幕府が置かれた事で、江戸の人口は急増しました。主食のお米は全国から取り寄せましたが、一番困ったのは新鮮な野菜の不足で、江戸城内でも野菜を栽培していた記録があります。多くの大名たちは国元から百姓を呼び寄せ、下屋敷などで野菜を作らせました。
このようにして、江戸近郷の農村では換金作物として、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになり、当富士神社周辺でも、各種の野菜栽培が生産されるなど、大消費地江戸の供給基地として発達しました。
特に、ナスは優れたものが出来たことから 「駒込ナス」 として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した 「新編武蔵風土記稿」 (1828)にも記されています。
農家はナス苗や種子の生産にも力を入れるようになり、タネ屋に卸していました。ここ巣鴨駅の北西にある旧中山道にはタネ屋が集まり、さながらタネ屋街道の趣をなし、駒込、滝野川など周辺の農家が優良品種の採種と販売に大きく貢献していました。
(平成9年度JA東京グループ)
纏(まとい)が刻まれた石碑
火難除神符授輿碑
文京区保護樹木のカヤ
寛永17年(1640)の庚申塔
小御嶽社の文化9年(1812)の石鳥居
小御嶽社
宝永8年(1711)の石祠
昭和13年(1938)の富士浅間神社碑
元禄15年(1702)の石燈籠
昭和13年(1938)の駒込富士山碑
文化5年(1808)の石燈籠
富士神社参道
享和2年(1802)の石鳥居
鳥居に掛かる富士社の扁額
駒込ナス説明
富士神社はもと、旧本郷村に在った。天正元年(1573)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の2人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間神社を勧請した。
寛永6年(1629)加賀藩前田候が上屋敷(現東京大学構内)を賜わるにあたり、その地にあった浅間社はこの地に移転した。東京大学構内一帯は住居表示改正まで本富士町といっていた。
社伝によれば、延文年間(1356-61)には既に現在の社地は富士塚と呼び、大きな塚があったといわれる。この塚は一説によると、前方後円の古墳といわれる。
富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。
山嶽信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生した。旧5月末になると富士講の仲間の人々は、6月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭りを行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の
「お富士さん」 が多数出来た。文京区内では、「駒込のお富士さん」 といわれるここと、護国寺の 「音羽の富士」、白山神社の 「白山の富士」 があった。
(文京区教育委員会)
富士神社由緒
富士神社本殿
拝殿に掛かる富士神社の扁額
浅間神社拝殿
昭和46年再建の石鳥居
御神庫
富士塚への参道石段
弘化2年(1846)の安産神符碑
正保元年(1645)の手水石
宝永4年(1707)の手水石
手水舎