メニュー
前へ   本郷追分~川口元郷(川口宿) 次へ   玄蕃新田(大門宿)~

日光御成道   (川口元郷(川口宿)~玄蕃新田(大門宿)


令和4年8月15日(月)   ☁|☀    川口元郷~玄蕃新田    12.0㎞
7月は安定しない空模様が続き、8月に入り台風8号が過ぎ去ったあとは気温が高く、外出するのも躊躇いがちであったが、今日は曇りがちながら、時折、陽も射す予報だったので、前回(R4.7.10)の続きで、川口元郷から先に進むこととした。

川口元郷駅 旧田中家住宅 薬林寺 朝日氷川神社
川口元郷駅は地下駅で、地下2階が改札階で、地下3階がホーム階となっている。出口は2ヶ所あるが、街道の左手にある2番出入口から街道へ出た。 川口元郷駅から450~60m程先の右手に旧田中家住宅が建っている。この建物は、煉瓦造り3階建ての洋館を中心とした洋風住宅で、国の重要文化財に指定されている。田中家は代々長男が家督を相続して 「徳兵衛」 を襲名し、現在の建物は4代目徳兵衛が建てたものである。 旧田中家住宅から350m程進むと、左手筋奥に真言宗智山派の瑠璃山薬林寺がある。薬林寺は、宥鎮和尚が開山で、当初芝川の畔にあったという。その後、天正年間(1573-92)に岩槻城が落城した際兵火に遭い、当地へ移転したという。街道の入口には、不動堂、庚申塔があり、境内には 「岡の薬師」 と呼ばれる薬師堂のほか、観音堂、不動明王像、子安観音像などがある。 街道に戻って250m程先の吉祥寺通りを左折すると、左手に朝日氷川神社がある。当社は、天正年間(1573-93)に此の地に再建されたといわれ、樋爪村・十二月田村・前田村・二軒在家村の鎮守であった。明治40年に近郷の稲荷社を合祀している。境内には、稲荷神社、須賀神社、大国神社の末社のほか、厄落としの厄割石、ご神木の大銀杏などがある。

街道並み 神社 実正寺 鳩ヶ谷大橋
現在の国道122号(岩槻街道)には、かつての日光御成道の面影は全く感じられない。 先に進むと南鳩ヶ谷駅の手前の左手筋に小さな神社がある。中を覗いてみると、聖観世音菩薩立像と小さな社が安置されている。 神社から直ぐ先の南鳩ヶ谷駅交差点を右折して200m程入ると、左手に真言宗智山派の光照山無量寿院実正寺がある。実正寺の創建年代等は不詳であるが、僧宥賢が中興したといわれている。境内には、寛文5年(1665)の阿弥陀庚申塔のほか、登都路稲荷大明神碑、西国秩父坂東廻国供養塔、如意輪観音などの石造物がある。 街道に戻って250m程進むと、新芝川に架かる鳩ヶ谷大橋がある。新芝川は上流の青木水門より下流の名称であり、それより上流は芝川である。新芝川は下流で荒川に合流している。

松原晴嵐の碑 旧道分岐 源永寺 鳩ヶ谷宿碑
鳩ヶ谷大橋を渡って程なく、左手に東京電力パワーグリッド株式会社鳩ヶ谷変電所があり、入口の植栽の中に松原晴嵐の碑が建っている。往時は、川口宿からこの前を通って鳩ヶ谷宿に至るまで松や杉の並木が続いていたという。 鳩ヶ谷変電所前交差点で国道122号と分岐し、右手の県道105号(さいたま・鳩ヶ谷線)に入って行く。 旧道に入って300m程先の三ツ和T字路交差点を右折すると、450m程先の左手に真言宗智山派の無量山安養院源永寺がある。源永寺の創建年代等は不詳であるが、江戸時代初期の荒川の瀬変えにより当地へ移転したと言われている。境内には、観音堂のほか、水子地蔵尊、普門品供養塔、五輪塔、宝篋印塔などの石造物がある。 街道に戻って進むと県道34号(第2産業道路)との交差点の中央分離帯に 「ここから北鳩ヶ谷宿」 と刻まれた大きな石碑が建っている。鳩ヶ谷宿は、天保14年(1843)には家数217軒、本陣・脇本陣各1軒、旅籠16軒であった。現在も江戸時代の町割りが残り、近年、旧宿場町の歴史を掘り起こすなど整備が行われている。

