元享2年(1322)、豊島郡を支配していた豊島氏が、熊野の方向を望む石神井川沿いの高台に、紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し、若一王子宮として祀られるようになりました。これにより、村名が岸村から王子村に改められ、王子という地名の由来となりました。また、石神井川がこの地域では音無川と呼ばれているのも紀州の地名に擬したとの説があります。
 王子神社は、豊島氏に続いて領主となった小田原北条氏からも寄進を受け、江戸時代には、徳川家康が社領として200石を寄進しました。これは、王子村の村高の3分の2にあたります。別当寺は、王子神社に隣接していた禅夷山金輪寺で、将軍が日光社参や鷹狩の際に休息する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は将軍家と関係が深く、三代将軍家光は社殿を新造し、林羅山に命じて 「若一王子縁起」 絵巻3巻を作らせて奉納しました。家光の乳母である春日局も祈願に訪れ、その後も、5代綱吉、10代家治、11代家斉が社殿の造営修繕をし、境内には神門、舞殿などを備え、摂末社も17社を数えました。
 紀州徳川家の出であった8代吉宗は、紀州ゆかりの王子を度々訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。
 この後、花見の名所となった飛鳥山や王子神社周辺は、江戸近郊の名所として多くの人が訪れるようになります。特に、7月13日に行われた王子神社の祭礼は 「槍祭」 とも呼ばれ、小さな槍を買い求める人や田楽躍を見物する多くの人で賑わったことが見物記などから伺えます。
 明治時代に入ると明治元年(1868)、准勅祭社となり、東京十社に選ばれ東京北方の守護とされました。
 戦前の境内は、「太田道灌雨宿りの椎」 と呼ばれた神木をはじめ、多くの樹木が茂っていましたが、戦災で焼失したため、境内に現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは、戦災を逃れた貴重な文化財です。戦後は、氏子一同により権現造の社殿が再建され、現在の景観に至っています。
(東京都北区教育委員会)

関神社の手水石

髪の毛にご利益のある神社で、「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」 で有名な蝉丸法師が祀られている。

関神社拝殿脇の毛塚塔

御神輿宮殿

境内末社の関神社

重量550㎏の御神輿

王子神社拝殿

王子神社石鳥居

手水舎

王子神社由緒