近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現清水建設)の清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。
 建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ、壁は淡いクリーム色の西京壁で、落ち着いた渋い表現となっている。応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香盧の名は、バンガロ―の音に当てはめ、渋沢自作の詩 「菊花晩節香」 から採ったといわれる。
(説明板より)

 丸芝を挟んで本邸・西洋館と対した築山にあった亭(あずまや)です。「六角堂」 とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えていたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。
(説明板より)

 渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇格した祝いに、門下生の団体 「竜門社」 より寄贈された。渋沢の収集した 「論語」 関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
 外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋 「違い柏」 と祝意を表す 「寿」、竜門社を示す 「竜」 をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
(説明板より)

晩香盧

青淵文庫

山形亭跡

 飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一のい自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は 「旧渋沢庭園」 として公開されています。
 渋沢栄一は明治34年から昭和6年に亡くなるまでの30年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は、現在の本郷通りから 「飛鳥山3つの博物館」 に向かうスロープを上がった付近に出入口となる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれらの建物は昭和20年の空襲で焼失してしまい、大正6年竣工の 「晩香盧」 と大正14年竣工の 「青淵文庫」、この2棟の建物のみ 「旧渋沢庭園」 内に現存しています。「晩香盧」 は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして、「青淵文庫」 は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で、清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監修しています。当時の世界的なデザイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成17年、「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香盧・青淵文庫)」 として2棟が重要文化財(建造部物)に指定されました。
(北区教育委員会)

渋沢翁のテーマパーク王子飛鳥山案内図

渋沢栄一像

飛鳥山灯籠

旧渋沢家飛鳥山邸説明