庚申塔
 ここに6基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが、明治以降、道路の拡幅などのため、根津神社に納められたものである。正面から左回りに刻まれた像、銘文をみると、①青面金剛・猿・鶏・寛文八戌申(1668)・駒込村・施主十五名、②観音像・庚申供養・施主十二名、③日月瑞雲・青面金剛・鬼・鶏・元禄五壬申(1692)施主二十六名、④日月・青面金剛・猿・延宝八庚申(1680)願主一名、➄梵字・庚申供養・寛永九年壬申(1632)・都島庚馬米村・願主七名、⑥日月・青面金剛・鬼・猿・駒込千駄木町・施主十名
 この中で、➄の庚申塔は、寛永9年(1632)の建立で、区内の現存のものでは最も古い。都内で一番古いのは、足立区花畑にある元和9年のもので、これより9年前の建立である。青面金剛は、病魔・悪鬼を払う庚申信仰の本尊として祭られる。猿は庚申の神の使いとされ、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿は、そのようなつつしみ深い生活をすれば、神の恵みを受けられるとされた。
 庚申信仰は中国の道教から生まれ、60日ごとにめぐる庚申(かのえさる・十干十二支の組合せ)の夜は、人が眠ると、三尸(さんし)の虫がその人の体からぬけて天に昇り、天帝にその人の罪を告げて命を縮めると説かれた。これが仏教と融合して我が国に渡来し、古来の天つ神を祭るおこもりの習慣と結びついた。
 江戸時代に、特に盛んになった民間信仰で、庚申の夜は講の当番の家に集まり、般若心経を唱え、和やかな話合いで一夜を過ごした。また、祭神も猿田彦神・塞の大神=道祖神であるとの説もある。
(文京区教育委員会)

文京つつじまつりのつつじが苑
(2007年4月撮影)

つつじが苑

文京つつじまつりのつつじが苑
(2007年4月撮影)

 日本武尊が千駄木の地に創建したと伝えられている。現在地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重の山手屋敷跡であり、のちに6代将軍となる徳川家宣の誕生の地であった。5代将軍徳川綱吉は家宣の産土神として宝永3年(1706)に千駄木にあった社をこの地に移して、社領500石を附し、権現造の社殿を造営した。
 社殿は拝殿・本殿と両者を接続する幣殿(相の間)からなり、しかも一の屋根でまとめ、権現造の完成された姿を見せている。拝殿前に唐門を配し、その左右から透塀で社殿を囲んでいる。唐門前方の楼門を含め、権現造神社建築様式の旧規を示すものとして全て国指定重要文化財である。
 祭神は須佐之男命、大山咋命、誉田別命、大国主命、菅原道真公である。
 境内には 「家宣の胞衣塚」(区指定民俗文化財)、「塞の大神碑」 などがある。
(文京区教育委員会)

 6代将軍家宣の胞衣(えな)を埋めた所と伝えられ、十数個の割り石が雑然と積み重ねてある。 この根津神社の境内は、もと5代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文2年(1662)4月25日ここで生まれた。 胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。我々の祖先が、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方向をみて埋めるという所もあった。 一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。 この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。 塚正面には、明治14年(1881)に建てられた 「胞衣塚碑」 があり、徳川家宣胞衣塚の由緒を伝えている。また、家宣の産湯の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。 家宣が将軍綱吉の後継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。
(文京区教育委員会)

明14年(1881)の胞衣塚碑

徳川家宣胞衣塚(えなづか)

 この塞の大神碑は、もと通称駒込の追分(向丘1-1)にあった。ここは現在の東京大学農学部前で、旧中山道と旧岩槻街道(旧日光将軍御成道)との分岐点で追分といわれた。
 この追分は、日本橋から一里(約4㎞)で江戸時代一里塚のあった所である。今も角店は江戸時代か続く老舗の高嶋屋である。この高嶋屋よりに一里塚があり、榎が植えられていたが、明和3年(1766)に焼け、その跡に庚申塔が置かれたが、これも文政7年(1824)の火災で欠損した。
 その跡地に、この塞の大神碑が、明治6年(1873)に建てられた。同43年、道路の拡幅のため、碑は根津神社に移され、現在に至っている。礎石に移転の事情が刻まれている。
 塞の神は邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る神で、道の神とも道祖神とも言われる。
(文京区教育委員会)

塞の大神

乙女稲荷神社
 宝永3年(1706)根津神社がこの地に遷座した後、「つつじが岡」 の中腹に穿たれた洞に祀られた社で、古記録には 「穴稲荷」 とある。霊験あらたかと崇敬者多く、参道には鳥居の奉献が絶えない。現在の社殿は昭和31年に奉建されたものである。

駒込稲荷神社

 根津神社が千駄木村より遷座する前、この地は6代将軍の父徳川綱重公の山手屋敷であった。その屋敷の守り神として、寛文元年(1661)に祀られれた古い社である。綱重公は他の江戸別邸、桜田屋敷・三田屋敷・浜屋敷(今の浜離宮)にも同じ稲荷を祀っており、浜離宮内の祠は当所同様今も残っている。

 

駒込稲荷神社本殿

駒込稲荷神社神門(拝殿門)

駒込稲荷神社

拝殿に掛かる乙女稲荷社の扁額

乙女稲荷神社拝殿

千本鳥居

楼門(随身門)

神橋

根津神社社標

庚申塔など石造物6基

乙女稲荷神社鳥居

根津神社本殿

西門

拝殿に掛かる根津神社の扁額

吽形の狛犬

阿形の狛犬

根津神社拝殿

唐門(神門)

300年程前真鶴産本小松石の一枚岩から切出して造られた手水石

手水舎

茅の輪

国宝表示屋型板

本殿・幣殿・拝殿・唐門

宝永7年(1710)の伊賀国主従四位下侍従藤原姓藤堂和泉守高敏と刻まれた青銅製燈籠

宝永3年(1706)の根津権現石燈籠

乙女稲荷神社本殿

楼門に掛かる根津神社の扁額

舞殿

随身像

随身像