長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から 「吉祥」 の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」
と称したのがはじまりという。
天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
僧侶の養成機関として旃檀林(せんだんりん)(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称された。
(文京区教育委員会)
明治2年(1869)~明治41年(1908)。大阪の生まれ。名は亮(あきら)。小説家。東大を中退して尾崎紅葉や山田美沙と交わり、硯友社に参加。また
「文学界」 同人とも交わる。明治28年には社会批判を含んだ 「書記官」 などの作品を発表する。後年、自然主義を取り入れようとするが行き詰まり、ついに自ら命を絶った。
(文京区教育委員会)
小出浩平先生顕彰歌碑
碑面に 「こいのぼり」 の音符が刻まれている
川上眉山の墓
茗荷稲荷神社
お七・吉三郎 比翼塚
二宮尊徳の墓
花供養塔
六地蔵尊
縁結び吉祥観音
この観音像は、中国唐代の聖観世音菩薩像を日中国交回復10周年を記念して、文革後伝統技術作興のため中国政府が特に呉永金氏に復原謹作させ、北京市建築芸術彫塑工房より招来されました。
日中の文化交流の縁結びの因縁より、ひいては世の諸々の人の良縁を示現される観音像であります。蓮華と荷葉を御手に持たれたお姿で勝縁尊縁が衆生に開示されて、やがては見事な吉祥の大きな仏果功徳をお授けくださる尊容を敬礼供養し、世界平和、社会安寧、山門鎮静、檀信徒各家祖霊追善、福徳万寿無量の仏徳が好因を結び、大吉祥威ならんことを願い造建を発願いたしました。
経蔵一棟 区指定有形文化財(建造物)
江戸時代、この寺は曹洞宗の修行所栴檀林として知られ、経蔵は図書収蔵庫であった。現在の経蔵は、焼け残った旧経蔵の礎石をもとに、文化元年(1804)古い決まりによって再建されたものと考えられる。
旧経蔵は、貞享3年(1686)に建造し、安永7年(1778)に焼失と伝えられる。昭和8年(1933)に大改復を行った。
屋根は、桟瓦葺、屋根の頂に青銅製の露盤宝珠をのせた 「二重宝形造り」 である。外側の各所に彫刻を施し、意匠と技術に粋を凝らした見事なものである。
蔵内に、経典を収蔵する八角形の転輪蔵が置かれている。建造物としての価値とともに、東京都内に残る江戸時代建造の経蔵として貴重である。
(文京区教育委員会)
山門に掛かる旃檀林(せんだんりん)の扁額
享和2年(1802)再建の吉祥寺山門
「童謡一路」 と刻まれた河村光陽先生記念碑
碑面に 「かもめの水兵さん」 の音符が刻まれている
吉祥寺本堂
鐘楼
本堂に掛かる諏訪山の扁額
文化元年(1804)再建の経蔵
各面に施された彫刻の意匠
大仏
縁結び吉祥観音
不許葷酒入山門碑
枝垂れ桜の参道
諏訪山吉祥寺寺標