委員会)

 稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
 昭和62年(1987)、静勝寺南方面で行なわれた発掘調査によって、永禄年間(1558-69)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。また、静勝寺に伝承する貞享4年(1687)の 「静勝寺除地検地絵図」 には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、無理町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで、三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
 道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷5ヶ村を所領しました。
 明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号に因んで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
(東京都北区教育委員会)

寛政6年(1794)の地蔵菩薩立像

大正2年(1913)の漢文碑

参道石段脇の稲荷神社

稲付城跡碑が建つ石段参道

境内参道
(正面に道灌堂が見える)

境内から見た静勝寺山門(東側)

木造太田道灌坐像が安置された道灌堂

静勝寺山門(東側)