富士山は水神や火山神のやどる霊山として古来から人々の信仰を集めてきました。室町時代、富士山へ登拝すると数々の災難から逃れることができると人々から堅く信じられるようになり、富士山への参詣を通じた富士信仰が形成されてきます。
 富士講は、こうした信仰を背景に江戸時代、関東地方を中心に都市や村落社会に結成された庶民の慣習的な信仰団体です。
 講による富士信仰の基礎となったのは、江戸時代初期に江戸市中で呪術的な医療活動によって流行り病の治癒につくした畫行藤仏(かくぎょうとうぶつ)(長谷川武邦)という修験道系統の修行者の活動です。また、中期には村上光清や食行身禄(じきぎょうみろく)(伊藤伊兵衛)といった富士信仰中興の修行者があらわれます。特に身禄は、幕府の政治・経済政策の混乱、封建制の身分秩序による人々の苦難が、「弥勒の世の実現」 という富士信仰思想によって救済されると述べ、これを男女の平等や日常生活の上で人としての守るべき規範の積極的実践という考え方から説き起こしていきます。
 こうした考え方は社会秩序の混乱や男女差別・身分的差別に苦しむ当時の人々に広く受け入れられ、各地に富士山の登拝できない人々のために遥拝所として富士塚が築造されるにいたりました。十条富士塚も、このような富士塚の一つで、江戸時代には毎年5月晦日と6月朔日、現在では毎年6月30日と7月1日に富士山の開山にともなう祭礼が催され、露店が立ち並び、数多くの参詣者を集めています

 岩槻街道は、江戸時代には日光御成道と呼ばれていました。歴代の将軍が、家康をまつる日光東照宮に参詣し、年忌法要を営むために通る専用の道でしたので、このように呼ばれました。また、江戸と城下町岩槻(埼玉県)とを結ぶ街道であったので、岩槻街道とも呼ばれていました。本郷追分(文京区)で中山道と分かれ、北区を縦断し、岩淵から川口へは荒川を船で渡ります。将軍の通行の時には、荒川に仮橋が架けられ、この渡り初めを岩淵の子供達が行なったといいます。街道は、川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻を経て、幸手で日光道中と合流しました。江戸から幸手まで、12里30町(約51㎞)でした。将軍の通行は大行列で、将軍に直接供奉する者だけでも2千人を越え、沿道の村々では、これらの荷物を運ぶため大量の人馬を負担させられました。
 一方、日光御成道は、川口の善光寺で阿弥陀如来の開帳が催されると、そこへ参詣する江戸や近傍の人々でも賑わうようになります。文政2年(1819)4月、善光寺を訪れた帰路、ここを通った村尾正靖は、このあたりは豊島・神谷・川口の付近を眼下に望むことができ、遥かに江戸川や国府台が遠望できたといっています。同11年4月13日(旧暦)善光寺の開帳に行くために通った十方庵敬順も、この付近は北から南に見晴しが良い場所とし、ここから雲雀の飛ぶ姿をみて初夏の颯爽とした気分を紀行文にあらわしています。

富士講と富士塚

日光御成道

園内から見た中十条公園門