紀伊殿鷹場定杭跡 宿村境 古民家 千住道
鳩ヶ谷宿に入って50m程先の右手に 「紀伊殿鷹場定杭跡」 案内板が建っている。鳩ヶ谷宿から北は御三家の紀伊徳川家の鷹場に指定されており、この地に高さ3.9mの鷹場定杭が建っていたという。 紀伊殿鷹場定杭跡の街道を挟んだ斜向いに 「宿村境」 案内板が建っている。案内板には、「江戸時代の宿村境、←辻村・鳩ヶ谷宿→、辻村は平柳領、鳩ヶ谷宿は舎人領でした」 と記されている。 宿村境から50m程先の右手に古民家の保坂家が建っている。鳩ヶ谷宿に相応しい情緒ある建築物である。 古民家保坂家の北を通る筋が千住道であり、案内板には、「日光街道の千住宿(現足立宿)へ行く幹線道路です」 と記されている。この案内板は㈱吉田燃料店の前に設置されており、傍らには、見沼代用水完成の51年前に流れていた用水に架けられていた石橋(とんぼ橋)の遺構が保存されている。

蕨道 稲荷神社 吹上橋 一里塚跡
千住道が日光脇往還を横断して北西に向かう道が蕨道であり、この筋角に案内板が建っている。案内板には、「蕨道→、中山道の蕨宿へ行く幹線道路でした」 と記されている。 蕨道・千住道の交差点から直ぐ先の昭和橋交差点の右角に稲荷神社がある。小さな神社で狭い境内であるが、鳥居の傍らには昭和橋の親柱と力石が安置されている。 昭和橋交差点から100m程先に見沼代用水東縁に架かる吹上橋がある。見沼代用水東縁(ひがしべり)は、埼玉県上尾市瓦葺にある瓦葺調節堰から舎人堰水門に至る灌漑農業用水路である。吹上橋の袂には、「日光御成道と鳩ヶ谷宿」 案内板が建っており、かつての見沼代用水の写真なども掲示されている。 吹上橋の渡詰めの街道両脇に一里塚跡がある。一里塚の遺構は残っていないが、かつて存在した辺りに一里塚跡標柱が建てられている。一里塚には榎が植えられており、日本橋から5番目の一里塚であった。

宮道 御成坂公園 千手院跡 鳩ヶ谷宿本陣跡
一里塚跡の直ぐ先左手筋が宮道であり、この道を進んで鳥居を潜ると氷川神社である。今回、この道は進まず、街道の坂道を上って参道途中から行くこととした。 坂道に入りと直ぐ先左手に御成坂公園があり、からくり時計、日光社参行列のモザイク画などがある。残念ながら、「日光御成道のみちすじ」 案内板は、文字や絵などが剥がれて見えない状態である。 御成坂公園の街道を挟んだ斜向かいの日本生命の前に千手院跡がある。千手院は、昭和45年(1970)に坂下町へ移転するまで、この場所にあり、山号を鳩井山と号する曹洞宗の寺院であった。ここには鳩ヶ谷宿案内板が建っており、大正初期の写真などが掲載されている。 千手院跡の直ぐ先の藤屋洋品店のところが鳩ヶ谷宿本陣跡である。現在地に遺構は残っていないが、藤屋用品店の北側に案内板が建てられている。なお、本陣の建物は、鳩ヶ谷駅の西方にある真光寺の本堂として移築されている。

氷川神社 北西酒店 市場杭跡 高札場跡
鳩ヶ谷宿本陣跡の街道を挟んだ向かい筋を入って行くと、先にあった宮道に合流して氷川神社二の鳥居前に出る。氷川神社は、応永元年(1394)の創建と伝えられている。本殿は元禄年間に再建され、慶長5年(1600)には徳川家康が奥州出陣の際、境内で休憩したと伝わっている。境内には、近郷にあった稲荷神社、古峯神社、浅間神社、三峰神社などの境内社がある。 街道に戻ると直ぐ左手に趣のある北西酒店がある。左側の蔵と店舗は、国の登録有形文化財として指定された昭和初期の建築である。 北西酒店の北側の筋に市場杭跡がある。この杭跡は、4本あった三八市の市場杭で西南側の一本である。この杭が建つ筋は、氷川神社への入口にもなっている。 直ぐ先の本町ニ丁目交差点の鳩ヶ谷商工会の前に高札場跡がある。遺構は残っていないが、案内板が建っており、「現在、旧浦寺村で2枚、旧小渕村で1枚の高札が発見されています。いずれも、江戸時代が終って間もない明治維新の直後の慶応4年(1868)に、太政官から出された高札ですが、高札は、これを最後に廃止されました。」 と記されている。

