江戸時代、ここは稲付村と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅搗唄は、住民が昔から餅を搗くときにうたった作業唄で、現在は、毎年2月の初午祭のときに道灌山稲荷講の人達によってうたい継がれています。
 餅は正月を祝って鏡餅として神棚に供えるとともに、これを雑煮にして食べたり、祝い事や保存食に使うためにも搗かれました。稲付の地域では、餅を搗く際に、臼のまわりに何人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵を次々と振りおろして餅を練ったり搗いたりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵餅練唄、餅を搗くときにうたったのが稲付千本杵餅搗唄です。唄は、大正12年(1923)9月の関東大震災の前後まではズシ(辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(催合)と呼ばれる相互扶助的な慣行によって家々を回り、一晩かけて餅搗の手伝いをするときにうたわれました。しかし、米屋が餅の注文を取るようになると餅を搗く機会が次第に失われ、モヤイによる餅搗唄も姿を消していきました。
 昭和40年前後、赤羽西2丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって、静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とする道灌山稲荷講の人々が初午祭に際して餅搗唄を伝承するようになり、今日に至っています。
(東京都北区教育委員会)

宝篋印塔

宝篋印塔

弘法大師一千百年遠忌法会記念碑

天明2年(1782)の地蔵塔

納骨堂壁面に埋め込まれた寛文10年(1670)の如意輪観音

真正寺坂方向から見た納骨堂

木々の間から望む普門院本堂

本堂前から見た納骨堂

植栽に隠れた普門院本堂

参道口に建つ餅搗唄説明

龍宮門内の六地蔵尊

境内から見た龍宮門(山門)

道灌稲荷社拝殿

鉄筋コンクリート造の龍宮門(山門)

山門脇の道灌稲荷社