渡詰め上流側から見た新荒川大橋
江戸時代に浮世絵師広重が描いた岩淵の渡船場の光景です。
画面手前が岩淵宿側で、柳の木を目指して渡船が近づいてくる様子が描かれています。
岸の上には、船を待っている人の姿が見えます。対岸の川口側に描かれている朱塗りの建物が善光寺です。
名所江戸百景 川口のわたし善光寺
(歌川広重 安永4年(1858))
荒川上流域
新荒川大橋歩道部
岩淵の渡船場周辺図
このあたりに、岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場がありました。江戸時代、ここが川口宿の飛地であったことから 「川口の渡し」 とも呼ばれていました。
渡船場は奥州との交通上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったともいわれています。また室町時代には、関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。
江戸時代、ここを通る道は、将軍の日光東照宮参詣のための日光御成道として整備されました。渡船場も将軍専用と一般用に分かれており、将軍が通行する際は仮橋として船橋が架けられました。船橋は長さ60から65間(約110m)、幅3間(約5.4m)です。一般の渡船場には、人用の船の他に馬用の船も用意されていました。渡船の運営は岩淵宿と川口宿が半月交替で勤めてきましたが、大名の通行などの際には、近隣村で現在の北区内の下村・浮間村・埼玉県戸田市の早稲村の3ヶ村も勤めていました。また、対岸の河原にある川口善光寺が、名所として参詣者で賑わうようになると、開帳中は仮橋が架けられました。
渡船場は、明治以降も利用され、明治38年(1905)3月からは常設の船橋が架けられました。しかし交通量が増大するにつれて、船橋では対応できなくなり、昭和3年(1928)9月、やや下流に新荒川大橋が開通すると、その役割を終え、船橋は撤去されました。
(東京都北区教育委員会)
岩淵の渡船場跡説明
新荒川大橋親柱
新河岸川部分の新荒川大橋
新河岸川上流域