市場杭跡 市神社 法性寺 小谷三志旧宅跡
高札場跡の直ぐ先、左手の筋角に市場杭跡がある。案内板には、「江戸時代中頃から、鳩ヶ谷宿では毎月3と8がつく日の月に6回の市が立ちました。市の日には、近在から雑穀・土物・青物・飼葉・茶・藁・灰などの出店が並び、大変賑わう有名な市で、明治時代以降も出店が500軒以上も並ぶ盛況を極め、宿内に4本あった市場杭は、市の開催日毎に出店できる範囲を示していました。」 と記されている。 市場杭跡から30m程先の右手に市神社が建っている。市神社は、天保9年(1838)に奉られたと言われ、神社の軒下には 「市神宮」 の扁額が掛かり、市神さまの前には野菜果物が供えられている。 市神社から100m程先の左手筋に法性寺大門入口案内板が建っており、この筋を入って行くと坂道を下った所に曹洞宗の玉龍山法性寺がある。法性寺は、江戸城を築いた太田道灌が開基となり、天台宗の寺院として文明8年(1476)に創建されたという。その後、明応7年(1498)僧震龍が再建し、曹洞宗に改めたという。境内には、一石六地蔵尊、普門品三萬巻供養塔、青面金剛の庚申塔などの石造物がある。 街道に戻ると直ぐ先左手に小谷三志の旧宅跡がある。案内板によると、小谷三志は、鳩ヶ谷宿の問屋役を勤める傍ら、富士山の神を信仰する富士講の指導者でもあったという。二宮尊徳とも親交があった三志は、天保12年(1841)75歳で亡くなり、桜町の地蔵院に眠っているという。

重厚な蔵 宿村境 地蔵院 圓龍寺
小谷三志の旧宅跡の街道を挟んだ斜向かいに立派な旧家があり、街道に面して大谷石の重厚な蔵が建っている。 重厚な蔵が建つ民家から50m程先が、鳩ヶ谷宿と浦寺村の境であり、案内板が建っている。鳩ヶ谷宿は舎人領で、裏寺村は赤山領であったという。 先に進むと桜町五丁目交差点の右手奥に真言宗智山派の箱崎山錫杖寺地蔵院がある。創建年代は不詳であるが、聖武天皇の時代より1100年の歴史があるという。境内には、観音院、十三仏堂、不動堂のほか、地蔵菩薩立像などの石造物や、本堂裏に高さ20m程のタブノキ(川口市指定天然記念物)がある。 桜町五丁目交差点の地蔵院入口前から北東に進む道が越谷道で、日光街道越谷宿への幹線道路である。日光御成道は、桜町五丁目交差点を直進していく。桜町五丁目交差点からは緩やかな下りの道となり、300m程先でやや上り坂となる右手の民家前に祠がある。祠には、稲荷大明神の石碑が祀られている。

子日(ねのひ)神社 多宝院 氷川神社 宝蔵寺
坂道を上りきって先に進み、新井宿駅交差点を過ぎると、右手に子日神社がある。子日神社の創建年代等は不詳であるが、新井宿村が西新井宿村から分村した江戸時代初期に創建したといわれている。拝殿には草鞋が奉納されており、境内には、天神社・稲荷社・山王社の合殿、伊勢太々講中碑などがある。 子日神社の北側に隣接して真言宗豊山派の戒光山多宝院がある。多宝院の創建年代等は不詳であるが、子日神社の由緒に記されたように、江戸時代は子日神社の別当を勤めていた。街道に面して地蔵堂があり、境内には、川口市指定有形文化財の道標を兼ねた文字庚申塔、青面金剛の庚申塔、宝篋印塔、石燈籠などの石造物がある。 子日神社の街道を挟んだ向い側に氷川神社がある。氷川神社の創建年代等は不詳であるが、子日神社と同様、江戸時代初期に創建されたと言われている。文久元年(1861)に本殿が改築され、同3年(1863)には拝殿が改築されたと伝えられている。境内には、雲井神社・天満宮の合殿、稲荷神社の境内社のほか、小御嶽神社、伊勢参宮紀念碑などの石造物がある。 氷川神社の北側に隣接して真言宗豊山派の青龍山無量寿院宝蔵寺がある。氷川神社の由緒に宝蔵寺は、「風土記稿」 に 「寛文2年(1662)6月8日寂せし源海という僧より以上の世代を伝えず」 とあることから、江戸初期の創建と考えられる。本尊は大日如来で、境内には平和観世音菩薩、弘法大師一千五十年供養塔、一石六地蔵尊、青面金剛の庚申塔などの石造物がある。

首都高速川口線 東京外環自動車道 真乗院 木曽御嶽塚
街道に戻って進み、400m程先で首都高速川口線の高架下を潜って行く。 更に550m程先で東京外環自動車道の高架下を潜って行く。 東京外環自動車道の高架下を潜ると、直ぐ右手に真言宗智山派の長久山真福寺真乗院がある。真乗院の創建年代等は不詳であるが、享保13年(1728)の徳川吉宗の日光社参の際、御小休所として利用されたといわれている。境内には、川口市指定有形文化財の道標を兼ねた地蔵菩薩、青面金剛の庚申塔、三面の馬頭観音などの石造物がある。 街道に戻って300m程進んだ右手にやや小山となった所があり、小山の中腹に祠が2つ、小山の頂上に3体の石像が安置されている。ここは木曽御嶽山に関わる祭神を祀った木曽御嶽塚と思われる。塚上の中央は御嶽山座王大権現、右が八海山提頭羅神王、左が三笠山刀利天宮と思われる。

