この所は凡そ350年前の元和の頃から、駒込辻のやっちゃば、或いは駒込の土物店と呼ばれて神田、千住と共に江戸三大市場の一つとして昭和12年まで栄え続けた旧駒込青果市場の跡である。その昔この辺一帯は百姓地で、この碑の近くに5つ抱え程のサイカチの木があって、斎藤伊織という人がこの木の下に稲荷神を勧請して、千裁稲荷と唱えて仕え祀った。近隣のお百姓が毎朝下町(青物を売りにゆく途すがら、この木の下で休憩するのを常とした。その時たまたま買人があるとその斎藤氏が売り買いの仲立ちをした。そのことが市場の始まりであると天栄寺創草記に明らかにされている。その頃この所は中山道白山上から間道をもって岩槻街道に通じる辻で、御高札場や番屋それに火の見櫓などがあり、辻の要路であったので漸時西側の天栄寺門前、東側の高林寺門前から浅嘉町一帯にかけて青物を商なう店が軒を並べ、他の商家と共にすこぶる繁盛したのである。とりわけこの市場は幕府の御用市場でもあった。明治10年、府令によって駒込青果市場組合という名称で組合が出来たが誰も市場などと呼ぶ者はなく、辻のやっちゃばとか、土物店と呼び親しんだものである。
土物店とは青物の多くが土の付いたままなのでそれに相応しくつけられた名称である。その後、明治34年警視庁令によって青物取扱者だけ高林寺境内に移され営業を続けてきたが、大正12年の関東大震災の時には類焼を免れたので組合員と小売商とが相計り、数日にわたって義摘、慰問、炊出しなどして罹災者の救済に尽力した。このように、城北最大の市場として繁栄していたが、中央卸売市場法により、昭和12年3月25日、現在の豊島区巣鴨にある豊島市場に収容されたのである。
過ぐる太平洋戦争によって、旧駒込青果市場のあった界隈も戦火に遇って全く昔の面影さえとどめず、世人の記憶からも今や忘れられようとしているのを惜しむの余り、浅嘉町の方々と市場関係者共々相図って、ゆかりのこの地におよその由来を碑に刻み、後世に残すものである。
神田および千住とともに、江戸三大市場の一つであり、幕府の御用市場であった。
起源は、元和年間(1615~24)といわれている。初めは、近郊の農民が、野菜をかついで江戸に出る途中、天栄寺境内の 「さいかちの木」 の下で毎朝休むことを例とした。すると、付近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが起こりといわれている。土地の人々は、「駒込辻のやっちゃ場」
と呼んで親しんだ。また、富士神社一帯は、駒込なすの生産地として有名であり、なす以外に、大根、人参、ごぼうなど、土のついたままの野菜である 「土物」
が取引されたので土物店とも言われた。正式名称は、「駒込青物市場」 で、昭和4年(1929)からは、「駒込青果市場」 と改称した。
街道筋に点在していた問屋は、明治34年(1901)に高林寺境内(現駒本小学校の敷地の一部)に集結したが、道路の拡幅などで、昭和12年(1937)豊島区へ移転して、巣鴨の豊島青果市場となって現在に至っている。
(文京区教育委員会)
駒込土物店(つつものだな)跡説明
参道口に建つ駒込土物店跡碑
駒込土物店縁起碑
江戸三大青物市場遺跡碑
天栄寺参道
地蔵菩薩立像
本堂に掛かる地久山の扁額
天栄寺本堂