妙延寺 一里塚ポケットパーク 本行寺 身代わり不動尊
木曾御嶽塚から500m程先の新町交差点を右折すると、左手に真言宗智山派の妙延寺がある。妙延寺は、境内の由緒書によると、寛延2年(1790)当地で病で倒れた女性の供養のため 「女郎仏」 として祀ったのが始まりと云う。女郎仏は、昭和28年に妙延寺と称して宗教法人になったという。境内には、一面六臂の青面金剛の庚申塔、成田不動尊碑、馬頭観音などの石造物がある。 街道に戻って400m程先で細い水路を渡り、その先で川口市道幹線50号線を越えて進むと、信号十字路の右角に一里塚ポケットパークがある。遺構は残っておらず、公園内に案内板があるが、風化して文字は全く読めない。ここは江戸から数えて6番目の戸塚一里塚跡で、往時は道の東側に松、西側に榎が植えられていたという。 一里塚ポケットパークの先の戸塚支所西交差点を右折して行くと、右手に日蓮宗の正立山本行寺がある。本行寺は、永正2年(1505)、小宮山弾正の家臣嶋根左近が開基、鎌倉の本行院住職であった叔父の日正上人により開山されたという。境内には、浄行菩薩、慈母観世音菩薩、老樹愛護碑、芭蕉句碑のほか、天皇陛下の御名代賀陽宮様のお手植え山紅葉などがある。 街道に戻り500m程先でJR武蔵野線を越え、最初の信号交差点を左折すると、右手に不動明王像と地蔵菩薩立像が建っている。傍らには、六地蔵尊、一面六臂の青面金剛の庚申塔、三猿の庚申塔、南無阿弥陀仏名号碑などの石造物がある。

諏訪神社 大門小学校入口交差点 大門神社 大門宿本陣跡
街道に戻ると150m程先の右手に諏訪神社がある。諏訪神社の創建年代等は不詳であるが、境内には、境内社の御嶽神社、不動堂、判読できない石碑などがある。なお、当社は、安永5年(1776)の徳川家治と天保14年(1843)の徳川家慶の日光社参の際、将軍の小休所になっている。 諏訪神社の先をどんどん進み、途中、右に下る道とのY字路があり、更に進んで諏訪神社からは凡そ1㎞程先で、右手から来る越谷街道が合流する大門小学校入口交差点を左折していく。この辺りは、既に大門宿に入っていると思われる。 大門小学校入口交差点から程なく、右手に大門神社がある。大門神社の創建年代等は不詳であるが、住吉十二所社と称し、旧大門村、下野田村の鎮守として下野田に鎮座していたと言われている。明治40年に近在の十社を合祀し、社号を大門神社と改称した。境内には、円福寺から移築した愛宕神社、御嶽神社、浅間神社、天神社、稲荷神社の境内社がある。 街道に戻って300m程進むと、右手に大門宿本陣跡がある。大門宿の本陣は会田家が勤めており、会田家は本陣のほかに宿の問屋や名主、紀伊徳川家の鷹場鳥見役なども勤めていた。現存する本陣の表門は長屋門形式で、元禄7年(1694)に建立されたという。

大門宿脇本陣跡 大興寺 東北自動車道 浦和料金所
続いて左手に大門宿脇本陣跡がある。この脇本陣表門は、本陣表門と同様、長屋門形式であり、規模も本陣表門とほぼ同じである。脇本陣表門の創立年代は不詳であるが、安永5年(1776)第10代将軍徳川家治の日光社参に合わせて建てられたものと言われている。 先に進むと300m程先の東北自動車道の手前右手に、真言宗智山派の慈眼山観音院大興寺がある。大興寺の創建年代等は不詳であるが、境内には、鐘楼、行基作と伝わる如意輪観世音を祀る観音堂のほか、徳本上人の南無阿弥陀仏名号碑、青面金剛の庚申塔、地蔵菩薩、聖徳太子碑などの石造物がある。 街道に戻り、直ぐ先で東北自動車道を跨いでいく。 東北自動車道を跨いで、その先で国道463号(越谷浦和バイパス)の鶴巻陸橋(西)交差点で今回の街道歩きは終了し、最寄りの浦和美園駅に出て帰宅の途に就いた。

前へ   本郷追分~川口元郷(川口宿) 次へ   玄蕃新田(大門宿)~